よりみち文化財

ちょっと寄り道して出会える、遺跡や石仏、史跡や鹿児島の田の神さぁを紹介

高崎の田の神さぁ

2007年09月25日 | 田の神さぁ
鹿児島県 蒲生町 高崎

そろそろ収穫の時期でしょうか、夕日で稲穂が黄金色に輝いていました。
車を降りて道から田圃を眺めていると、ぽつんと田の神さぁが見えました。



像高約63cm、石材は凝灰岩で、近くの加治木町辺りに居られる田の神さぁと非常に良く似た石が使われています。

背中にはちゃんとワラヅトを背負っており、ここに造立年が刻まれています。元文四年の銘はちょうどシキの下で雨が当たらない部分となり、墨の跡が残っています。文字はまず墨で下書きをしてから刻まれたようです。(元文4年は西暦1739年にあたります。)
 
額の辺りにかかる髪や眉も墨で書かれています。やはりシキの下になって雨に流されるようなこともないようで、おそらく造立当時のものであると思われます。
四角い台座はコンクリート製で、当初からこの位置にあったものかどうかは不明です。保存の状態が非常に良いので、家々を持ち回りでまわる田の神さぁであったのかもしれません。



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人形注連ねり  ~上岩田 老松神社

2007年09月24日 | 伝統文化
↑写真は、人形注連ねりの行事が残る福岡県小郡市上岩田の老松神社。
牽牛の祀られた老松神社とは別にありました。

福岡県の小郡市にある七夕神社には、七夕伝説に登場する織姫が祀られています。
その七夕神社に立ち寄った際に、近くに牽牛を祭る牽牛社もあると聞いたので行ってみることにしました。
現在、牽牛社は「老松神社」に合祀されているそうです。

実は今日この老松神社に寄った際に、この地域に伝わる「人形注連ねり(ひとがたじめねり)」の行事が行われる「老松神社」を探しておられる方がいらっしゃって、神社の場所を尋ねられたのですが、私は牽牛社のあるこの老松神社がそれであると思い、ここのことでしょうと言ってしまったのです。
しかしその後、境内にはその「人形注連」を飾るはずの巨石が存在しない事も気になって、現地で調べてみたところ「老松神社」という神社は当地域に2つ有り、「人形注連」で有名な「老松神社」がさらに別の場所にあることが分かって、尋ねられた方には非常に申し訳ないことをしました。
その方がもしインターネットで検索されて、検索結果からこのブログを御覧頂けることがあればいいのですが・・・。
また、この「老松神社」や「人形注連ねり」に関して情報が必要な方がおられましたら、ここに情報と地図を掲載しておきます。


境内の巨石にかけられた人形注連

・老松神社
上岩田、井上、下岩田地域の氏神であり、ここがもとは神磐戸(かみいわと)と呼ばれたことから、上岩田の地名が起こったと考えられています。
祭神は菅原眷属神、高良玉垂命、住吉大神
この場所は神宮皇后の行宮の跡であるといわれ、延久2年(1070)に建てられたという本殿は、江戸時代に再建されました。

・人形注連
「人形注連」とは注連縄のことで、その形が人形をしていることからそう呼ばれています。その年に収穫された稲藁を使って作られます。
「人形注連」をつくる「人形注連ねり」の行事は現在、10月の第3日曜日に行われていますが、いつ頃からこのような注連縄を作るようになったかは明らかになっていません。
複雑な工程を経て作られる「人形注連」は、この地域で継承されてきた伝統文化でもあり、平成17年には小郡市の無形民俗文化財に指定されています。

引用:老松神社 境内案内板より


平成19年度の「人形注連ねり」は10月21に行われる予定だそうです。当日のスケジュールは小郡市役所のホームページに掲載されていますが、その記事については今のところ小郡市役所のモバイルサイトのみしか確認できていません。

