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よりみち文化財

ちょっと寄り道して出会える、遺跡や石仏、史跡や鹿児島の田の神さぁを紹介

紫尾の田の神さぁ

2012年01月06日 | 田の神さぁ

旅僧型(僧形型)の田の神さあであることは、同型の像とされる中組の田の神さあから想像できます。

廃仏毀釈の影響もあったのでしょうか。長い年月のうちに、かなり損傷を受けてはいます。

現状では高さ74センチそうですが、頭部を復元すると1メートル近くになるものと思われます。

鹿児島で田の神さあのところを訪れたときに、すぐに気がつくのは供えられた花でしょうか。榊であったり、お酒が置かれていることもありますが、どこでも、いつも綺麗な花があります。このときも、そばには何体かの石仏さんがおられましたが、やはりどれにもお供えがありました。関西に移住してからも、やはり石仏さんを探して歩くこともありますが、そういったところは少し寂しい気がします。

 背後には「御田神宝永乙酉2年十月~日」(~は判読できず)の銘文があり、この宝永2年(1705年)の銘が、最も古い田の神さあのひとつである根拠となっています。

現地の案内版によると、「刻銘のあるものでは県内で最も古いもの」とありますが、最近、紫尾田の田の神さあの造立年が正保元年(1644年)であることが明 らかとなったそうで、鹿児島県内で2番目ということになります。(私は紫尾田の田の神さあの銘文を実見してはいませんが、そうすると紫尾の田の神さあより 一気に60年ばかりさかのぼるものとなりますので、もう少し周辺の歴史的環境の裏付けがあればよいという気もします。)

同型の中組の田の神さあは宝永8年(1711年)の造立ですので、この頃、このあたりでは地蔵様の姿を田の神さあとしてイメージし、信仰されていたものと思われます。

県内で数多く造立されている田の神さあとして、文字通り田の神舞の様子を映した田の神舞姿の田の神さあがあげられますが、旅僧型(僧形型)の田の神さあはむしろこれとは逆に、もともと当時の人々が各々でイメージしていた田の神さあの姿を、それまで知られていた仏像等の姿にして表現した、ということになるでしょうか。

この紫尾の田の神さあは県道のすぐ脇に何体かの石像と並んで祀られていおり、案内板もあるので、見つけやすいと思います。

 

鹿児島県さつま町紫尾

 


中組の田の神さぁ

2012年01月05日 | 田の神さぁ

紫尾の田の神さあに次いで古い、と言われる中組(仲組)の田の神さぁです。

紫尾の田の神さあと同じ姿で、「旅僧型」と呼ばれ、一見「仏像に近い、」印象を受けます。

国道328号から東に入る細い道を少したどっていくと山裾に立派なほこらがあり、その中に祀られています。

たしか、国道からの細い道の入り口に、「中組の田の神」という標識が立てられていたと思います。

こ れまで、紫尾の田の神さあ(宝永2年、1705年の造立)が鹿児島県内で最も古いとされていたのですが、横川町紫尾田の田の神さあに「正保元年(1644 年)」の銘があることが判明したとのことで、紫尾田の田の神さぁが最古となったそうです。そうすると宝永8年(1711年)造立の中組の田の神さあは鹿児島県内で3番目の古さ、ということになります。

 

その古さが明らかとなっているのは台石に銘文が刻まれているからで、

「『梵字』奉造立田神大明神右旨五穀成熟諸人快楽講衆欽音宝永第八天二月吉日、山口村主取~」

とあり、~以下には造立に関わったと考えられる人物の名前があります。

現地の案内版には、「田の神講の人々は地蔵様を祀ってこれを田の神さまと、農神田の神様としたことがわかります。」との説明がありました。

銘文にある「五穀」といえば『古事記』にその起源が書かれた農作物、スサノオがオオゲツヒメから蚕とともに得た稲、麦、粟、大豆、小豆の五つを指して五穀というのが有名ですが、この銘文の場合は、とにかく農作物全般を意味しているものと思われます。

「欽音」の意味がよくわかりませんが、「諸人快楽」と前にあることからすると、よろこぶと言う意味の「欣」の意味でしょうか。似た字としては「欣喜」というのも思い浮かびます。

ま た、「講衆」とあるので、このときには田の神講か、その前身として何らかの講が関わっていたことと思われます。講に関わる人々が皆、石像を造るのですか ら、村の人々が協力し合うことが必要だったのでしょう。冒頭に書かれた梵字は「カ」であると現地の説明版にあります。「カ」の梵字は地蔵菩薩を表現する種 子ですので、お地蔵さんに似た姿であるのも、当時の人々が田の神さあに対して、お地蔵さんに似たイメージを持っていたからのでしょうか。

昭和41年3月11日に鹿児島県指定文化財となっています。

大正15年に国鉄宮之城線が開通したので、舟橋に立っておられたのを、こちらに移したとのことです。

宮之城線は昭和62年に廃止となっていますが、針持駅跡や薩摩永野駅のスイッチバックが残されているようです。たしか、上樋脇駅のホームの一部も、集落のなかにまだ残されていたと思います。

鹿児島県薩摩川内市入来町副田

 


田の神さぁの道しるべ

2008年11月01日 | 田の神さぁ
鹿児島県 薩摩川内市入来町

しばらくは鹿児島には行く機会もほとんど無いのですが、そういえば去年の今頃はよく鹿児島へも出掛けていたなぁ、と先日阪和自動車道を走りながらふと思い出しました。
確か去年の秋は稲の刈り入れもほとんど終わった頃に、宮崎県のえびのあたりから薩摩川内市まで、あちこち走り回っていました。
気ままなドライブ、というわけにはいきませんでしたが。

佐賀から鹿児島空港までは高速道路を使うのが便利ですが、そこから市内までは一般道でもわりあい渋滞の少ないルートをとれます。

ずっと走っているとやはり、いたる所で「あそこには確か田の神さぁがおられたなあ・・・」と、走りながら自然と思い出されてくるのも意外とおもしろいもので、退屈さも忘れてしまいます。
それにおそらくはとっくに忘れているであろうと思っていた道路でも、そこに立っておられた田の神さぁを思い出せば自然と思い出す、なんていうこともしょっちゅうです。
こういったふうに「道しるべ」のように憶えていた田の神さぁの写真を、ちょっとハードディスクの中から引っ張りだしてきました。



「中須の田の神さぁ」
薩摩川内市・市来町の交差点付近に立っておられます。
市内から川内市方面に出かけるときには、「ああ、この田の神さぁの近くの交差点を通って・・・」と道を思い出していました。
もちろん道路のすぐ傍で、寄り道するには迷惑駐車か、わき見運転になってしまいますから、時間に余裕のあるときにはちょうどすぐ近くにあるコンビニに寄って缶コーヒーを買い、この田の神さぁのところまでぶらっと歩いて来たこともありました。

明治二年三月吉日の銘があります。




「下名真角の田の神さぁ」
吾平町あたりでは最近、広くて新しい道がどんどん延長されつつあるようです。
町の市街地からあまりにもまっすぐに延々と道が続いているので、途中で、本当にこの道であっているのだろうか、と運転しながら不安になったことが何度もありました。
ほかの石灯籠等と一緒に、もともと別の場所にあったものがここに集められたようにも見えますが、目の前に田圃が広がっている様子は、もともと田の神さぁが立っておられたところといっても違和感がありません。
同じような顔立ちをした、シキをかぶり、メシゲとスリコギ(擂り粉木)をもった立ち姿の田の神さぁは大隈半島に多いので「大隈型」、と呼ばれます。
安永四年(1775年)の銘があります。



