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よりみち文化財

ちょっと寄り道して出会える、遺跡や石仏、史跡や鹿児島の田の神さぁを紹介

針持の田の神さぁ

2007年10月19日 | 田の神さぁ
鹿児島県 大口市針持


以前はJR宮之城線がすぐ近くを通っていたようです。この路線は1987年に廃止になっており、ここから少し東に歩いたところに「針持駅跡」という公園があります。

山間部ですが広々とした田園を眺めるようにして、針持の田の神さぁは立っておられました。

シキをかぶっていますが、衣装はどちらかというと神職像に似ています。右手には何か持物があったのでしょうか、やや上に上げてポーズをとっています。
銘文が無いのでいつ頃に造立された田の神さぁであるのかわかりません。ただ、風化の具合からすると江戸時代まで遡るかもしれません。
鹿児島ではもう、刈り入れもほとんど済んでいるでしょうか。この季節に田の神さぁを訪れると田圃では刈り入れ作業をされる農家の方々も多く、田の神さぁの周りが急に賑やかになったような気がして、何故か嬉しい気持ちになります。




刈り入れ時の田圃を眺める田の神さぁ


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高崎の田の神さぁ

2007年09月25日 | 田の神さぁ
鹿児島県 蒲生町 高崎

そろそろ収穫の時期でしょうか、夕日で稲穂が黄金色に輝いていました。
車を降りて道から田圃を眺めていると、ぽつんと田の神さぁが見えました。



像高約63cm、石材は凝灰岩で、近くの加治木町辺りに居られる田の神さぁと非常に良く似た石が使われています。

背中にはちゃんとワラヅトを背負っており、ここに造立年が刻まれています。元文四年の銘はちょうどシキの下で雨が当たらない部分となり、墨の跡が残っています。文字はまず墨で下書きをしてから刻まれたようです。(元文4年は西暦1739年にあたります。)
 
額の辺りにかかる髪や眉も墨で書かれています。やはりシキの下になって雨に流されるようなこともないようで、おそらく造立当時のものであると思われます。
四角い台座はコンクリート製で、当初からこの位置にあったものかどうかは不明です。保存の状態が非常に良いので、家々を持ち回りでまわる田の神さぁであったのかもしれません。



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川北 久保の田の神さぁ

2007年09月16日 | 田の神さぁ
鹿児島県肝属郡南大隅町根占町川北久保 

県道562号沿い北側に鬼丸神社のある小山が見えますが、その神社の登り口の近くに田の神さぁが居られます。

シキをかぶって右手にメシゲ、左手にスリコギを持っており、表情は微笑んでいるように見えます。動きが表現されているわけではないのですが、なんとなくこちらに向かって歩いて来そうな、或いは語りかけてきてくれそうな雰囲気があります。
ところで、耳の形が大黒天か、えびす様に似ているように見えますが、当時の人々が田の神さぁに抱いていた豊作・豊穣のイメージが、像をつくる際に現れたものでしょうか。



また、台座の格狭間(ごうはざま)にある楕円や丸い浮き彫りは、米俵を表現しているものと思われます。よく米俵の上に乗っている大黒天像を見かけることがありますが、そういったものが影響しているのかもしれません。
たしか現地には案内板があり、田の神像についての詳しい説明がそこに書かれていたと思います。

享保16年9月8日の銘があり古い像ですが、風化も少なく、また大切にお祀りされているように感じられます。

像高147cm (神像81cm、台座66センチ)


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大出水の田の神さぁ

2007年09月02日 | 田の神さぁ
鹿児島県 霧島市 横川町

「大出水の田の神さぁ」と勝手に名付けてしまいましたが、本当はどう呼ばれているのかわかりません。
この近くに「大出水(おおいずみ、と読むのでしょうか?)」と呼ばれる水源があり、この田の神さぁと関わりが深いように思われるので、仮にそう名付けています。
現地の標柱には、「田の神」と書かれてあるだけです。

ここには神像が2体ありますが、どちらも田の神さぁのようです。
かなり風化しているのは石材の質によると思われ、龕のある岩盤とは違う石であるらしく、磨崖仏のように像を岩から彫り出しているのではないようです。
龕に祀られているところは、紫尾田の田の神さぁに似ています。

姿が少しずつ違うのは、造立された時期が違うというような理由からかもしれませんが、龕は2体分の幅があり、もとから2体が祀られたと考られます。ここに龕を彫って、他の場所にあった2体の田の神さぁを一緒にお祀りした、ということでしょうか。