【人形注連ねり】
平成19年10月21日(日曜) 老松神社において
・注連縄作り 8:30頃~
・神事 12:30頃~
・注連縄奉納 14:00頃~


小郡市役所モバイルサイト(「人形注連ねり」のページ)のURLは次のとおりです。
http://www.city.ogori.fukuoka.jp/mobile/event/10-2.htm



国道500号線を小郡市街から東へ向かうと、宝満川にかかる大板井橋を渡りますが、その大板井橋からは左手前方に鳥居が見えます。
自動車で移動の場合、この鳥居の前の道は非常に狭いのでこちらからではなく、国道沿いにある上岩田公民館の前に駐車したほうが無難です。公民館の前の広場はそのまま境内へとつながっています。






島津義弘陣跡

2007年09月20日 | 遺跡・遺構
佐賀県唐津市鎮西町

文禄・慶長の役に参加した島津義弘の陣跡は波戸岬の近く、後方に名護屋城を控えた半島の最先端付近にあります。
海に向かって丸く突き出したような地形で、北側に小さな入り江があるほかはほとんど断崖絶壁に囲まれています。この小さな入り江がもし当時からあったものであれば、小船の船着場として絶好の場所に思えます。
もし敵に攻められた時は最前線となる場所で、となりには秀吉の信任厚い五奉行の一人、増田長盛の陣もあり、島津義弘の働きに対する秀吉の期待があったのかもしれません。


海に面した場所の大部分は断崖となっています。

陣跡は現在山林となっており、足を踏み入れるには険しい場所もありますが、一部に石塁が残っています。
現在は陣跡の回りを一周する遊歩道が設けられており、そこを歩きながら林の中をのぞくと所々に石塁が見えます。
ただ、石塁の規模はあまり大きいものではなく、後世に畑などの区画として作られたものではないかという感じのものもありますが、この近くにある北条氏盛陣跡や徳川家康別陣跡など、ほかの多くの陣跡にもこの石塁と似たような遺構が多く残されているので、当時の遺構として間違いないように思われます。
前田利家陣跡の大手口には名護屋城跡に見られるような高い石垣がありますが、名護屋城を囲む陣跡のなかでこういった立派な石垣の例はむしろ少ないほうで、案内板には「前田利家が高度な技術を持った石工の集団を抱えていたことによると思われる」とあり、全ての諸大名が壮大な陣を築いて大軍を留まらせていたわけではないようです。




陣跡に残る石塁・石垣

秀吉の死後朝鮮半島の諸大名に撤退の命令が出されますが、島津義弘は明軍の追撃に応戦し、順天城に残る小西行長を助け、諸大名の中では最後まで戦場に残りながら朝鮮水軍の名将、李瞬臣を破って対馬に帰り着いています。
また、この後に敵味方を問わず戦死者の供養を行い「高麗陣敵味方供養塔」を高野山に建立しました。


陣跡北側の入り江から大陸の方向を望む


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川北 久保の田の神さぁ

2007年09月16日 | 田の神さぁ
鹿児島県肝属郡南大隅町根占町川北久保 

県道562号沿い北側に鬼丸神社のある小山が見えますが、その神社の登り口の近くに田の神さぁが居られます。

シキをかぶって右手にメシゲ、左手にスリコギを持っており、表情は微笑んでいるように見えます。動きが表現されているわけではないのですが、なんとなくこちらに向かって歩いて来そうな、或いは語りかけてきてくれそうな雰囲気があります。
ところで、耳の形が大黒天か、えびす様に似ているように見えますが、当時の人々が田の神さぁに抱いていた豊作・豊穣のイメージが、像をつくる際に現れたものでしょうか。



また、台座の格狭間(ごうはざま)にある楕円や丸い浮き彫りは、米俵を表現しているものと思われます。よく米俵の上に乗っている大黒天像を見かけることがありますが、そういったものが影響しているのかもしれません。
たしか現地には案内板があり、田の神像についての詳しい説明がそこに書かれていたと思います。