「祁答院 藺牟田 麓の田の神さぁ」
地図で見ると薩摩川内市 祁答院町藺牟田 麓、となりますが、詳しい地名までは分かりません。
「麓の田の神さぁ」と、勝手に名前をつけてしまっていますが・・・。
記念碑のある三叉路にちょうど、石碑の影に隠れるようにして立っておられます。祁答院辺りではよく他の場所と勘違いをして、道を間違えることも多かったのですが、この田の神さぁの居られる麓近辺はやはりよく憶えています。
いっぱいに飯が盛られた椀を持つ姿がよく記憶に残っています。

10月の初めから出かけることが多くなり、パソコンを持ち出して宿泊先からインターネットにつなぐこともありましたが、今日までしばらくブログの更新が滞ってしまいました。
また、書き始めたいと思います。



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鈴を持った田の神さぁ  ~野里の田の神さぁ

2008年09月26日 | 田の神さぁ

鹿児島県 鹿屋市 野里

この野里の田の神さぁは鹿児島県内の史跡を巡る、といったようなガイドブックでも紹介されているのでご存知の方は大変多いのではないでしょうか。



そんな有名な田の神さぁですが、訪ねて行ったときにはなかなかたどり着くことができずに、
「こちらか、あちらか、」
とこのあたりをさんざん走り回ったのを憶えています。

鹿屋市内でもこのあたりは田の神さぁが特に集中して居られる場所のようで、走り廻ったあげくに、その成果ともいえますが、近くで先に3体ほどの田の神さぁを見かけました。


横には水神碑があります。以前はこの周辺各所にあった田の神さぁや石碑をここに集めてお祀りしているのかもしれません。

像高が70センチですが、台石が大きいこともあってか意外と背が高く見えます。
石材表面に多少の風化はありますが、表情や持物がはっきりと分かり、視線や格好からは、いちめんの田のなかに「颯爽と、」立ち、見渡す限りを眺めておられるようにも思われます。
八角形の台石には各面に銘文があり、奉納者の名前や造立年が記されていました。
「寛延四・・・」と読めますから、造立は西暦1751年ということになります。


現地にはちょっと変わった形の石作りの案内板があって、そこには「鈴もち田の神舞型」の田の神さぁであり、大隈に同型の像が8体あるうちでは「最古である」と書かれています。
「鈴もち」とあるのは、左手に持っている、柄のようなものが付いた持物をさしているのですが、田の神舞の際に使用されたものでしょうか。

鈴というよりは錫・・・錫杖にも思われ、むかし修験道が盛んであったとされる高隈山の麓にあたるこのあたりでは、山岳信仰や山伏の存在も田の神さあの姿に影響を与えることもあったのでしょうか。


左手の「鈴」



ただちょっと残念なことに、この時は田の神さぁの目の前にコンクリート資材が積まれている状態で、これではさすがに背の高い田の神さぁでも、田圃がよく見えないかもしれません。



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田の神さぁの後ろ姿

2008年08月28日 | 田の神さぁ
鹿児島県 薩摩川内市祁答院町 馬頃尾

自転車で走っていて、あるとき田の神さぁの傍を通ったとしても、それと気付かないことがあります。
それは、田の神さぁがたいてい田圃の方向を眺めておられるからで、
道から見えるのは後ろ姿、ということになるからです。
特に自然石に彫り込まれた田の神さぁとなると、
石表面の風化も手伝っていっそう判り難く、そろそろ今頃は背の高くなった稲穂のなかで人知れずどすんと腰を下ろしています。




このときは祁答院の、たしか馬頃尾「まごろび」という場所だったと思いますが、通りがかりにそういった風化した石が田圃のそばにぽつんとあるのを見て、ひょっとしたらと思い石の反対側に回ってみると、やはり田の神さぁでした。

完全に田圃の方向を正面にしているのではないので、おそらくこの道を反対方向から走ってきたなら、遠くからでもすぐに分かったかもしれません。
それに、田の神さぁはこの祁答院あたりに多く見られるように、綺麗な化粧がなされていました。
昔は顔料を使ったと思われる塗料も、
現在田の神さぁに塗られているのは耐水性の、ちょっと光沢のあるペンキのような塗料です。
しかし、たとえ昔からこのような化粧でこうして立っておられたと言われても、不思議と違和感はありません。



