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よりみち文化財

ちょっと寄り道して出会える、遺跡や石仏、史跡や鹿児島の田の神さぁを紹介

養母の田の神さぁ

2007年06月19日 | 田の神さぁ
日置市東市来町養母元養母

地名の養母は、「やぼ」と読みます。
「明和六巳丑十二月吉日 庚申講人数相中」の銘があり、明和6年(1769年)に造立の田の神さぁです。水田に囲まれた道路沿いに立っておられます。
冠を着けて笏を持ち、正装をした神職像ですが、神職像の田の神さぁには坐像が多く、その直立した姿と靴を履いているところは、中国大陸を思わせる雰囲気があるような気がします。冠や笏の形、それから衣服も、かなり正確に表現されていると思います。
表情はよくわかりませんが、眉のあたりが盛り上がったような表現がなされていることからすると、笑顔というよりは仁王像や十二神将像のような憤怒の表情であるようです。
豊作の妨げとなる悪天候や虫害を追い払うための憤怒相なのでしょうか。
明和6年の造立で、田の神さぁとしては古いもののひとつですから、石像として造られる田の神さぁのイメージが、田の神舞(「たのかんめ」と読みます)のひょうきんさや楽しさを表現するものとして定着していく以前のもののようです。
像高92㎝
県指定文化財(昭和43年3月29日指定)



紫尾田の田の神さぁ

2007年06月16日 | 田の神さぁ
鹿児島県霧島市横川町紫尾田

横川町 安良小学校の近く、岸壁の小さな洞穴におられます。少し高い位置にありますが、階段が設置されています。
衣冠束帯姿の田の神さぁとのことです。狩衣にも見えます。衣冠束帯というのは、冠をかぶり、袍(ほう)と呼ばれる上着をつけ、笏(しゃく)を持った姿、平安時代以降に宮廷での正装となった服装です。
昔の絵巻物などに出てくる、貴族が着ているものに近い服装です。
この田の神さぁは両手を組んでいるように見えますが、もともとは木でできた笏を両手で持っていたようです。

神社の境内にはよく、神職の像として同じような衣冠束帯の石像が見られます。
田の神さぁは、「御田之神」と銘が彫られていることもあるので、そういった神職像ではないことはすぐに判りますが、表情でもわかります。
多くの田の神さぁは笑顔です。この田の神さぁも、衣冠束帯という、堅苦しい正装でありながら口元が少し笑っておられます。その笑顔を見て、「もしかして、田の神さぁ?」だと思う方も多いでしょう。
田の神さぁは、いつも笑顔です。田の神さぁが「決して祟らない神さま」と言われるのも、そのせいかもしれません。
正保元年(1644)の銘があります。もともとは山中にあったそうですが、移転されて現在の場所におられるそうです。



薩摩川内市の田の神さぁ

2007年06月12日 | 田の神さぁ
薩摩川内市 祁答院町・入来町

確か、祁答院町か入来町あたりだったと思います。ふと車を停めて何気なく眺めた景色でしたが、夕日に映えた赤い色が田のなかで輝いていました。

道路からは着物の赤い色が黄金色の水田の中でよく目立ちます。
それに何故か、そこから見つめられているような気がして、近づいてみるとやはり田の神さぁでした。
田の神さぁの衣装は、赤い色のものが多いようです。吉祥を表すのでしょうか。た。ひとつ先に紹介した田の神さぁも赤い着物でした。
シキをかぶり、左手に椀、右手にはメシゲのようです。
豊作の稲穂のなかでにこにこと笑っておられる田の神さぁとは、つい目が合ってしまいます。