享保16年9月8日の銘があり古い像ですが、風化も少なく、また大切にお祀りされているように感じられます。

像高147cm (神像81cm、台座66センチ)


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秀吉の夢  ~肥前 名護屋城跡

2007年09月15日 | 遺跡・遺構
佐賀県唐津市鎮西町

豊臣秀吉が大陸への出兵拠点として天正19年(1592)から築いた城で、諸大名を動員して各所を担当させて築城を進めたことにより、大阪城に次ぐ大規模な城郭ながらわずか5,6ヶ月間という短期間で完成したと言われています。水手口から三の丸に向かう場所にある案内板には諸大名が割普請として建設を担当した建物が紹介されており、城内にどのような建物があったかが判ります。
文禄の役(韓国でいう「壬辰倭乱」1592~1593)、慶長の役(「丁酉倭乱」1597~1598)の際に、秀吉はこの名護屋城に一時滞在して指揮を執り、諸大名はこの城の周りに陣を築いて軍勢を朝鮮半島まで進めました。


三の丸から本丸の方向を見る

いま城内の石垣の各所は崩れていますが、これは江戸時代の初めに意図的に城を破壊したものです。1637年に天草で起こった島原の乱で、既に廃城となっていた原城に一揆の民衆が立て籠もったことも影響しているようです。

本丸までは、大手口、水手口どちらからも上れますが、山城だけあって、どちらから上ってもかなりの上り坂になります。
本丸にある天守台跡は玄界灘が一望できる高台で、「肥前名護屋城図屏風」に描かれた様子から、本来は現在よりも1~2m高い石垣があったとされ、当時五層七階の天守閣がここに聳えていたと推定されています。
この天守台の周辺からは金箔瓦が出土しており、現在ここに併設されている名護屋城博物館で見ることができます。

名護屋城では、城の東側にある上山里丸(秀吉が居住したと考えられている上山里丸は、現在城の東南側を通る道路沿いに出入り口があり、石垣や通路が復元整備されています)における茶室跡の発見や、天守台地下に玉石敷きの蔵のあったことが発掘調査において確認されるなど、毎年のように新発見があります。今年1月には築城途中で天守閣への出入り口の設計変更が確認されたことがニュースとなりました。
この設計変更については、秀吉の指示によるものではないかと推測されており、本丸内では一部に石垣の造り替え(発掘調査で確認されたそのままに、現地に保存・展示されています)があるなど他にも変更箇所が確認されています。


本丸大手口


天守台跡から玄界灘を望む

搦手口は本丸からは少し離れたところにありますが、ここの弾正丸(曲輪の名前は浅野弾正長政に由来するそうです。)は二の丸を構築する高い石垣も残っているところで、黒澤明監督の映画「乱」のロケが行われたところだそうです。

名護屋城は大きな城です。何度も訪れている場所ですが、歩いて回るには相当な時間がかかり体力も必要なので、訪れる度に「こんな場所があったのか」と思わされます。
つい先日訪れた時は、城の周りの草刈がされていて、その前は草に覆われていた石垣もよく見ることができました。
ここには、綺麗に復元された石垣も、当時積まれたそのままで、やや崩れかけた石垣もあります。
以前、私は中国・北京郊外の万里の長城(八達嶺)に行ったときに、完全に復元されて綺麗な状態の長城だけでは物足りなくて、その復元修理された部分の端まで、半ば崩れかけた長城を見にわざわざ歩いていったことがあります。
時間の流れ、を感じたかったからなのでしょうか、復元修理された長城も建築物としては確かに非常に立派なもので迫力があったのですが、完全に復元されたものにはなんとなく、当時長城に関わったの人々の存在感があまり感じられないように私には思われたのです。
ここの石垣の一部には、400年以上前の人々が確かにこれを積んで、時とともに崩れた或いは後の時代の人の手によって崩された、そのままを見ることができます。
一部では、石垣の中に込められた「栗石」と呼ばれる細かい石が見えるところもあります。
確かに石垣が崩れている、崩されているということは少し残念ですが、城の築造には多くの人々が携わったはずで、はるか後の現代においてその人々の働きを見ることができるのもこの城の魅力であるように思います。