内容の訂正
(2009年1月5日 「馬頃尾」の地名の読み仮名を訂正)








薩摩街道を通りかかって ~一條殿の田の神さぁ

2008年07月06日 | 田の神さぁ
鹿児島県 薩摩川内市 陽成町

写真は、薩摩街道、出水筋沿いの集落に立っておられる田の神さぁです。

鹿児島城下を出て熊本や宮崎にむかう街道を、以前は「薩摩街道」と言ったそうです。そのひとつ、城下から伊集院、現在の薩摩川内市を経て、阿久根市付近の海沿いから熊本県内へと延びる道は「出水筋」と呼ばれました。
現在はほぼ同じルートを県道が通っています。

その日は鹿児島市内から車で阿久根市方面に向かっていたのですが、薩摩川内市の陽成付近で「薩摩街道跡」という案内標柱がいくつか建てられているのに気づきました。
それには、現在の県道に沿って(ときおり県道に横切られて)この「薩摩街道(出水筋)」がところどころに残っているらしいことがが書かれています。

その薩摩街道を追いかけて、ついうろうろしているところでこの田の神さぁに出会いました。
一條神社のすぐ近くであり、地図で見る限りこのあたりは、地名を「一條殿」と言うらしいので、勝手ながら「一条殿の田の神さぁ」ととりあえず名付けてしまいましたが、地元ではどう呼んでおられるのでしょう?

上部が三角形になっているのは、社あるいはお堂を表現しているのでしょうか、屋根の付いた祠の中に田の神さぁがおられるようにも見えます。
向かって左側の縁辺に、「天保12年四月八日」の銘があります。(天保12年は西暦1841年にあたります。)時代はちょうど、老中水野忠邦による「天保の改革」の頃です。
こういった石碑の中に二体並んで彫り出されている田の神さぁは薩摩川内市内でよく見かけます。

関東地方や鳥取県に見られる「道祖神」の石像、とくに「双体道祖神」と呼ばれる、男女2神が並んで立っているものに姿がよく似ていると思うのですが、関東地方と何らかの文化的な繋がりがあったのかというところはわかりませんし、他の理由でこういった2体並ぶ姿で祀られているのかもしれません。
またこの田の神さぁの場合は、向かって右側の扇子を持った神様が男神であるらしいことは見当がつきますが、左側の、メシゲを持った神様は男神なのか女神なのかはっきりしません。


像高は、地表面から石碑の頂点まで計ると112センチあります。


一條神社

平安時代、一條天皇(在位986~1011)が新田神宮の夏越祭(なごしさい)に使いを派遣したことがあって、この使いの者が京に帰る途中この土地で薨じたことから、ここでその霊を祭ったのがこの一條神社のはじまりであるとの説明がこの神社の前に立てられた由緒にありますから、ここは古くからの交通路であったようです。

また、戦国時代の天正15年に豊臣秀吉が島津氏を攻めた際、その往路は地図上で見る限りこの出水筋に沿ったルートのように思われます。

江戸時代にはこの出水筋は参勤交代の道としても使われたそうで、現在の陽成小学校がある場所は藩主御茶屋跡であるとのことです。

田の神さぁは天保年間の造立でそう古くはありませんが、それから36年後に起こった西南の役では、この付近でも西郷軍と官軍の激戦が繰り広げられたようです。今この一條の田の神さぁが居られる場所も、官軍墓地のすぐそばにあたります。

