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よりみち文化財

ちょっと寄り道して出会える、遺跡や石仏、史跡や鹿児島の田の神さぁを紹介

塩屋堀の田の神さぁ

2007年07月14日 | 田の神さぁ
鹿児島県 南さつま市 金峰町

いま、台風が近づいています。先ほど、鹿児島の大隅半島に上陸したというニュースがありました。
佐賀県内でもいよいよ風が強くなってきています。
以前、霧島市に住んでいた頃にも台風の直撃を経験しましたが、あらぬ方向から突然に猛烈な風が吹いてくるのが特に危険でした。台風の通過予報円近くにお住まいの方は気を付けてください。


写真は「塩屋堀の田の神さぁ」です。
石を4段積み重ねた台座の上ですが、嘉永4年(1851年)の銘がありますから150年間もこのままでおられたようです。
右手にメシゲ、左手にコシキを持ち、微笑んだ表情と台座の波模様が印象的であまり風化もありません。刻字がありますが、奉納した講の名前でしょうか。後ろにまわると、ちゃんとワラヅトを背負っています。

石仏は前面にのみ像を彫ることが多いのですが、田の神さぁの場合、360度どこから見ても田の神さぁであるということが分かる様に表現されていることがあり、その全身を表現している像が多くあります。
仏様などの石仏では、人々がそれを拝む対象として造立されることが多いので、前面を重視するのだと思いますが、このように全身が表現される田の神さぁの場合は、「そこに田の神さぁがいる」ことに人々の意識があることを示しているのかもしれません。

金峰町内の田の神さぁについては、国道270号線沿いにある「木花館」、「歴史交流館」に詳しいパンフレットがあります。


触田(ふれた)の田の神さぁ

2007年07月05日 | 田の神さぁ
鹿児島県 姶良郡姶良町

前回この田の神さぁを訪れたのはもう何年も前のことです。この時、田の神さあの表情が怒っているように見えて、実はその後はしばらく来ませんでした。
今回、田の神さぁは笑っておられます。こんなに笑顔だったかと、不思議な気さえします。
田の神さぁの表情は、訪れる者の心の状態を映してくれるのかもしれません。
いつも笑顔でいるはずの田の神さぁが怒った顔に見えたときは、自分にも笑顔がないときであるのかもしれません。笑顔をとりもどすように、田の神さぁはそうやって教えてくれているような気がします。

造立年については、すぐ横にある石碑に銘があり、元文2年(1737年)とあります。
田の神舞を映した田の神さぁで、前田喜八という石工の作とされています。近くにある「東佐多浦・東下の田の神さぁ」、「鵜木・桑の丸の田の神さぁ」と合わせて3体が、前田喜八作の田の神さぁであると考えられています。
九州自動車道、姶良ICのそば、稲留神社の境内におられます。

高さ130㎝。姶良町指定民俗文化財。



川上の田の神さぁ

2007年07月04日 | 田の神さぁ
鹿児島市 川上町

川上小学校のすぐ近くで、南に広がる田圃を目の前にしておられます。
北へ少し歩けば天満宮があり、ここは以前天満宮への参道沿いであったようです。

右手にメシゲ、左手に持っているのはスリコギです。「田の神舞型」に分類される田の神さぁですが、とびきり躍動的な表現がなされていて今にも踊り出してきそうです。左足を少し浮かせたポーズをとっているのは、軽やかな舞を舞っている姿を見せているようです。神社などで舞を奉納するところなのでしょうか、沓をはいているのはちょっと不思議な感じがします。
石材は凝灰岩であると思いますがそれほど風化もなく、その表情から楽しそうな雰囲気が伝わってきます。
現地の案内板によると、以前このあたりにはこの田の神さぁを囲んで宴会を開く、「田の神講」があったそうです。

寛保元年(1741年)の銘が、像の背面にあります。

県指定文化財(昭和41年3月11日指定)


宮内の田の神さぁ

2007年07月02日 | 田の神さぁ
鹿児島県 霧島市 隼人町

鹿児島神宮のすぐ近く、神宮の神田を前にして立っておられる田の神さぁで、天明元年(1781年)の造立です。
シキをかぶってメシゲを持ち、椀を片手にした田の神さぁですが、この田の神さぁにはあご髭があります。これは、翁面を表しているものであるからだといわれています。
翁面というのは能楽に使われる面で、「翁」という曲目を演ずる際に使われるものです。
この「翁面」を表現している田の神さぁが居られる、ということは非常に重要なことであるように思います。
能楽「翁」の曲目は、能の舞台にまず神霊を迎えるという目的で、ほかの演目の前に上演されます。
田の神さぁが、人の姿を映していることが多いのは、いつもは神様の世界に居られる田の神さぁを人間の世界に呼んで来るという、そういった祭り或いは信仰がもとになっているような気がするのです。

能楽といえば、以前薩摩川内市(当時は川内市)の、運動公園で「鳥追舟」を観ました。入来町の清色城内で上演された年もありましたが、今年も開催されるのでしょうか。


像高91cm 県指定文化財(昭和43年3月29日指定)




