よりみち文化財

ちょっと寄り道して出会える、遺跡や石仏、史跡や鹿児島の田の神さぁを紹介

戦国時代より   ~木田の薬師如来

2007年12月22日 | 遺跡・遺構
姶良郡加治木町 木田

九州道を鹿児島方面から熊本方面に走っていると、姶良町と加治木町の境あたりで道路の北側に、切り立った崖のある山塊が田圃の向こうに見えます。
高速道路は緩やかな右カーブとなっているので、この崖は自然と視界に入り見慣れた風景となっていましたが、先日偶然この崖のすぐそばを通ったおりに案内板が立てられているのを発見しました。
そこには「薬師如来像」とあります。
確かに、崖面の前に小さな堂が建てられ、薬師如来が祀られています。腕の部分は現存していません。もともとは高さが6尺(1.8m)あったとされています。


お堂の背後にある崖面の全景。樹に隠れていますが、お堂はこの写真の左側、案内板の後ろです。

現地の案内板によれば、
木造の薬師如来像胎内に納められていた文書には、「弘治三年 八月吉日」の制作年代や「深賢快重」という製作者名、また制作場所である「下木田村地蔵堂延命庵」ほか造立した願主の名前が記されていたそうです。弘治三年は西暦1557年ですから、意外と古いものです。また、このあたりの地名が木田ですから製作地となっている「下木田村」は、この近くであると思われます。「下木田村」は現在の地名(地区名)にはありませんが、延命庵のあった場所に後世實窓寺が建てられていることから、その實窓寺のある場所(加治木町木田 楠園)が製作地であると、案内板に説明があります。ここから南へ高速道路をくぐってすぐの場所です。
このただの崖面だと思っていたのが、昔信仰を集めた寺院の跡でした。崖面には磨崖仏が彫られていたか、仏像が納められていたようで、「龕」(がん)と呼ばれる四角い掘り込みがところどころに見られます。さらに堂の周辺には、凝灰岩の切石で整然と積まれた石垣があり、階段も何段かが残っています。


崖面には「龕」と思われる掘り込みがいくつかあります。


訪れたのは紅葉の頃でした

ひっそりとした場所ですが南側に開けた土地で、今は高速道路が南を走っていますが、当時は錦江湾が見えていたのかもしれません。
戦国時代からここでこうして、ずっと目の前に広がる町や自然の景色の移り変わり、お参りに来た人々、農作業をする人々、道や境内で遊ぶ子供達や、街道を行き交う人々をずっと見てこられたに違いありません。何故か、仏様のどこかにそうった記憶が刻みこまれて大切に保管されているような気がしてなりません。



「にほんブログ村」歴史ブログランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログへ






南九州唯一の山城 ~松尾城(栗野城)跡

2007年12月09日 | 遺跡・遺構
栗野町市街地の北側にある、松尾城跡に寄ってみました。
栗野城、とも呼ばれ現在は城山公園として整備されています。
現在グラウンドとなっている部分にも元は曲輪がいくつかあったようで、更にここから東のほうに多くの曲輪(くるわ)が連なった大きな城であったようです。

案内板には、「南九州唯一の山城跡」と書かれています。
この松尾城の本丸には石垣を積んだ枡形虎口がありますが、「南九州唯一の山城跡」というのはこの虎口の存在が理由のようです。この虎口は「枡形虎口」と呼ばれるもので、虎口と言うのは城郭の曲輪への入り口を指しますが、その入り口のところで通路を途中で曲がり角をつくるなど工夫して直進できないような構造にして、防御性を高めたものが「枡形虎口」と言われるものです。また、その通路は土塁や石垣で囲まれた構造になっているものがほとんどのようです。
南九州では、こういった石垣を高く積んだ枡形虎口は他に見られません。


本丸から虎口を見たところ


鹿児島、宮崎にある中世城郭の多くは、「南九州型」と呼ばれる構造をしており、安土城や大阪城など織田信長や豊臣秀吉が築いた城の構造とは違っています。
大阪城などに行けば、現在の大手口から天守閣までは三の丸、二の丸を通ってかなりの距離を歩くことになります。
全国的に多くの城郭の構造が、曲輪を順番に攻め落として最後に本丸にたどり着くようになっているのに対し、「南九州型」ではそれぞれの曲輪が空堀を隔てて独立した形で林立しています。
「南九州型」の城の典型的な例としては知覧城が有名です。
通路となる堀の底を歩きながら、曲輪を見上げると、まるで狭い通りの両側にビルが建っているのと似ている感じがします。もちろん、現在空堀となっている部分には崩落してきた土の堆積があり、当時もっと深かったものと思われます。最近の発掘調査で、知覧城の空堀は現在よりも7mほども深かった部分の有ったことが明らかになったとの発表がありました。

