姶良郡加治木町 木田
九州道を鹿児島方面から熊本方面に走っていると、姶良町と加治木町の境あたりで道路の北側に、切り立った崖のある山塊が田圃の向こうに見えます。
高速道路は緩やかな右カーブとなっているので、この崖は自然と視界に入り見慣れた風景となっていましたが、先日偶然この崖のすぐそばを通ったおりに案内板が立てられているのを発見しました。
そこには「薬師如来像」とあります。
確かに、崖面の前に小さな堂が建てられ、薬師如来が祀られています。腕の部分は現存していません。もともとは高さが6尺(1.8m)あったとされています。
お堂の背後にある崖面の全景。樹に隠れていますが、お堂はこの写真の左側、案内板の後ろです。
現地の案内板によれば、
木造の薬師如来像胎内に納められていた文書には、「弘治三年 八月吉日」の制作年代や「深賢快重」という製作者名、また制作場所である「下木田村地蔵堂延命庵」ほか造立した願主の名前が記されていたそうです。弘治三年は西暦1557年ですから、意外と古いものです。また、このあたりの地名が木田ですから製作地となっている「下木田村」は、この近くであると思われます。「下木田村」は現在の地名(地区名)にはありませんが、延命庵のあった場所に後世實窓寺が建てられていることから、その實窓寺のある場所(加治木町木田 楠園)が製作地であると、案内板に説明があります。ここから南へ高速道路をくぐってすぐの場所です。
このただの崖面だと思っていたのが、昔信仰を集めた寺院の跡でした。崖面には磨崖仏が彫られていたか、仏像が納められていたようで、「龕」(がん)と呼ばれる四角い掘り込みがところどころに見られます。さらに堂の周辺には、凝灰岩の切石で整然と積まれた石垣があり、階段も何段かが残っています。
崖面には「龕」と思われる掘り込みがいくつかあります。
訪れたのは紅葉の頃でした
ひっそりとした場所ですが南側に開けた土地で、今は高速道路が南を走っていますが、当時は錦江湾が見えていたのかもしれません。
戦国時代からここでこうして、ずっと目の前に広がる町や自然の景色の移り変わり、お参りに来た人々、農作業をする人々、道や境内で遊ぶ子供達や、街道を行き交う人々をずっと見てこられたに違いありません。何故か、仏様のどこかにそうった記憶が刻みこまれて大切に保管されているような気がしてなりません。
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九州道を鹿児島方面から熊本方面に走っていると、姶良町と加治木町の境あたりで道路の北側に、切り立った崖のある山塊が田圃の向こうに見えます。
高速道路は緩やかな右カーブとなっているので、この崖は自然と視界に入り見慣れた風景となっていましたが、先日偶然この崖のすぐそばを通ったおりに案内板が立てられているのを発見しました。
そこには「薬師如来像」とあります。
確かに、崖面の前に小さな堂が建てられ、薬師如来が祀られています。腕の部分は現存していません。もともとは高さが6尺(1.8m)あったとされています。
お堂の背後にある崖面の全景。樹に隠れていますが、お堂はこの写真の左側、案内板の後ろです。
現地の案内板によれば、
木造の薬師如来像胎内に納められていた文書には、「弘治三年 八月吉日」の制作年代や「深賢快重」という製作者名、また制作場所である「下木田村地蔵堂延命庵」ほか造立した願主の名前が記されていたそうです。弘治三年は西暦1557年ですから、意外と古いものです。また、このあたりの地名が木田ですから製作地となっている「下木田村」は、この近くであると思われます。「下木田村」は現在の地名(地区名)にはありませんが、延命庵のあった場所に後世實窓寺が建てられていることから、その實窓寺のある場所(加治木町木田 楠園)が製作地であると、案内板に説明があります。ここから南へ高速道路をくぐってすぐの場所です。
このただの崖面だと思っていたのが、昔信仰を集めた寺院の跡でした。崖面には磨崖仏が彫られていたか、仏像が納められていたようで、「龕」(がん)と呼ばれる四角い掘り込みがところどころに見られます。さらに堂の周辺には、凝灰岩の切石で整然と積まれた石垣があり、階段も何段かが残っています。
崖面には「龕」と思われる掘り込みがいくつかあります。
訪れたのは紅葉の頃でした
ひっそりとした場所ですが南側に開けた土地で、今は高速道路が南を走っていますが、当時は錦江湾が見えていたのかもしれません。
戦国時代からここでこうして、ずっと目の前に広がる町や自然の景色の移り変わり、お参りに来た人々、農作業をする人々、道や境内で遊ぶ子供達や、街道を行き交う人々をずっと見てこられたに違いありません。何故か、仏様のどこかにそうった記憶が刻みこまれて大切に保管されているような気がしてなりません。
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