櫓台の石垣(馬場~二の丸付近)


またこの城の周りには海岸に至るまでの半島部、または城の背後となる南側には、諸大名が本拠とした陣跡が130ほども知られています。
「陣跡通り」と名付けられた道路を波戸岬方面に向かうと、ところどころに石製の案内板が設置されていて陣跡のあることが分かりますが、道路わきにあってすぐに訪れることができる陣跡は少なく、現在は鬱蒼とした藪の中となっているところがほとんどです。

特別史跡(昭和30年指定)

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オフィス街に聳える町屋  ~適塾跡

2007年09月12日 | 建築
大阪市中央区北浜3丁目

大阪に到着後、市内中央区の北浜でレンタカーを借りることになっていたのですが、予定の時刻まではまだ時間があったので、近くにある「適塾」跡にちょっと寄ってみることにしました。

「適塾」は蘭学者・医学者である緒方洪庵(1810~1863)が天保9年(1838)医学や蘭学の教育を目的として開いた私塾で、洪庵が江戸幕府奥医師として召された文久2年(1862)までの25年間に福沢諭吉や大村益次郎、大鳥圭介、橋本左内、高松凌雲、佐野常民といった、明治維新からの日本を担った人材を輩出しました。
緒方洪庵は当時最先端の知識であった蘭学書の翻訳を精力的に行い、ベルリン大学教授フーフェランドの医学書を訳した「扶氏経験遺訓」や、日本で始めての病理学書「病学通論」など多数の著書を残しています。
また、優れた教育者であった洪庵のもとには、日本全国から千人もの塾生が集まり、時には佐賀、土佐などから藩主の命令によって入門する者もいたと言われます。

建物は、建坪が90坪の木造二階建てで、洪庵は弘化2年(1845)にこの家を買い取ったのですが、建てられたのは寛政4年(1792)に大阪で大火があった直後であるとのことです。
現在の建物はさらに昭和51~55年の解体修理により、洪庵が住んでいた頃の姿に復元されており適塾が開かれていた当時の様子を感じ取れそうな雰囲気です。

受付を済ませて休憩室の障子を開け、中庭を見ながら応接間を通って客座敷に入ると、庭(前栽)のほうから涼しい風が入ってきました。
ここは隣の家族部屋へと続く見学の順路なのですが、他に誰もいなかったので、畳の上につい腰を下ろして休んでしまいました。床の間の横にテレビが置いてあったので、映像による案内も時には上映されるのでしょうか。
洪庵が買い取った時には既に築50年ほどの建物でしたが、そのうち横になって眠ってしまいそうになるほど、200年たった今でも快適に過ごせそうな建物です。



二階
上がるというよりはよじ登るというような階段の先には塾生達が寝泊りした部屋(塾生大部屋)もあります。
もちろんここでのんびりすごしていたわけではないようで、一人あたり畳一枚分の範囲が割り当てられ昼も夜もなく勉強を続けたとのことです。
適塾では蘭書(オランダの書物)を読むのが第一の勉強であり、当然それにはオランダ語の辞書が必要になるわけですが、長崎の出島にいたオランダ商館長ヅーフが記した、「ヅーフ辞書」と呼ばれる蘭和辞書がたった一冊だけ適塾にあったのを大勢の塾生で奪い合って勉強をしていたそうです。この「ヅーフ辞書」は、「ヅーフ部屋」と呼ばれる部屋に今も展示されています。
また、塾生はオランダ語の書物を翻訳するアルバイトをすることで収入を得ることもあったらしく、1ページあたり10文ほどになったと説明文にあります。