本来は田の収穫を見守る田の神さぁですが、この一條の田の神さぁは街道沿いに立って人々の往来や大名行列、激しい戦を見続けてきたのでしょうか。

この近くでは、ほかに3体の田の神さぁを見かけましたが、やはり街道沿いで、まるで往来の人々を見守っているようにも思えます。




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祁答院町の田の神さぁ

2008年06月23日 | 田の神さぁ
鹿児島県 薩摩川内市 祁答院町

引越しで全ての荷物を移動したので、いまだに
「・・・あれはどこへしまったのか、」
という探し物がよくあります。

それがデジタルカメラの写真など、データの場合は、ハードディスクやCD、DVDのフォルダの中をを確認しなければならないことになり、意外と大変な作業になるのですが、時々、思いがけず懐かしい写真が入っていたりして、却って時間を忘れるような楽しさもあります。
そういったいきさつで見つけたのが、この、田の神さぁの写真でした。

おそらく「小牧の田の神さぁ」であったと思います。
薩摩川内市・祁答院町の、小牧あたりの道端で見かけて写真を撮らせていただいた記憶が、なんとなくあります。銘があったのかどうか、そのときのメモを確かめていないので、いつ頃の造立なのかわかりません。

身体の赤い色や、表情などは、ペンキによる彩色でした。
祁答院町内では、きれいに彩色された田の神さぁをよく見かけますが、大抵はお祭りの時に、地元の方々によって丁寧に化粧されることが多いそうです。





ところで、先日のニュースによると、熊野参詣道の箸折峠近くにある牛馬童子像が何者かによって壊された(像の頭部が破損)そうです。
牛と馬にまたがった童子像という珍しいもので、明治時代の造立らしくそれほど古いものではありませんが、それでも熊野参詣道(熊野街道)といえばよくこの童子像が登場し、参詣道のイメージを伝えるもののひとつとなっていました。
像の頭部は未だに行方不明とのことで、昨日も100人がかりの捜索があったらしいのですが、見つかったのでしょうか。
TVでは破損部分を保護するためにブルーシートをかけられた様子が報道されています。

参詣道は山道も多く、観光といっても体力が必要な場所もあります。
今まで訪れた人々はみな、ここで童子像の穏やかな表情に疲れを癒されたことでしょう。

残念でなりません。



石像「牛馬童子」壊される 熊野古道のシンボル(共同通信) - goo ニュース





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田の神さあ戻し ~祁答院町

2008年04月11日 | 田の神さぁ
鹿児島県薩摩川内市 祁答院町藺牟田

実はここ3日ほど鹿児島に居て、折りよく4月10日は祁答院町で
「田の神さぁ戻し」の行事があるということを聞きましたので、行って来ました。

一年毎に行われるこの行事は、田の神さぁが次の一年を過ごす家へ移動するという御祭りだそうで、田圃を眺めて立って居られる田の神さぁのほかに、各家庭あるいは新婚家庭を廻る、いわゆる「廻り田の神さぁ」と呼ばれる田の神さぁも多く、こうして「田の神さあ戻し」といった伝統行事と共に大切に伝えられているのです。



田の神さぁは、出発する家で綺麗に化粧直しをしてもらい、花で飾られた籠に載せられて次の一年を過ごす家へと向かいます。

ほら貝と鐘を叩く音に先導されて、女性が籠を担ぎ道中では田の神さぁを囲んでの舞いも披露されます。
舞うのは大きなメシゲを持ち、「ヘグロ」と呼ばれる炭を顔に塗って田の神さぁに扮した数人の男性で、袴や、たすきといった衣装も、田の神さぁ像によく見られる表現を映した姿です。




舞いの様子ももちろん面白いものなのですが、賑やかな舞と共に大切に運ばれる籠の上でにっこりと笑った田の神さぁの表情が、賑やかなことが好きな田の神さぁがまるで御祭りの日を待ちかねていたようにも思えて、見物の人々もまた、にこやか見守ります。


花かごで「田の神さあ」お引っ越し 薩摩川内市祁答院町の伝統行事(西日本新聞) - goo ニュース


 

