鹿児島県 姶良郡加治木町
江戸時代、薩摩藩では街道のことを「筋」と呼んでいました。
鹿児島城下を出て熊本方面に向かう「大口筋」の途中にあったのが、「龍門司坂」です。
寛永12年(1635年)に築かれ、元文6 年(1741年)に石畳が敷かれたようです。地元で採れる凝灰岩を敷き詰めてあり、幅は広いところで7m、平均で4mあって割合広く感じられ、ほとんど現代の道路と同じくらいの広さのように思います。
石畳は当時1,500mほどあったと考えられていますが、市街地とその周辺は舗装がなされて、現在は486mほどがいま山間部に残っています。
雨が降ったときは足元が滑りやすくなりますが、杉木立の中を歩いていくと、その苔むした石畳が何百年間も数え切れない人々が往来した歴史と、時間の長さを感じさせます。
人々は、どういう思いでここを歩いたのでしょうか。当時としては、はるか遠く他国の熊本まで続く道ですから、旅立ちもあったかもしれませんし、故郷へ帰る人も歩いたと思います。明治12年(1879)、西南戦争のときには総勢6000名が多くの人々に見送られながらここを通って熊本に向かいました。
坂を上ったところには、「さえずりの森キャンプ場」や、「陶夢ランド」等の公園があり、天気のいい日にはこの龍門司坂まで足を伸ばしてみるのもいいかもしれません。
最近、国指定史跡となりました。
(史跡の概要については現地の案内板によります)
江戸時代、薩摩藩では街道のことを「筋」と呼んでいました。
鹿児島城下を出て熊本方面に向かう「大口筋」の途中にあったのが、「龍門司坂」です。
寛永12年(1635年)に築かれ、元文6 年(1741年)に石畳が敷かれたようです。地元で採れる凝灰岩を敷き詰めてあり、幅は広いところで7m、平均で4mあって割合広く感じられ、ほとんど現代の道路と同じくらいの広さのように思います。
石畳は当時1,500mほどあったと考えられていますが、市街地とその周辺は舗装がなされて、現在は486mほどがいま山間部に残っています。
雨が降ったときは足元が滑りやすくなりますが、杉木立の中を歩いていくと、その苔むした石畳が何百年間も数え切れない人々が往来した歴史と、時間の長さを感じさせます。
人々は、どういう思いでここを歩いたのでしょうか。当時としては、はるか遠く他国の熊本まで続く道ですから、旅立ちもあったかもしれませんし、故郷へ帰る人も歩いたと思います。明治12年(1879)、西南戦争のときには総勢6000名が多くの人々に見送られながらここを通って熊本に向かいました。
坂を上ったところには、「さえずりの森キャンプ場」や、「陶夢ランド」等の公園があり、天気のいい日にはこの龍門司坂まで足を伸ばしてみるのもいいかもしれません。
最近、国指定史跡となりました。
(史跡の概要については現地の案内板によります)