また、適塾の塾生であり赤十字社の初代総裁となった佐野常民の記念館も現在、佐賀県川副町に開館しています。

適塾跡の建物のとなりには「公開空地」と呼ばれる公園があり、ベンチも備えられています。
適塾の建築を保護するために周りのビルを撤去した、と聞いていましたがこの公園がその場所でしょうか。さらにここから南へ歩いて5分もかからない場所に、洪庵が天然痘予防のために嘉永2年(1849)開設した「除痘館」の跡があります。
明治初年に適塾は閉鎖となりましたが、それから3年後の明治3年に大福寺が設立した医学校での教育に門弟達が参加しており、この医学校が現在の大阪大学医学部となります。

今回、地図ではただ一点で表示されているだけの史跡を訪ねて行ったのですが、ひととおり見て回って再び建物の前に出ると、適塾跡の二階建ての木造建築は見上げるような高層ビルの中に有りながら、そんなものよりはるか高みに聳え立っている、そんな気さえします。

国指定史跡(昭和16年指定)

開館時間:AM10:00~16:00 月曜日休館日(ただし祝祭日である場合は開館し、翌日休館)
参観料:一般250円
学生:130円
生徒:無料

掲載内容の一部は適塾案内の冊子からの引用によります。



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次回の更新は9月11日(月)以降になります

2007年09月07日 | Weblog
今日夕方から10日まで、関西方面に出掛けることになりましたのでブログの更新は少し先になります。
次回の更新は9月11日(火)以降になります。



岩堂磨崖仏 佐賀県唐津市北波多 上平野~成淵

お知らせのついでに、唐津市北波多にある岩堂六地蔵について紹介します。
岩堂六地蔵は唐津市街地の西側を通って呼子方面に向かう県道50号線沿いに有りますが、現在は道路の拡張工事に伴いもとの岩壁から切り取られて、現地に保存されています。
以前のような、庇の様に壁から突き出た岩に像が彫られていた様子はそばを通る道路からも目立っていて、また趣きもあったのですが、この岩が崩落するおそれもあったのでしょうか。
今はお堂が建てられて、一部はその中に祀られています。
この六地蔵の造立年代はわかりません。

龕の中に彫られているのは、「六地蔵」と呼ばれるとおり、地蔵菩薩です。
ひとつの龕に一体ずつが彫られ、合わせて6体ですが龕の間に縦に3体の像がある部分があり、それをあわせると全部で12体となります。
線刻ですが、特にこの記事の最初に掲載している像は、シンプルでありながら非常に特徴的で、(失礼ながら…)現在のデザインとしても注目されそうな新しさの失せない画であると思います。
手に持っているものは錫杖です。






岩の一部には、参拝者の名前が墨で書かれていたと、現地の案内板にあります。
お地蔵様はよく道端に立っておられることもあり、特に親しみを覚える方が多いのではないでしょうか。
ここもお堂の脇には掃除道具が揃えられており、私はよく前を通るのですが、いつも綺麗に掃除がされています。




















山の龍宮城 ~星巖寺 楼門

2007年09月06日 | 建築
佐賀県小城市小城町 大字畑田

この星巖寺の楼門は「龍宮造(りゅうぐうづくり)」、或いは「龍宮門」と呼ばれるもので、佐賀県内ではほかに武雄温泉の楼門(大正4年建築 重要文化財)がそうです。

「龍宮門」というのは『建築大辞典』によると、「上階は瓦葺きで高欄を付け、木造のままか丹、群青で彩色されるのに対し、下階は漆喰で塗り覆い、通路をアーチ形にしているもの。」とあります。

ほかに九州近辺では下関市 赤間神宮 水天門(1958年)、長崎市 崇福寺 三門が龍宮造で、関西や関東地方でも見かけるものですがそれほど多いものではなく、寺院や神社の門としては珍しい様式です。

