本宮大社の大きな鳥居がここにあったことから大門王子と呼ばれることになったようですが、この大門王子は、「熊野行幸日記」などの記録には登場しません。
藤原定家は不寝王子から重点王子(十丈王子)の途中、山中に宿泊したとだけ記しています。
社の後方に石塔が2つありますが、現地の案内板によると、向かって右側が江戸時代、享保7年(1723年)に紀州藩が大門王子の跡であるとして建てたもの、左側が笠塔婆の塔身で鎌倉時代後期のものであるとのことです。
確かに笠塔婆の塔身とされる石の頂部には、笠の部分を取り付けるためのほぞのようなものが設けられています。刻まれた梵字は摩滅が激しく読み取ることはできません。
高原熊野神社から庚申さんを過ぎるとやがて木立のなかをぬける細い道を歩くことととなり、いかにも古道らしい風景となります。
熊野古道は木々の中に延々と道が続くという場所が多く、景色を遠く眺めることができる場所はそうありません。
時々分岐点に出くわしますが、どちらかに必ず「ここは熊野古道ではありません」という立て札があり、道を間違えることはないようです。
この大門王子にたどり着いたのが昼前の11時半で、結局、朝食も昼食もとらずひたすら歩き続けるというかなり無謀な旅になってしまいましたが、非常用にと持って来ていたカロリーメイトとリッツクラッカーが思わぬ助けとなりました。
そういえば昔、キャラメル一粒で何百メートルというのがありましたが、この後近露王子跡までは、クラッカー1枚でいったい何メートル歩けるかを試しているのかというほど、動けなくなれば1枚食べて、という繰り返しとなってしまいました。踏み出す一歩一歩が本当に重くなり、また身体中の力が抜けたようなだるさや手のしびれが延々と続き、まるで空気の薄い高山を歩いているかのようでした。
よりみち文化財 「熊野古道」記事