よりみち文化財

ちょっと寄り道して出会える、遺跡や石仏、史跡や鹿児島の田の神さぁを紹介

大地の生命力 ~祢地山の田の神さぁ

2008年02月26日 | 田の神さぁ
鹿児島県 薩摩川内市 樋脇町祢地山

『訂正』
記事を掲載時に、この田の神さぁのおられる場所を
「薩摩川内市 東郷町」
と記しておりましたが、実際には
「薩摩川内市 樋脇町」
であるとのご指摘を頂き、上記の所在地を訂正致しました。
ご指摘頂きましたかたには、本当にありがとうございました。
今後は、情報の正確さには充分注意したいと思います。
また、ご覧頂きました皆様には記述の間違いをお詫びいたします。




「祢地山」と当時のメモに書いてありました。
「ねじやま」
と読むのでしょうか。

国道267号から北に、水田の中の道路を尋ねていった記憶があります。

着物にももひきを穿き、右手に持っているのはメシゲ(しゃもじ)で左手のものは扇子のようです。全体的にやや赤い色をしているので、もとは赤い彩色がなされていたと思われます。
また、背に「寛政二年 奉寄進 戌四月八日」の銘があり西暦1790年、今から220年ほど前の造立であることがわかります。



子宝に恵まれ、子孫繁栄を願って男性の身体の一部を象った木像などを祭る祠は全国的によく見られるものですが、この田の神さぁはシキが半球状に表現されているのが特徴的で、後ろから見るとやはりそういった形を思わせます。
子孫の繁栄を田の神さぁに願ったものとも考えられますが、或いはこの田の神さぁに、子、孫へと続いていく生命の力のイメージ・神秘性を重ねたものであるのかもしれません。
毎年毎年、途切れることなく田圃が生命を宿して稲が成長し秋には豊作になりますように、と、大地の生命力の永続を願っているようです。

田の神さぁは、場所によって、つまりそれを奉った人々によって様々な願いやイメージが込められて、石像としての姿を現しています。
像高82㎝。



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小さな守り神 ~肥前狛犬

2008年02月22日 | 石仏
佐賀県内と福岡の一部の神社ではよく、
「肥前狛犬」
と呼ばれる小さな狛犬を見かけます。
その大きさや形態からすぐにそれとわかり、全国的に見られる狛犬像からすると明らかに異なる一群の狛犬像です。

神社の鳥居をくぐり、賽銭を投げ入れてから手を合わせる…ところで、
「こんなところに」と本殿の前に見つけてしまうこともあります。


本殿の前の肥前狛犬。(神埼市内で)
気が付けばこんなところに座っていました。

像高はたいてい30~35cmほどで、ほとんどが古い時代のものであるらしく、また風化による摩滅もあってそれほど目立ちませんが、しかしすぐにこのかわいらしい犬の視線に気が付きます。中国では獅子を表現していた像が、日本においては犬と表現されたのも、昔から日本人にとっては、時として番犬などのように生活を助ける犬がとても身近な存在であったのかもしれません。
神社の神様の、小さな守り神というのが似合いそうに思えます。

トップに貼った写真と、以下の写真は長崎街道沿いの神社(道祖神社-佐賀市道祖元町(さやのもとまち))で見つけた肥前狛犬です。


こちらは右側にすわっているほうで、位置から言えば「阿形」ということになります

像の小ささからか、参道の両脇ではなくより本殿の近く、本殿入り口の両脇に座っているのをよく見かけます。
参拝者からみると、足元に見下ろす形になるからだとも考えられますが、その表情は特に上面に表現されることが多いようです。一般的な狛犬よりも、前方上方を意識した彫刻となっているような気がします。





直立した両前脚の表現は、日本で最古とされる東大寺南大門の狛犬に似ています。
足元がコンクリート埋もれているのは、しっかりと固定しすぎのような気がしますが…。

肥前狛犬に記銘があるものは非常に少なく、制作年代は特定できない例がほとんどです。
佐賀は長崎が近く長崎街道沿いであるせいか、狛犬はいわゆる”唐獅子”も多いのですが、肥前狛犬はそういった狛犬よりも古くからあるとされています。
全国的に、神社を守る石像狛犬が多く作られ始めるのは江戸時代の中頃からと言われますので、
肥前狛犬の多くは、その制作時期が江戸時代の初めから中頃までと推定される、ということになります。



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地蔵前の地蔵さん

2008年02月20日 | 石仏
佐賀市八戸


地蔵前の地蔵さん

佐賀市内に「地蔵前」という場所があり、おそらく名前の由来は、昔このあたりに地蔵さんが奉られていたことによる地名なのだろうと想像していたのですが、つい先日その地蔵さんをやっと見つけることができました。

佐賀市街から伊勢町、長瀬町を経てこの八戸のあたりは、近世にちょうど長崎街道が通っていたところで、街道沿いには当時の武家屋敷門や商家の並ぶ古い町並みが見られます。



それで、自転車でこのあたりまで来るときはサイクリング感覚で、寄り道してでも走ってみることにしているのですが、この「地蔵前」というところは何度も通りかかりながら、今までその由来となったであろう地蔵様を見つけられないでいたのです。バスの停留所名を見ながら、「果たして“地蔵前の地蔵さん”はどこに居られるのだろう?」と気になっていました。
ところがこの日、道路にかかる橋の北側にちょっと見えている、昭和に入ってから造立された地蔵さんがそれであることがわかりました。
古そうな石仏が道端に奉られているのを見ると、自転車を停めてすぐに調べてみたくなるのですが、新しい造立に見える場合は、ちょっと頭を下げて通り過ぎるくらいで、それほど調べてみることはしないのです。
実はそのすぐ前に案内板が建てられあり、それによるとこの地蔵さんは当初、宝暦6年(1756年)に、ここからすぐ近くの長瀬町に住む鋳物師、谷口安左衛門兼品により鋳造された銅製の像であったそうです。しかし昭和19年に供出され、現在の地蔵さんはその後昭和29年に有志によって再建されたものであるということで、石像ですが色は銅に近く表現されています。

ところで、地名と言えば最近名前が変わった交差点があり、これもまた気になっています。
唐津市内の、名護屋城跡付近にある交差点ですが、「伊達政宗陣前」と交差点名の表示が信号機に取り付けられており、いつからかはよく覚えてはいませんが、ごく最近になってこれに変わったように思います。
おそらくこの北側にある林の中が、文禄・慶長の役当時の伊達政宗陣跡と思いますが、機会があればまた寄ってみたいと思います。



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二本の腕の千手観音 ~立石観音

2008年02月19日 | 石仏
唐津市相知町に千手観音、阿弥陀如来、薬師如来の三尊からなる磨崖仏があり、
「立石観音」
と呼ばれています。

相知町には有名な鵜殿磨崖石仏がありますが、それ以前の、さらに古い時代の作と考えられています。
県道259号線からの途中にこの「立石観音」へ続く崖伝いの細い道があり、ここの入り口には奈良朝以前の作との説明が書かれていますが、鵜殿磨崖石仏よりは遡るものの、やはり制作は平安時代後期(藤原時代)と思われます。

階段を上ったところは巨大な岩壁の前にある小さな平坦地で、もともとここは大きな洞窟があったのが崩れてしまって、その奥壁のみが残っているものたらしく磨崖仏の刻まれている部分は大きく傾斜しています。

ここに千手観音が刻まれているのですが、不思議なことに合掌する二本の腕のほかに腕は表現されていません。



光背の部分に彩色で描かれていたのかもしれませんが、その痕跡は確認できませんでした。
この像が千手観音とされるのは、十一面あると思われる頭上の仏面と、合掌手が表現されていることからだと思われます。
千手観音像は、十一面の仏面が頭上に表されることが多く、京都の妙法院(三十三間堂)や法性寺、奈良の唐招提寺の例が代表的なものですが、やはり数多くの手が表現されています。千本とまではいきませんが、たいていは左右あわせて42本(42臂)が作られます。



中央に位置する阿弥陀如来は、弥陀定印をむすぶ姿の坐像です。
蓮華の台座(蓮台)も下に彫り出されているのですが、この蓮台の蓮弁が葺寄式で古式であるということが制作時代を推定する根拠となっているようです。葺寄式、というのは蓮弁の並び方による呼称で上下に揃えて蓮弁が表現される、ちょうど屋根瓦を葺いたのと同じ具合に並ぶものを指し、平安時代後期にこの作例が多いとされています。



三尊のうち向かって左側は薬師如来です。
像の手や足元がややディフォルメされて描かれているのは、壁面の傾斜が理由のひとつでしょうか。
「案内板には、バランスのとれた像とはいいがたい」とありますが、現在の地面よりもう少し低い位置から見上げるようにして眺めると、それほど違和感を覚えないのかもしれません。
他の二尊像よる少し後の時代に制作された、と現地の案内板にはありますが、確かに雰囲気はちょっと違って見えます。やや顔つきがふっくらとしていて、却ってこちらのほうが京都の寺院でよく見られる平安時代後期の仏像に似ているような気もします。


「相知町史」には、長い間人知れず草木に埋もれていた、とありますが今は訪れる人もあるようで、多くの石仏が回りに奉られていて、岩壁には覆い屋までかけられています。


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道に迷って ~中シ山の田の神さぁ

2008年02月11日 | 田の神さぁ
鹿児島県湧水町

この田の神さぁの写真を見ると、思い出すことがあります。

この田の神さぁに出遭った日、鹿児島市内まで行く前に、湧水町内に寄るところがあったのです。ところがあいにく道に迷い、地図を見ながら…とはいっても山間部の林道がほとんどの場所で、携帯電話の電波もなかなか安定せず途切れがちになるなか、地図どおりにいかず焦っていたところ、「中シ山の田の神」という標柱に行き当たったのです。
時間に余裕がなかったものの、半ばあきらめかけて、というかどちらかというと、いつものよりみち精神もあって「ちょっと一息ついて落ち着こう」と考えて、寄ってみたのでした。

