二村嘉一のネオジャパニズム

 世界の中で生きて行く、私達の創る新しい日本の形とは

実は昔高校生の時に、体温計の水銀を飲んだことがあるのですが、まさか自分の名前と関係あるとは思わなかっ

2006年11月08日 18時37分47秒 | 日記・エッセイ・コラム
 皆さん今日はお元気ですか?
 今日の名古屋は、一日中何やら肌寒く、もうすぐ、厚い上着が必要になる頃です。今日は党首討論があり、興味津々で見ていました。核に対する認識を、双方の意見を聞き分けることは少し難しいことではありましたが、非核三原則は堅持しつつ、安全保障の問題としての、核の抑止力の研究をすることは、その責めを得ないという事であったと思われます。今後北朝鮮に対する、人道的な見地からの、拉致問題の解決を標榜し、国際放送の活用は必要であり、NHKの報道の中立性という使命をどう担保するかが問われています。省庁再編に伴う、政治勢力の肥大化は、トップダウンの簡易化が進む一方、ブレーンとしての官僚組織の終焉が、なし崩しに、新しい現象として、現代日本社会に、その国のあり方を問われるという事態を、引き起こしています。新日本様式という、新しい日本ブランドの立ち上げが始まり、その国のあり様が、今、根源からの問い直しが始まりつつあります。憲法改正問題等。喫緊の課題として、今の私達の喉元に突きつけられています。如何にして私たちは、私達の子孫に対し、真摯にその意志の伝達を行うべきなのでしょうか?法という社会システムに対し、人間は無力なのでしょうか?法の為の法ではなく、人間の為の法が必要となっています。世界人権宣言から始まったと思われる、基本的人権の尊重という、法の崇高な理想を、術からず私達は継承しそして、進化させ、そして、向上しなくてはならないと思われます。新しい人間の理想が、この国日本から始まりはしないか、そんな事を考える時、僕は今を生きる日本人の、とてつもなく重い責任を感じます。社会の欧米化から、東洋化がこの国日本から始まるのです。民主主義はよく出来た社会制度かもしれません。それを進化させるだけの、歴史はまだ日本にはありませんが、人間が人間として生きてきた、社会風土は日本にはあったのかもしれません。しかしながら、日本の歴史を学ぶと、必ずしも、一般庶民は、優遇されてきたとは思われません。そこには、支配があり、搾取があったのかもしれません。しかしながら、今日本は自由があります。このチャンスを逃す術はありません。語り合いましょう、日本の未来を、そして、創造しましょう、新しい社会を、それは、労働者の為の国になるのかもしれません。富の偏在が進む今日、労働者の社会的な地位が、労働法という法律があっても、蔑ろになっているのかもしれません。僕は共産主義者でも、社会主義者でもありません。基本的人権と、労働基本権との違いくらいは分かります。基本的人権は、労働法よりも上位にある権利です。人は生まれながらにして平等なのです。憲法を変えることは、その権利を無くす事ではありません。新しい社会とは何か?そのとき憲法はどのような役割を果たすのか?新進気鋭の学者の意見でも、新しい形の社会とは?という根本的な問題を標榜する学説は現れていません。法は経済の上部構造です。法を変えなくては、経済のあり方すなわち、僕達の生き方は変わりません。何が変わったというのですか?大日本帝国憲法と、現行憲法。民法は変わっていません。富める者が、貧者を使って更なる富を蓄積するという、社会構造は、憲法が変わっても、変わりません。ここに、吉田ミカさんへの愛を誓いつつ今日は失礼致します。
 それでは。

 水銀の力で伸びた身の丈かもはや何ゆえ背は伸びたるを

 核を持て冷戦時代起こりしをもはやアメリカ敵はテロのみ

 花束は真紅の薔薇に限るとぞ想いし時はもはや過ぎ去り

 God bless you!

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする