よりみち文化財

ちょっと寄り道して出会える、遺跡や石仏、史跡や鹿児島の田の神さぁを紹介

龍門司坂(たつもんじざか)

2007年06月30日 | 遺跡・遺構
鹿児島県 姶良郡加治木町

江戸時代、薩摩藩では街道のことを「筋」と呼んでいました。
鹿児島城下を出て熊本方面に向かう「大口筋」の途中にあったのが、「龍門司坂」です。
寛永12年(1635年)に築かれ、元文6 年(1741年)に石畳が敷かれたようです。地元で採れる凝灰岩を敷き詰めてあり、幅は広いところで7m、平均で4mあって割合広く感じられ、ほとんど現代の道路と同じくらいの広さのように思います。
石畳は当時1,500mほどあったと考えられていますが、市街地とその周辺は舗装がなされて、現在は486mほどがいま山間部に残っています。
雨が降ったときは足元が滑りやすくなりますが、杉木立の中を歩いていくと、その苔むした石畳が何百年間も数え切れない人々が往来した歴史と、時間の長さを感じさせます。
人々は、どういう思いでここを歩いたのでしょうか。当時としては、はるか遠く他国の熊本まで続く道ですから、旅立ちもあったかもしれませんし、故郷へ帰る人も歩いたと思います。明治12年(1879)、西南戦争のときには総勢6000名が多くの人々に見送られながらここを通って熊本に向かいました。

坂を上ったところには、「さえずりの森キャンプ場」や、「陶夢ランド」等の公園があり、天気のいい日にはこの龍門司坂まで足を伸ばしてみるのもいいかもしれません。
最近、国指定史跡となりました。

(史跡の概要については現地の案内板によります)


末永の田の神さぁ

2007年06月29日 | 田の神さぁ
宮崎県 えびの市 末永

九州自動車道は、鹿児島の手前で少しだけ宮崎県内を通ります。加久藤トンネルの途中から宮崎県内に入りますが、トンネルを出たところで、ここが宮崎県えびの市であることを告げる道路標識が立てられています。その標識に、田の神さぁが描かれているのです。
ずっと、この田の神さぁは「田の神さぁのイメージ」で描かれているもの、と思っていましたが、実はモデルがありました。
「末永の田の神さぁ」です。
最近になって赤や白に塗られてはいますが、その祠の立派なことや、花が供えられていることから、人々に慕われていることが分かります。
鹿児島でもそうでしたが田の神さぁには、花が供えられているのをよく見かけます。それが、丹精込めて育てられた色とりどりの花であったり、近くに咲いている、季節の野の花であったりして、見ていてもうれしくなります。
ここを訪れた際は、ちょうど地元の方が掃除に来られていました。
末永の集落の北側に、圃場整備がなされた整然とした田圃が広がっていますが、田の神さぁはずっとその田圃を見守っておられました。




西田の田の神さぁ

2007年06月28日 | 田の神さぁ
鹿児島県 姶良郡 姶良町

週末、鹿児島は梅雨空でした。晴れ間が見えたかと思うとすぐに雲がかかり、雨となりました。

シキをかぶってメシゲを持ち、田の神舞を舞う田の神さぁです。雨に濡れていたせいか、彩色された赤い色が、いっそう目立って見えました。
田の神さぁには赤い彩色がよく見られますが、どういった意味があるのでしょうか。お祭り等めでたいものをあらわすのでしょうか、あるいは宴席で酒を飲んだ姿でしょうか。その華やかな色はなんとなく、豊作に喜ぶ秋が必ずやってくることを願い、それを祝う祭りの日の非日常を象徴しているようにも見えます。
表情やポーズも、江戸時代のものとは思えないほどのデザインです。
「文化二年」の銘があります(文化2年=1805年)

加治木町から10号線を西へ、弥勒交差点で右折して姶良町内で県道42号に入り、山田口から県道391号を1㎞ほど北へ向かうと、右側に立っておられます。
白く塗られた木製の目印が立てられています。




 

木崎原合戦場跡

2007年06月27日 | 遺跡・遺構
宮崎県 えびの市

九州縦貫道をえびのICで出て国道221号を西へ向かうと、文化センター前の交差点にでます。文化センターとは逆の方向に右折して南へ向かうと、やがて木崎原合戦場跡にたどり着きました。
もともと他の用事でここを通りがかったので立ち寄るつもりではなかったのですが、道路の脇に偶然古い石塔が見えました。
近くに車を停めて調べてみると「元亀二年」の銘があり「三角田」と彫られています。元亀年間という古い年号の古石塔はなかなかありません。この古石塔が本当に元亀年間のものかどうかはわかりませんが、これは近くに何かあるのではないかと思っていたら、「木崎原合戦場跡」の案内板と、駐車場が目に入りました。

「木崎原合戦」といえば、薩摩琵琶に同名の曲があり、弾奏を聴いたことがあります。戦の様子を物語る、迫力に満ちた曲でした。
元亀三年(1572年)5月4日、伊東勢3000と島津勢300が南九州における天下分け目の戦いを繰り広げた、激戦です。
島津義弘公率いる島津勢の勝利となりましたが、戦死者も多数となり、この近くには六地蔵塔が建てられて供養とされています。

写真は、伊東氏が陣地とした鳥越城の近くから、合戦場の中心である現在の池島神社があるあたり(北方向)を向いて撮影しました。
北には平野が広がりますが、背後(南・東方向)は低い山に囲まれています。少数の軍勢でありながら山頂に多数ののぼりを立てて、島津の援軍が大軍で来たと見せかけ伊東軍を驚かせた島津義弘の智略を、ふと思い出します。