両手に持っているのはスリコギでしょうか。写真でははっきりとしませんが、眼は孤を描いたような表現がなされていて、笑っているのがわかります。
田の神舞い、というわけではなさそうですが、田の神さぁの性格がその表情に描写されており、ともすればただ直立しているだけにも見える姿に「動き」をも加えています。



ところで、「思い出す」のはここで出会った方に大変親切にしていただいたことです。
私が探している場所について、それならここからこう行けば良いと、散々考えてくださって道も詳しく教えていただいたのです。実は町内には他に同じ地名があり、それで迷っていたのです。
もうあきらめようと思っていただけに、それからまもなく待ち合わせの場所に到着した時は本当にありがたく思いました。

goo地図に現地の場所を示す地図がありますが、道に迷っていたこともあり場所は正確ではありません。だいたいの場所を表示しています。



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動かぬ本陣 ~姉川城

2008年02月09日 | 遺跡・遺構
佐賀県神埼市神崎町姉川上分

姉川城は正平15年(正平の元号は南朝暦。西暦1360年)、菊池武安により築城されたと伝えられ、その後姉川氏が城主となります。
現在確認できる城の範囲としては、南北118.5m東西は南側が90m、北側が53mと、平面形は南に向かって開いた台形となっています。


空から見た姉川城(現地案内板の写真より)


国道34号線を佐賀市内から東に向かうと、神埼市内に入って1.3㎞ほどのところで「姉川城へ700m」という小さな標識が道路の左手に見えます。
標識のとおり、その先を左折して北へ向かうと姉川城址に着きます。特に城郭らしい雰囲気もなく思わず通り過ぎてしまいそうになりますが、ちょうどダスキン佐賀工場の北側にある、クリークをめぐらせた集落とその周辺が姉川城址とされる場所です。
現地の案内板にある航空写真では、クリークに囲まれて島のように浮かぶ幾つもの曲輪が見え、この周辺が縦横に濠を巡らす還濠集落であることが手に取るようにわかります。
城址の中心付近とされる場所には現在も「屋形」という字名が残ります。案内板のある、現在天満宮が鎮座している場所からへ向けて陸橋状に延びる道の先にその曲輪がありました。
この曲輪の周囲には土塁が巡っていたらしいのですが、昭和の初めに耕地の開墾で削平されてしまったそうです。そのときに土塁の高さは約1間あったといいますから、もとはどれくらいあったのか分かりませんが遺構としての保存状態は非常に良かったと思われます。
姉川城址では、そのほかに「妙法寺」、「奥屋形」、「小路屋敷」等といった字名が濠の中の島々に残ります。
13世紀後半から17世紀にかけて使われた城郭で、中世の集落が城館へと発展する過程を分かる遺跡であるとされ、平成9年度から数回にわたり発掘調査により掘立柱建物の柱穴や門の跡等が確認されています。



天満宮のある曲輪。「屋形」とよばれる曲輪のすぐ南にあります。

姉川城といえば、龍造寺隆信による勢福寺城攻めの記録が思い出されます。
1559年に龍造寺隆信が、少弐氏の当主・少弐冬尚が本拠とする勢福寺城を攻めたとき、姉川城はその本陣となりました。
「九州治乱記」によれば、このとき龍造寺方として出陣した小田駿河守政光は、先陣として三千騎を率いて犬塚氏と共に勢福寺城を攻め、城に籠もる江上武種、神代勝利の軍勢と戦っています。
戦況が味方に不利となるのを見て、政光は何度も姉川の本陣に援軍を請いましたが、隆信が軍を動かすことはありませんでした。
というのも、小田氏は以前少弐氏の配下にあったことから、隆信は政光を敢えて先陣として戦わせ、もともと見捨てるつもりであったたようです。自分の軍勢に損害を出さず敵の戦力を削ぐためだったのでしょう。また、小田氏が再び少弐側について敵になることを恐れ、その窮地を助けなかったとも言われます。

政光は隆信の考えに怒り、最後に自ら敵陣に攻め込んで討死しました。
武術に秀でた政光は敵陣において多くの兵を切り伏せ、皆恐れて一時は近づく者がいなかったほどですが、四方から放たれた矢にあたり討死したと伝えられています。
軍勢を引き上げるという選択もあったかもしれませんが、政光は自らが討死することで隆信の疑いを解き、本拠地である蓮池城で帰りを待つ一族郎党を守ろうとしたのかもしれません。



結局隆信は、小田、犬塚の両軍が敗北した後ようやく軍勢を勢福寺城に進め、城を取り囲みます。
更に、この一件を知った小田氏の一族が後々まで龍造寺家を恨むであろうと考えた隆信は、戦の最中に軍勢の一部を割いて小田氏の本拠である蓮池城を攻め落としました。

もしかすると土塁の一部がわずかでも残っているのではないかと思い、屋形跡や天満宮の辺りを歩いてみましたが、それらしいものは見つかりませんでした。


引用・参考
「姉川城跡」神崎町文化財調査報告書第50集 神崎町教育委員会 1996





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