銘はなく、造立年代はわかりませんが、えびの市、吉松町からこの横川町にかけて、神像タイプの古いの田の神さぁが多いので、案外古い田の神さぁである可能性もあります。

近くにある「大出水」というのは、水の湧き出るところです。
渓流のそばの岩盤に直径1mほどの丸く抉れた部分があり、そこから勢いよく水が湧き出ています(写真 下)。底が蒼い色をしているようで水は蒼く澄んでおり、とても冷たいので夏の暑い最中には、眺めるだけでもひどく涼しげに見えます。


大出水から湧き出る水が流れ込む渓流


大出水と呼ばれる湧水


おそらく、この周囲の山々から伏流水が集まってひとつの流れとなったのがこの川なのでしょう。
田の神さぁのすぐそばには、やはり山の岩盤を伝ってきた流れが川となっています。いつ、だれが作ったのか、この巨大な岩にトンネルが掘られて麓へと水が導かれています。


岩に掘られた川のトンネル。

田の神さぁは山中に隠されることが多かったり、稲の刈り入れが済む頃には山へ入って山の神になるとも伝えられますが、山間部の田圃では山からの水の供給も、重要であったようです。磨崖仏の影響も考えられますが、ここに湧水があることから、水を守る意味で田の神さぁが祀られているのかもしれません。

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祝儀園の田の神さぁ

2007年09月01日 | 田の神さぁ
鹿児島県 霧島市 溝辺町竹子祝儀園

”祝儀園”は「しゅうぎその」と読むのでしょうか、あるいは「しゅうぎぞん」かもしれません。
国道504号を横川町方面に向かうと竹子のあたり、ENEOSサービスステーションの手前で左手に見える水田の前におられます。地元の方がよくお供えに来るらしく、このときも花が供えられていました。



田の神さぁの背後にある石碑には、丸い輪が描かれていますが、意味はよくわかりません。円の中に梵字が墨で書かれていたのでしょうか。
さらに「宝暦十二 壬午 年 御田神 三月」と銘があり、田の神さぁとして宝暦12年(1762年)3月の造立であるということになります。
かなりの年月がたっているにもかかわらず、表情もよくわかります。祭りの日にはベンガラ(酸化鉄が成分の赤い顔料)や墨で彩色されるそうです。

”祝儀園”と聞くとなにかめでたい事でもあるようで、変わった地名もあるものだと思いながら国道を少し先へ行くとまもなく”極楽”という地名のところへ着きました。これから、なにかいいことがあるかもしれません。

像高53㎝、背後の石碑は高さ100㎝。
霧島市指定文化財(昭和57年6月1日指定)

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鍬を持つ田の神さぁ ~池辺中の田の神さぁ~

2007年08月09日 | 田の神さぁ
鹿児島県 南さつま市 金峰町

この田の神さぁは以前カレンダーの写真に掲載されていました。その写真があまりにも良かったので、いったいどこの田の神さぁだろうとずっと思っていたのですが、やっと会うことができました。
金峰町の池辺、集落がある丘陵の南端で、そこから南にずっと広がる水田を見守っておられました。2段の台座と、更に蓮華台を置いた上に立っています。

享保5年(1720)8月25日の造立ですから、田の神さぁとしては古いものです。既に2回移動されたそうですが、もともとの位置は分かりません。



田の神さぁの後姿です。ワラヅトを背負っているらしく、頭にかぶっているのがシキであるのが良く判ります。

ところで、この田の神さぁは右手に鍬を持っています。
左手に持っているのはメシゲですが、この近くには鍬とメシゲを持つ田の神さぁが多く、百年ほど後の文化年間の造立である田の神さぁにも、同じスタイルの例があります。
鍬はどちらかといえば畑作に使うもののイメージがあり、稲作ではいったいどこに使っただろうかと考えてしまいますが、代掻きや、その前に田圃を耕す作業に用いられたようです。(今はその作業のほとんどをトラクターがしています。)
あるいは京田の田の神さぁが麻の枝を持っておられたように、副収入が得られるという様な理由から、畑作物の実りも田の神さぁに期待したのかもしれません。


畦道の花

2007年07月28日 | 田の神さぁ
中内竪梅木の田の神さぁ (宮崎県えびの市 中内竪)

国道268号線沿い、京町温泉街を抜けたところに、川内川にかかる真幸橋があります。真幸橋を渡ってすぐの三叉路を西に少し行くと、中内竪梅木(なかうちたて・うめき)です。
田の神さぁはその道沿いに座っておられますが、まず目に入ったのは”花”でした。
田の神さぁの前に供えられた花です。
度々ここにお参りする方がおられるのでしょう。周りも綺麗に掃除がなされ、すぐそばに湯呑みもありました。
田植えが済んで間もなくの田圃と畦道の青々とした草、長い年月を過ぎて苔生した田の神さぁを背景に咲く、色とりどりの花がひどく印象的です。