この楼門は嘉永5年(1852)に建てられたもので、星巖寺は小城鍋島藩主の菩提寺であり、貞享元年に第2代藩主鍋島直能によって建立された寺ですが、現在はこの楼門と、藩主代々の位牌を納めた御霊所、五百羅漢像ほか数棟の建物が残るのみで江戸時代に並んでいた伽藍は無く、楼門のすぐ後ろは公園となっています。
この楼門もフェンスで囲まれた状態で保存されていて、アーチの中に入ったり出来ませんが、参道をまっすぐやってくると、その高さのせいでしょうか、非常に存在感があります。
下階は木造の建築に漆喰を塗ったものですが、漆喰の裾は斜格子状のなまこ壁となっていて寺院の門としては一風変わった建築に思えます。



妻部にある懸魚(げぎょ)は鷲を象ったもので、非常に珍しいものだそうです。

中国大陸を思わせる雰囲気があり、アーチのところに近寄ってみると、門をくぐると言うよりは、トンネルをくぐるという感じになるのでしょうか、背後に見える景色は山なのですが、浦島太郎のようにその先は別世界というイメージも浮かんで来そうです。
「龍宮造」、というのはその形が龍宮城の門をイメージさせるところから付けられた名前であると思いますが、そもそも龍宮城の門はこのような形である、というのはどこから来たのでしょうか。
浦島太郎のおとぎ話自体は丹後国風土記にある話が元となっているそうで、かなり古くからある物語のようですが、この話は挿絵のある「御伽草子」にも載せられているようなので、はっきりとしたことは判りませんが或いはその辺りからなのかもしれません。
確かに「龍宮城」といえば私もこういった感じの門のある宮殿を想像してしまいます。



アーチの上に勾欄(こうらん)のある建物が建つという形は、西安の鼓楼・鐘楼や雲南省大理古城の城門などをイメージしてどうしても海の向こうの大陸の風景と重なりますが、この門のすぐそばにある紅葉が紅くなるとどういう風景が見られるのでしょうか。
秋になれば、また訪ねて見たいと思います。

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聖地を守る憤怒の形相 ~鵜殿磨崖石仏群

2007年09月04日 | 石仏
佐賀県唐津市相知町

鵜殿磨崖石仏群(うどのまがいせきぶつぐん)の案内板には、まずこの磨崖仏が彫られた時のエピソードが紹介されています。

それによると、「唐に留学した空海が日本に戻ったときに、この近くの松浦で上陸し当地に立ち寄った。空海はすぐにここが中国の聖地にも劣らない霊場であると感じ、観音、弥陀、釈迦の三尊を岩に彫刻したところ、たちまち異様の人が現れ岩壁ごとに一切の菩薩や諸天(天部)をそこに刻み足して消え去った」とあります。

また、「唐に渡って仏教を学んだ一人である小栗栖常暁(おぐるすじょうぎょう)が、天長年間(830年代)にこの洞窟内に鵜殿山平等寺を建立し、その後835年には常暁の門弟が空海作の日光、月光菩薩を安置した。」ともあり、現在は巨大な岩壁が露天となっていますが、ここは以前大きな洞窟だったようです。

「天文年間(1540年代)に龍造寺氏との戦いの際に灰燼と帰し、」とあるのは、天文13年に龍造寺氏がこのあたりを攻めた時のことを指しているのでしょうか、激しい戦いがあったらしく、近くの厳木町内に山城跡が残る獅子ヶ城はこのとき落城しています。

元亀年間に地頭の久我印旛守が再建して明王院と号した後は、明治の初めまで寺があり、いま本尊は別の寺(妙香寺)に移されているそうです。



多聞天像

まず目に付くのは岩場の右手にある多聞天と持国天です。この二尊の間に本尊が安置されていたのでしょうか、中央が洞窟状に窪んだ岩壁に刻まれています。
向かって右側が多聞天、左側が持国天です。
二尊とも、動きのある足元と憤怒相は、像を見上げる参拝者にとって強烈なインパクトがあります。四天王像といえば、興福寺や東大寺戒壇院、教王護国寺の像が有名で、芸術的な美しさと安定感、リアルな表情などに歴史の重量感が加わって非常に印象的ですが、仏教を守護する四天王の威圧感を感じるのはこちらのほうでしょうか。鵜殿磨崖仏群の像は特に、「表情」を強く主張しているように思います。
もと天井の一部であったと思われる崩れた岩には不動明王も彫られており、まっすぐ持国天や多聞天のところへ行くと気が付かないのですが、参拝を終えてさあ帰ろうというところで振り返るといきなり睨み付けられます。坐像のようで、かなりディフォルメされていますが、表情はかなりリアルで、視線はまっすぐこちらを見ているようにみえます。