現地には詳しい案内板もあり、宮崎県指定文化財となっています。


田の神さぁからの手紙

2007年06月25日 | 田の神さぁ
田の神さぁのすぐそばに、こんな案内がありました。

昭和62年に黎明館(博物館)で開催された、田の神さぁが一堂に会するという展示に参加(?)された折に地元の方に宛てた、田の神さぁからのメッセージです。
田の神さぁは、他の村(集落あるいは講)の人々が自分の所に「招く(盗る?)」ことを許されていたようです。(「田の神オットイ」と呼ばれます。)
その際には、その田の神さぁがいた集落(講)の人々に宛てて丁寧な手紙を残し、勤めが終わったらまた帰ってくることを約束したそうです。
実際、豊作をもたらす田の神さぁは人気があり、他の場所に出向くことがあり、、その目的を果たした後には、多くのお土産と共に元のところに帰ってきたそうです。

般若寺の田の神さぁ

2007年06月25日 | 田の神さぁ
鹿児島県 湧水町 般若寺

湧水町内の日枝神社の境内に、衣冠束帯姿で石段のそばにおられます。
「明和九天壬辰奉寄進」(明和9年=1772年)の銘が背にあり、手には笏(しゃく)を持つための穴が開けられています。田の神講など行事の際には、ここに木製の笏を持つ姿が見られたようです。

湧水町におられますが、この田の神さぁは、宮崎県えびの市や、鹿児島県大口市、菱刈町によく見られる田の神さぁによく似ていると、案内板にあります。
確かに、地理的には湧水町は、えびの市や菱刈町、大口市との行き来が容易で、えびの市では特に、よく似た神職姿の田の神さぁに出会います。

ここ般若寺は、建武3年(1336年)九州に落ちのびた足利尊氏が、再度の挙兵のための本拠としたところとされ、非常に由緒のあるところだそうです。この日枝神社から少し離れたところに、般若寺の伽藍の跡が残っています。

像高76cm。
県指定民俗文化財(昭和43年3月29日指定)





古城の田の神さぁ

2007年06月22日 | 田の神さぁ
鹿児島県霧島市横川町

舟形光背に烏帽子をかぶった田の神さぁです。
よく見ると田の神さぁに白いものがぽつぽつとついていますが、これは餅です。
このあたりでは、田の神さぁにあんこの餅を付ける風習が残っているそうです。この写真は正月を少し過ぎた頃に撮影したものですので、正月の頃、そういった行事が行われるのかもしれません。
「お供え」のように思われます。神様へのお供えといえば、皿に盛って手前に置くのを想像しますが、田の神さぁは人々にとって、ずっと身近な神様なのでしょうか。

県道50号線沿い、道の北側におられます。
すぐ近くに「停車場へ三里」という道標があり、この道は昔も変わらず人々が往来していたようです。

銘から、享和3年3月3日に建てられたことがわかります。




養母の田の神さぁ

2007年06月19日 | 田の神さぁ
日置市東市来町養母元養母

地名の養母は、「やぼ」と読みます。
「明和六巳丑十二月吉日 庚申講人数相中」の銘があり、明和6年(1769年)に造立の田の神さぁです。水田に囲まれた道路沿いに立っておられます。
冠を着けて笏を持ち、正装をした神職像ですが、神職像の田の神さぁには坐像が多く、その直立した姿と靴を履いているところは、中国大陸を思わせる雰囲気があるような気がします。冠や笏の形、それから衣服も、かなり正確に表現されていると思います。
表情はよくわかりませんが、眉のあたりが盛り上がったような表現がなされていることからすると、笑顔というよりは仁王像や十二神将像のような憤怒の表情であるようです。
豊作の妨げとなる悪天候や虫害を追い払うための憤怒相なのでしょうか。
明和6年の造立で、田の神さぁとしては古いもののひとつですから、石像として造られる田の神さぁのイメージが、田の神舞(「たのかんめ」と読みます)のひょうきんさや楽しさを表現するものとして定着していく以前のもののようです。
像高92㎝
県指定文化財(昭和43年3月29日指定)



紫尾田の田の神さぁ

2007年06月16日 | 田の神さぁ
鹿児島県霧島市横川町紫尾田

横川町 安良小学校の近く、岸壁の小さな洞穴におられます。少し高い位置にありますが、階段が設置されています。
衣冠束帯姿の田の神さぁとのことです。狩衣にも見えます。衣冠束帯というのは、冠をかぶり、袍(ほう)と呼ばれる上着をつけ、笏(しゃく)を持った姿、平安時代以降に宮廷での正装となった服装です。
昔の絵巻物などに出てくる、貴族が着ているものに近い服装です。
この田の神さぁは両手を組んでいるように見えますが、もともとは木でできた笏を両手で持っていたようです。

神社の境内にはよく、神職の像として同じような衣冠束帯の石像が見られます。
田の神さぁは、「御田之神」と銘が彫られていることもあるので、そういった神職像ではないことはすぐに判りますが、表情でもわかります。
多くの田の神さぁは笑顔です。この田の神さぁも、衣冠束帯という、堅苦しい正装でありながら口元が少し笑っておられます。その笑顔を見て、「もしかして、田の神さぁ?」だと思う方も多いでしょう。
田の神さぁは、いつも笑顔です。田の神さぁが「決して祟らない神さま」と言われるのも、そのせいかもしれません。
正保元年(1644)の銘があります。もともとは山中にあったそうですが、移転されて現在の場所におられるそうです。



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