不寝王子から20分ほど歩くと、剣ノ山(つるぎのやま)経塚跡に着きます。
現地の案内板によると、「この経塚跡は、教典を経筒に入れ、それを壺に納めて地中に埋めたところである」とあります。
その壺というのはいま熊野古道館に展示されている常滑焼の壺だそうですが、いったい、何のためににそのようなことをしたのか、と言えば当時の仏教の末法思想が背景にあって、こういった経塚はその頃貴族達によって盛んにつくられたようです。
現在、つくられた時が分かっている経塚のなかで最古のものは藤原道長による金峯山経塚です。ここから発見された「金銅藤原道長経筒」は一見、現在の茶筒のような感じですが、金銅製の立派なもの、国宝として有名なものです。銘文があり、金峯山経塚が寛弘4年(西暦1007年)に築かれたのものであることがそこから明らかとなっています。
また、熊野では那智山経塚(東牟婁郡那智勝浦町)が確認されています。
ちょうど、この時代は仏教で言う末法の世が始まるとされた時にあたるとされ(釈迦の死から1000年後にはその教典のみが伝えられる末法の世が始まるとされ、日本では1052年が末法の始まる年と信じられた)、その後の、教えが全く失われてしまうという56億7千万年後の世界まで教典を残すことで釈迦の教えを伝えようとしたものと考えられています。
納められた教典は法華経が最も多く、ほかには般若心経等多くの教典が埋納されたことがわかっています。教典は銅板に刻まれたものもあったそうですが、紙に写されたものを遙か未来まで残すのはさすがに至難の業でしょう。
しかし時が経つにつれて、このような経塚の造営はやがて、功徳を積む行為として行われることが多くなっていったようです。今でも道ばたに「一字一石経」や「大乗妙典経」、「大乗妙典経~千部」といった石碑を見かけることがありますが、こういった、後世の教典を地中に納めたり、読経供養をする行為とつながるものが有るのかもしれません。大乗妙典経というのは法華経のことだそうです。
案内板にはさらに、「ここから熊野本宮へかけて九品の門が建ち、ここには最初の下品下生の門があったと言われる。」
とあります。
つまりここから熊野まで九つの門が建ち、ここにあったのはその1番目の門である、ということで、ここまでかなり苦しい道のりであったものの、まだ先は長いようです。
しかし当時、京から歩いてきた者にとっては、ここでようやく熊野の山に入ったことを実感する、というものだったのでしょうか。
今は、その門は存在しません。
この経塚跡には小さな石が積まれています。周りに置かれているやや大きめの石は苔むしていて確かに古そうに見えますが、これらの小さな石は最近になって積まれたもののように見えます。
元々、滝尻王子社跡に現在建てられている笠塔婆がここにあったものと推定されていますから、こういった石積みも当初からあったものかどうか、わかりません。
木の根を辿る古道
よりみち文化財 「熊野古道」記事
熊野古道 中辺路 不寝王子社跡
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