持国天像

また、岩壁にはところどころ、柱を固定したと思われる直径10㎝程の孔が穿たれており、岩に寄りかかるようにして建物が建てられていたことがわかります。
造立年代は研究者の間でも意見が定まらずはっきりとはわからないそうですが、平安時代から室町時代にかけてのもののようです。ほかに大日如来像、十一面観音像があり、
一度に全てが彫られたのではなく、時代と共に諸仏が彫り加えられていったようです。
佐賀は石仏が多いところですがこの時期のものは珍しく、像を見た印象では大分県内の磨崖仏(安心院町・楢本磨崖仏など)とよく似ているように思います。。

墨書の残る像もありますが、石の風化の具合からしても、どれもかなり長い年月がたっているように思われます。堂宇は既にありませんが、持国天、多聞天の二尊はいまも聖地を守り続けています

現地は天徳の丘公園内からすぐのところにあり、階段の上り下りが続きますが公園内の「天徳の湯」という温泉施設の駐車場から徒歩5分程度です。



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大出水の田の神さぁ

2007年09月02日 | 田の神さぁ
鹿児島県 霧島市 横川町

「大出水の田の神さぁ」と勝手に名付けてしまいましたが、本当はどう呼ばれているのかわかりません。
この近くに「大出水(おおいずみ、と読むのでしょうか?)」と呼ばれる水源があり、この田の神さぁと関わりが深いように思われるので、仮にそう名付けています。
現地の標柱には、「田の神」と書かれてあるだけです。

ここには神像が2体ありますが、どちらも田の神さぁのようです。
かなり風化しているのは石材の質によると思われ、龕のある岩盤とは違う石であるらしく、磨崖仏のように像を岩から彫り出しているのではないようです。
龕に祀られているところは、紫尾田の田の神さぁに似ています。

姿が少しずつ違うのは、造立された時期が違うというような理由からかもしれませんが、龕は2体分の幅があり、もとから2体が祀られたと考られます。ここに龕を彫って、他の場所にあった2体の田の神さぁを一緒にお祀りした、ということでしょうか。

銘はなく、造立年代はわかりませんが、えびの市、吉松町からこの横川町にかけて、神像タイプの古いの田の神さぁが多いので、案外古い田の神さぁである可能性もあります。

近くにある「大出水」というのは、水の湧き出るところです。
渓流のそばの岩盤に直径1mほどの丸く抉れた部分があり、そこから勢いよく水が湧き出ています(写真 下)。底が蒼い色をしているようで水は蒼く澄んでおり、とても冷たいので夏の暑い最中には、眺めるだけでもひどく涼しげに見えます。


大出水から湧き出る水が流れ込む渓流


大出水と呼ばれる湧水


おそらく、この周囲の山々から伏流水が集まってひとつの流れとなったのがこの川なのでしょう。
田の神さぁのすぐそばには、やはり山の岩盤を伝ってきた流れが川となっています。いつ、だれが作ったのか、この巨大な岩にトンネルが掘られて麓へと水が導かれています。


岩に掘られた川のトンネル。

田の神さぁは山中に隠されることが多かったり、稲の刈り入れが済む頃には山へ入って山の神になるとも伝えられますが、山間部の田圃では山からの水の供給も、重要であったようです。磨崖仏の影響も考えられますが、ここに湧水があることから、水を守る意味で田の神さぁが祀られているのかもしれません。

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