よりみち文化財

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海と大地の灯火

2007年08月07日 | 遺跡・遺構
慶長本土居 福岡県 柳川市大和町

慶長本土居は慶長12年(1607)頃に築かれたものです。
「土居」というのは、こういった海岸の防波堤として築かれるもののほか、館や城などを守るような防衛のための土塁も「土居」と呼ばれます。
つまり、人の手で土を衝き固めてつくった土手が、「土居」です。

慶長6年に筑後国に入った田中吉政は柳川に本城を置き、領内の開拓を盛んに行いました。
この土居は慶長12(1607)年、大川新田~柳川~大和~三池郡渡瀬まで、当時の有明海沿岸に築かれたもので、長さは32㎞あります。ただ、今ではそれと分かる部分はわずかなようです。
当時ここで海水の浸入を止め、その内側の干潟や湿地帯は広大な農地となりました。

写真はさきに紹介した海童神社ですが、このそばにも慶長本土居が通っています。
神社から川を挟んで続く土手がそれで、今は道路として使われています。



ここから土居に沿って北に数百メートルほど歩くと、ちょうど土居の上に石灯籠が立っています。「江越八幡海岸灯台」と名付けられている通りもともとはこの江越地域の人々が漁に出たときの灯台でした。川を下って有明海に出入りしていたため、日暮れ時にはその出入り口の目印としたのでしょう。
竿の部分に明治十二年の銘がありますから、当時のものは台座部分だけで、あとは明治時代に一度修理がなされたようです。
現地の案内板によると、台座の中には黒御影石で出来た御神体が奉納されているそうで、そこには、「正一位三九郎稲荷大明神、八大男龍神、八大女龍神、龍宮大神、正一位太郎稲荷大明神」と刻まれているそうです。
海の神と、農産物の豊穣をもたらす神の名前が同時にあるのは一見、不思議なように思えますが、いかにも海を開拓した土地での豊作を願うもののようです。

現在この灯台は神社の近くにあることもあり、いかにも神社の常夜灯のように見えますが、実は江越八幡のほうが建立は遅かった(享保15年・1730)のです。
いま、この付近は道路の建設工事が進んでおり、それに伴ってこの灯台も東南に数十m移動しています。もとは江越八幡の参道脇、写真の左下に写っている木の下辺りに有ったそうです。





もちろんここからはもう、海は見えません。その後幾度も干拓が行われて農地が広がり、海ははるか遠くなってしまいました。

ここを訪れたときは非常に暑い日で、見上げた灯台の背後には快晴の蒼い空が広がり、まるで目を降ろせばそこに海が見えるようでした。




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