末永の田の神さぁ

2007年06月29日 | 田の神さぁ
宮崎県 えびの市 末永

九州自動車道は、鹿児島の手前で少しだけ宮崎県内を通ります。加久藤トンネルの途中から宮崎県内に入りますが、トンネルを出たところで、ここが宮崎県えびの市であることを告げる道路標識が立てられています。その標識に、田の神さぁが描かれているのです。
ずっと、この田の神さぁは「田の神さぁのイメージ」で描かれているもの、と思っていましたが、実はモデルがありました。
「末永の田の神さぁ」です。
最近になって赤や白に塗られてはいますが、その祠の立派なことや、花が供えられていることから、人々に慕われていることが分かります。
鹿児島でもそうでしたが田の神さぁには、花が供えられているのをよく見かけます。それが、丹精込めて育てられた色とりどりの花であったり、近くに咲いている、季節の野の花であったりして、見ていてもうれしくなります。
ここを訪れた際は、ちょうど地元の方が掃除に来られていました。
末永の集落の北側に、圃場整備がなされた整然とした田圃が広がっていますが、田の神さぁはずっとその田圃を見守っておられました。




西田の田の神さぁ

2007年06月28日 | 田の神さぁ
鹿児島県 姶良郡 姶良町

週末、鹿児島は梅雨空でした。晴れ間が見えたかと思うとすぐに雲がかかり、雨となりました。

シキをかぶってメシゲを持ち、田の神舞を舞う田の神さぁです。雨に濡れていたせいか、彩色された赤い色が、いっそう目立って見えました。
田の神さぁには赤い彩色がよく見られますが、どういった意味があるのでしょうか。お祭り等めでたいものをあらわすのでしょうか、あるいは宴席で酒を飲んだ姿でしょうか。その華やかな色はなんとなく、豊作に喜ぶ秋が必ずやってくることを願い、それを祝う祭りの日の非日常を象徴しているようにも見えます。
表情やポーズも、江戸時代のものとは思えないほどのデザインです。
「文化二年」の銘があります(文化2年=1805年)

加治木町から10号線を西へ、弥勒交差点で右折して姶良町内で県道42号に入り、山田口から県道391号を1㎞ほど北へ向かうと、右側に立っておられます。
白く塗られた木製の目印が立てられています。




 

田の神さぁからの手紙

2007年06月25日 | 田の神さぁ
田の神さぁのすぐそばに、こんな案内がありました。

昭和62年に黎明館(博物館)で開催された、田の神さぁが一堂に会するという展示に参加(?)された折に地元の方に宛てた、田の神さぁからのメッセージです。
田の神さぁは、他の村(集落あるいは講)の人々が自分の所に「招く(盗る?)」ことを許されていたようです。(「田の神オットイ」と呼ばれます。)
その際には、その田の神さぁがいた集落(講)の人々に宛てて丁寧な手紙を残し、勤めが終わったらまた帰ってくることを約束したそうです。
実際、豊作をもたらす田の神さぁは人気があり、他の場所に出向くことがあり、、その目的を果たした後には、多くのお土産と共に元のところに帰ってきたそうです。

般若寺の田の神さぁ

2007年06月25日 | 田の神さぁ
鹿児島県 湧水町 般若寺

湧水町内の日枝神社の境内に、衣冠束帯姿で石段のそばにおられます。
「明和九天壬辰奉寄進」(明和9年=1772年)の銘が背にあり、手には笏(しゃく)を持つための穴が開けられています。田の神講など行事の際には、ここに木製の笏を持つ姿が見られたようです。

湧水町におられますが、この田の神さぁは、宮崎県えびの市や、鹿児島県大口市、菱刈町によく見られる田の神さぁによく似ていると、案内板にあります。
確かに、地理的には湧水町は、えびの市や菱刈町、大口市との行き来が容易で、えびの市では特に、よく似た神職姿の田の神さぁに出会います。

ここ般若寺は、建武3年(1336年)九州に落ちのびた足利尊氏が、再度の挙兵のための本拠としたところとされ、非常に由緒のあるところだそうです。この日枝神社から少し離れたところに、般若寺の伽藍の跡が残っています。

像高76cm。
県指定民俗文化財(昭和43年3月29日指定)





古城の田の神さぁ

2007年06月22日 | 田の神さぁ
鹿児島県霧島市横川町

舟形光背に烏帽子をかぶった田の神さぁです。
よく見ると田の神さぁに白いものがぽつぽつとついていますが、これは餅です。
このあたりでは、田の神さぁにあんこの餅を付ける風習が残っているそうです。この写真は正月を少し過ぎた頃に撮影したものですので、正月の頃、そういった行事が行われるのかもしれません。
「お供え」のように思われます。神様へのお供えといえば、皿に盛って手前に置くのを想像しますが、田の神さぁは人々にとって、ずっと身近な神様なのでしょうか。

県道50号線沿い、道の北側におられます。
すぐ近くに「停車場へ三里」という道標があり、この道は昔も変わらず人々が往来していたようです。

銘から、享和3年3月3日に建てられたことがわかります。