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桜の景色を探していると・・・ 市野々の田の神さぁ

2008年03月22日 | 田の神さぁ
入来町市野々

桜もちらほら開花のニュースが流れています。

街をはなれた郊外の道路、というのは延々と続く田園風景も多く、ともすればちょっと退屈なことも多いのですが、鹿児島においては必ずしもそうではありません。
自転車でちょっと散歩に出かけることを「ポタリング」と言うそうですが、桜の景色を探しに出掛けたポタリングでも、集落の一角にときおり田の神さぁを見つけたることができ、自転車を停めて、田の神さぁのそばでついつい水筒のふたを開けてしまいます。



その日、市野々で出会った田の神さぁも、そんな田の神さぁでした。

田の神さぁはたいてい、笑った表情をしているのですが、もともとは凝灰岩などのやわらかい石材で作られている事が多いせいか、古いものになるとどんな表情をしてこちらを見ておられるのか分からない場合もあります。

像が彫られたときは、相変わらずの笑顔であったかもしれません。



像の傍らには「文化5年」(西暦1808年)の文字が刻まれています。
当時は整備された道路もありませんから、田の神さぁの前を通るこの道も道端に草花あふれる畦道であったかもしれません。
200年以上前、やはり旅人や子供達もこの田の神さぁの前でひとやすみしたのでしょうか。




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茄子田の田の神さぁ

2008年03月16日 | 田の神さぁ
鹿児島市花尾町
「茄子田…」というくらいだから茄子のように曲がった形の田圃を探せばよい、という考えは少し甘かったようで、この田の神さぁはなかなか見つけることができませんでした。やまあいの谷の田圃には、茄子形の田圃というのは至る所にたくさん有ったのです。



昨夜、テレビで放映された映画「UDON」を観るつもりで、結局は観そこねてしまったのですが、ストーリーのなかに「うどん屋を探すには、まず煙突を見つけろ!」というセリフがあったように思います。

田の神さぁを見つけるにはまずこれを、というコツもあればいいのですが…。

ただ、山道を抜けたときにぱっと田圃の風景がひろがれば、山すその高台を見廻せ、というところでしょうか。集落や講といった集団で、各家の持ちまわりでお祀りすることも多い田の神さあですので、公民館に居られる姿もよく見かけます。

その、なかなか見つけることのできなかった「茄子田の田の神さぁ」ですが、「茄子田」のバス停の近く、地元の集会所のそばに居られました。眺めておられるのは田圃ではなく、広々としたグラウンドですが、こんな眺めの良い高い場所に堂々と立っておられる田の神さぁはなかなか見かけません。

像高78㎝。左手にスリコギ、右手には一部が破損していますが、メシゲを持つようです。

案内板には「神職型立像」の説明がありますが、この田の神さぁの衣装は、特に袖のあたりは狩衣(かりぎぬ)と呼ばれる、神職の方がよく着ている服装を思わせる表現がなされており、おそらくこの姿から「神職型」と呼ばれるのでしょう。
ただ、気になるのは、メシゲ、スリコギを持ってシキを被るところです。神職型というと、たいていは笏(しゃく)を持つ、聖徳太子のような姿の田の神さぁを思い浮かべます(中竪梅木の田の神さぁ、紫尾田の田の神さぁ等)が、この田の神さぁは、まるで田の神舞を踊り出すかのような姿でもあるのです。

口を開けているのは、阿吽、の阿形を現しているからと言われます。
鹿児島県歴史資料センター「黎明館」の庭に、この「茄子田の田の神さぁ」のレプリカがあります。



像の後には、「二十三夜待」「講中敬白」、「宝暦三年」「卯月二十六」の文字が記されていますから、宝暦3年(西暦1753年)4月26日に、「二十三夜講」の人々によって造立されたことが分かります。

「二十三夜講」は、いわゆる「月待ち」と呼ばれる信仰や慣習で結びついた人々の集まり(講)であるとされます。
信仰といっても、集落の会合のような定期行事のようなことも多かったようです。何ヶ月かに一度、23日に集落の人々が集まって飲食をしながら、やがて空に月が昇るのを眺めるという、話を私の地元の近くでも聞いたことがあります。





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