私は南九州の城郭を全て歩いて回ったわけではありませんが、いくつかを歩いているうちに、城郭の構造には当時の戦術が関わっているような気がしてきました。山間部の多い南九州ではいざ合戦となった時に、大軍と大軍が平面的にぶつかりあう戦いだけではなく、狭い山道に敵勢を誘導して有利な位置から攻撃し消耗を図るような、地形を利用した攻撃も多かったのかもしれません。


本丸の上り口より、虎口を見えます。


落ち葉に埋もれて、当時の建物の礎石が残っているのを見つけました。


もとは真幸院の領主北原氏が砦としたところだそうですが、天正18年(1590)6月から、文禄4年(1595)10月までは島津義弘がここを居城とし、曲輪や枡形虎口もその頃築かれたものと考えられています。文禄の役には島津義弘がここから出陣したそうです。(現地案内板より)


引用・参考
『城郭の縄張り構造と大名権力』木島孝之 著
『蒲生町史』第1巻 蒲生町史編纂委員会
『城館調査ハンドブック』新人物往来社




「にほんブログ村」歴史ブログランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログへ






山間の田を見守る姿~木津志の田の神さぁ

2007年12月08日 | 田の神さぁ
鹿児島県 姶良郡姶良町 木津志

先日再発見となった「末盧国の王墓」とされる佐賀県唐津市の、桜馬場遺跡の甕棺について書いたブログを一度アップしたのですが、ブログライターからのデータが思うように表示されず、公開できないままになってしまいました。
ランキングサイトでは、「末盧国の王墓」のタイトルが表示されていながら、記事が閲覧できない状態で、サイトを訪れていただいた皆様には申し訳ありませんでした。


12月2日、霧島市から蒲生町を通って鹿児島市に行く途中に、木津志の田の神さぁを訪れました。
途中の県道391号線は幅の狭い山の中の道路で、4年ほど前に一度来たことがあるにもかかわらず行く先に田圃があるのかと少し不安になりましたが、田の神さぁは相変わらず、笑顔でそこに居られました。


右手の持ち物はメシゲです。左手には椀を持っていたのでしょうか、
ちょっと空を見上げたような姿が、訪れる者にいっそう興味を抱かせます。
どこを見ているのでしょう。
足元はじっと座ったままの格好ですから、田の神舞を踊っているわけではなさそうです。それとも、左肩があがっているのは、これから舞いを始めるために立ち上がるところなのでしょうか。



銘文はなく、いつ頃の造立であるかわかりません。



「にほんブログ村」歴史ブログランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログへ











二体並んだ田の神さぁ  ~高井田の田の神さぁ

2007年12月01日 | 田の神さぁ
鹿児島県 姶良郡姶良町 三拾町 高井田

稲刈りもすっかり済んだ田圃の中に、田の神さぁが居られました。

姶良町三拾町、高井田の田の神さぁです。両手でバットを持つような構えで、長いメシゲを持っています。
大きさの違いはありますが、メシゲも姿勢も、衣装まで非常に良く似ており、ここにこうやって二体の田の神さぁが並んで居られるのが、不思議なほど自然なことのように思えます。
まるで二人で申し合わせたかのように同じポーズで立っておられる、息がピッタリと合っているかのような様子がかえって、何か踊りだしそうなほどの動きを感じさせているのです。



向かって左側の田の神さぁには、背面から側面にかけて銘文があります。
背面右上から、造立年として「享和二年」(1802)の銘があり、真ん中に「奉寄進」とあり、「四月三日」という日付に続いて寄進者11名程の名前があります。

彩色がよく残り、被っているシキの前面の一部が欠けているようですが、右側の田の神さぁとほぼ同じ形であったと考えられます。




向かって右側の田の神さぁには銘文が残されていませんが、シキの模様や着物の紐の結び目が忠実に彫りだされています。

向かって左側・像高92cm、右側像高78cm




「にほんブログ村」歴史ブログランキングに参加しています

にほんブログ村 歴史ブログへ












Photo