享保16年(1725年)の造立で、えびの市内では2番目に古いものです。
宮崎の西諸県地方に多い神官坐像型である、と案内板に説明があります。
そういえば、大口市あたりでも、似たような姿の田の神さぁを見かけたことがあります。神官坐像型の田の神さぁはここより更に西へと伝わり、菱刈町や大口市へと広がっていったようです。

えびの市指定文化財(H15.9.12指定)




神様に込めた思い

2007年07月25日 | 田の神さぁ
東下の田の神さぁ 
鹿児島県 鹿児島市 吉田町 東佐多浦東下

シキをかぶってメシゲを持ち、衣装も普段着ではなく、祭りの日のものでしょう。
その日の祭りに奉納された日の田の神舞をストップモーションで今に伝えるような描写がなされています。

この東下の田の神さぁは、前田喜八という石工の作であるといわれています。
田の神さぁは、自然の石である場合や、文字だけを刻んだ石碑であることも多いのですが、その姿を石に彫り出しているものがやはり最も多く、そんな田の神さぁ出会ったときは、作者は一体どういう思いを込めて彫ったのだろうかと、つい考えてしまいます。
台座に奉納者や田の神講の人々、或いは二才講の人々の名前が彫られていることもあります。
しかし、作者の名前が彫ってある田の神さぁにはまだ出会ったことがありません。
前田喜八という人は、どういう人物だったのでしょうか。

前田喜八作とされる田の神さぁは、吉田町内のこの近くにあと2体あります。
田の神さぁ像を彫りあげた人々の思いが、田の神さぁに田の神舞を舞わせ、また笑顔やポーズをとらせることにより、人々にとって田の神さぁをより身近な存在にしたように思えます。
双体道祖神の影響でしょうか、二人並んで立つ姿の田の神さぁもおられます。
それぞれ男性像と女性像であるとされ、二人仲良く寄り添っている姿が、やはりそこに住む人々にとって田の神さぁがどんな神様であるかを表現しているように思います。
(表情は表現されていないのですが、それが分かる雰囲気に描かれていることに驚きました。)


1730年代

宮崎の田の神さぁ

2007年07月21日 | 田の神さぁ
九州では既に梅雨があけました。

梅雨明けといえば、豪雨と雷の大荒れが一晩中続いた後朝になって太陽が上り、そこから暑い夏が始まった記憶がありますが、佐賀は今日も曇りの日が続き、特に佐賀平野の北側を東西に続く背振山沿いは、いつ見てもまだ梅雨明けの実感がありません。


写真は、金峰町宮崎の田の神さぁです。

宮崎の田の神さぁを訪れた日は、ここだけが曇りでした。来る途中の他のところでは陽もさしていたのですが、ここだけはどんよりとした雲がかかっていて、今にも雨が降り出しそうだったのを覚えています。

やはり、「雲のとおり道」というのがあるのでしょうか。
以前鹿児島で仕事をしていたときのことですが、雨が上がって空が明るくなってきてもいつまでも上に雲があって、その雲が西のほうから東のほうへずっと一直線につながっていました。
飛行機雲をずっと太くしたようなその雲が、とうとう日暮れまで真上にかかっていて、結局一日中陽が当たる事がなく、しかも冬だったので一日非常に寒い思いをしました。

宮崎の田の神さぁの前には広大な田圃が広がっています。
田の神さぁを訪れたその日、まるで田の神さぁが田圃の様子を見ながら雲を呼んで、雨を降らせることにしたような、そんな気がしました。

享保17年(1732年)2月19日造立
像高約70cm
鹿児島県指定文化財






京田の田の神さぁ

2007年07月20日 | 田の神さぁ
鹿児島県 南さつま市 金峰町

田の神さぁというと、ここ金峰町でもやはり「シキをかぶり、メシゲを持ち」というスタイルが多いのですが、この京田の田の神さぁはずいぶんと違う印象を持ちます。

立像ですが、手に持っているのは「麻」であるとされています。なぜ麻の枝を持つ姿であるのかは分かりません。ただ、他の地域にも花を持つ姿の田の神さぁがおられるので、そういった仏像を写した姿である可能性があると思います。
特に、観音像を写しているのかもしれません。
そのせいか、田の神舞の愉快な姿を写した田の神さぁとは違い、非常に優しそうな表情をしているように見えます。
人々にとって、食用や衣料として多いに役立った麻を豊かさの象徴としてとらえ、それに豊作の祈りをこめるということでしょうか。

向かって右隣にも、大半が欠けてはいますが同じ姿の像があります。

金峰町、国道から少し西側の、九州自然歩道、自転車道とされている道の近くで、京田海水浴場に行く途中の田圃に立っておられます。
このあたりの田の神さぁは、全て近くに案内板が立てられ、訪ねてまわりやすいよう配慮されています。

享保16年(1731年)
像高79㎝