祁答院 上手の田の神さぁ

2007年06月12日 | 田の神さぁ
鹿児島県薩摩川内市 祁答院町 上手

寛政四年の銘があります。
彩色がされていますが、当時からのものでしょうか。後から化粧をしなおしたものかもしれません。とても大切にお祭りされているような印象を受けます。ちょうど夕日のあたる時刻でしたので、赤い色が特に目立っていました。
頭にシキをかぶり、袴を着けて南のほうを向いておられます。また、そちらにはやはり広大な水田が広がっており、田の神さぁのすぐそばには勢いよく水が流れる水路が作られています。
石の中に彫りだされています(石背型)が、祁答院町から入来町にかけては、このようなスタイルの田の神さぁが多いようです。
田の神さぁのスタイルには、地域性があります。石工によってどういう形に彫るのかが決まっているのか、講(田の神講)がその近隣地域におられる田の神さぁの姿を意識してそのスタイルを希望するのか分かりませんが、地域ごとでよく似た田の神さぁがおられます。




入角の田の神さぁ

2007年06月07日 | 田の神さぁ
鹿児島県 曽於市 大隅町

シキ
右手にメシゲ、左手に椀を持ち、頭にかぶっている笠は、「シキ」であると思われます。
「シキ」というのは、藁で編んだ敷物のことで、座るときに敷くものではなく、甑(こしき)という道具で米を蒸すときに、その甑の底に敷きます。甑は底に穴がいくつか開いた水甕のような形をしている容器で、古いものは古墳時代の遺跡から土器の甑が出土しています。この甑の下で湯を沸かして、そこから藁製の「シキ」を通して上がってくる蒸気で米を蒸します。ちょうど、小籠包やシュウマイをセイロで蒸すときと同じ仕組みです。餅をつくときによく、もち米を蒸します。
確か20年ほど前まで、家で餅つきをする際にカマドで薪を焚き、餅米を蒸していた記憶があります。

「シキ」は田の神舞いのときにも使われ、メシゲや椀を持っていることから、田の神舞いの様子を表現している田の神さぁと思われます。

銘に「明和二年(1765年)」とあります。



入佐の田の神さぁ

2007年06月06日 | 田の神さぁ
鹿児島市 松元町入佐

入佐の田の神さぁは、山の中におられます。ここから水田が見渡せるわけでもなく鬱蒼とした林の中で、田の神さぁの前を横切る林道もここから先すぐに途切れてしまいます。

田の神さぁは、田の季節が終わると山に上り、山の神さぁになる、または山の神さぁが田に下って田の神さぁになると言われますが、この言い伝えは特に、大隅半島方面に多いようです。(鹿児島は地理的に、東側の大隈半島と、西側の薩摩半島に二分できます。)大隈半島は山が多いことから、そういった考えが強くなったようです。




平木場の田の神さぁ

2007年06月05日 | 田の神さぁ
鹿児島県 薩摩川内市 入来町

石の中に彫りだされた田の神さぁは、着物を着て股引きを付け、扇子をもっています。仏像ではよく、「光背」と言われる背後の石ですが、田の神さぁの場合、こういった所謂「光背」を持つようなスタイルを「背石型」と呼ぶようです。

鹿児島では、水田は山あいの谷間に見られることも多く、平木場の田の神さぁは、ちょうどそういった水田が続く谷奥の、水田を見渡せる高いところに祀られています。
「寛政7年4月8日」の銘があります。(寛政7年=1795年)

ところで、田の神さぁを訪ね歩いていてよく気にかかるのは、山の存在です。山は、雨が降ると水を蓄え、樹木が栄養を土壌に蓄えます。川や用水路でなく、山のふもとの湧水を水田に供給してきたのであれば、水田に水や栄養を与えるその「山」から、滞ることなく恵みを田にもたらす役割を持つのが、すなわち「田の神さぁ」であるのかもしれません。もしかすると人々は、「山」を生命の源と考えていたのかもしれません。

田の神さぁは、山の中におられることもあります。次は、山の中の田の神さぁを紹介します。



王城の田の神さぁ

2007年06月02日 | 田の神さぁ
鹿児島県大口市

メシゲ、シキ、扇子を持たず、袴や股引姿でもなく、一見、田の神さぁに見えません。
田の神さぁのなかでも古いものです。
田の神さぁで最も古いとされるのはさつま町(旧鶴田町)紫尾の、仏像の姿をした田の神さぁで宝永2年(1705年)の造立です。

像が作られ始めた頃の田の神さぁは、仏像(地蔵)や神像(衣冠束帯)、大日如来像が多かったようです。田の神さぁの像を造るとき、田の神さぁがいったいどんな姿をされているのか?ということになると、当時の人々はやはり、それまで信仰対象として意識が強かった神社・仏閣につながる神像や仏像を思い浮かべたのかもしれません。

この田の神さぁは大日如来を象った姿で、頭に宝冠を付け、手は智拳印を結んでいます。
「蓮華座」と言われる蓮の花の模様がついた台座があり、そこには「享保六天」(享保6年=1721年)と銘があります。
また、「宝造立御田神 大日如来之 敬白」(一部読み取り不可能な箇所があり、そこを省略しています)とあり、田の神さぁとして大日如来の像を造立したことが記されています。
そのほか、造立に携わった講の人々の名前、石工の名前があります。

仏像といえば立像・坐像にかかわらず、お参りする人から見て、見上げる形になるために視線はやや下を向いていることが多いのですが、この田の神さぁはやや上向きです。作物の育ち具合にかかわる雨や日照り等天候を気にして、空を見守っておられるのでしょうか。

王城の田の神さぁと呼ばれますが、大口市内の地図に王城の地名はなく、平出水というのがこのあたり地名のようです。あるいは小字名を王城というのかもしれません。山沿いの、少しだけ高台になったところで、南に広がる平野の水田が見渡せるような場所です。




下久徳の田の神さぁ

2007年06月01日 | 田の神さぁ
鹿児島県蒲生町下久徳

明和5年(1768年)の銘がある、メシゲと椀を持った石碑型の田の神さぁ。彩色があるが、後世のもののようである。
この田の神さぁのような舟形光背を持つ田の神さぁは「石碑型」と呼ばれ、下久徳の田の神さぁはその代表的な存在である。

光背に「奉造田之御神庚申講」と銘があり、庚申講によって信仰された田の神さぁである。田の神さぁは田の神講で信仰するところが多く、その田の神講によって造立されるものだが、庚申講によるのは珍しい。
田の神講がないところでは、ほかの講で集まって、田の神さぁをお祀りすることがあったらしい。
江戸時代に全国的に信仰があった庚申信仰は、鹿児島でも盛んに行われたらしく、庚申塔も県内に多く見られる。

「講」というのは本来、信仰を通じて集まった集団を言うが、田の神講や庚申講、水神講、山神講等、江戸時代あるいはそれ以降の「講」は、様々なかたちで行われていたようである。
集落全体がひとまとまりとなって講を作るわけではなく、それより更に細かく分かれた集団ごとに集まったようだ。
私の実家は和歌山であるが、以前は庚申信仰に関わる講があったという話を聞く。庚申の日(かのえさるの日。暦のうえで60日ごとに訪れる)の夜になると、近所で寄り合いや宴会があったらしい。

田の神講では主に、餅をついてお供えしたり、酒をあげたり、田の神さぁに化粧をしたりということが行われたようである。南九州には集落内にはこういった田の神講がいくつもあり、その講ごとに田の神さぁを祀る、あるいは講ごとに持ち回りで田の神さぁを祀るということがおこなわれていたようだ。

県指定文化財(昭和43年3月29日指定)







松下田の田の神さぁ

2007年05月30日 | 田の神さぁ
鹿児島県入来町松下田

山間に拓けた田圃が見える場所におられる田の神さぁ(タノカンサァ)。
像高は61㎝とわりあい小さいが、彩色が施され、造形に動きがある。
右手にメシゲ(飯をつぐための杓子)を持っているのが印象的だが、服装をよく見ると股引姿である。股引はむかし、農作業などによく使われたもので、裾のところを膝下で絞れるようになったズボンのようなものである。
今までよく見かけた田の神さぁは、袴姿だった。
服装の違いは造立年代の違いによるものとされる。銘には元文2年(1737年)の造立とあるから、袴姿が多かった田の神さぁに加え、この頃には股引姿の田の神さぁが現れるようである。