マルクスですら現代においては過去の人であるから、ディーツゲンに至ってはその名前すら聞いたことが無いという方がほとんどでは無いかと思う。況や、鍼灸の世界に於いてをや。
しかし、である。過去のものとしてしまうのにはあまりにも惜しい内容がそこにはあると思える。以下に、引用した文章を読んでいただければ分かるように、実践家である鍼灸師が(本来あるべき)東洋医学・鍼灸理論を学ぶ意義が見事に説かれてあると思う。
引用文の「農業科学」を「本来あるべき東洋医学」あるいは「本来あるべき鍼灸理論」、「農業」を「鍼灸」、「収穫をあげる」を「治療効果をあげる」、「耕作」を「鍼灸の施術」と読み替えて、読んでみていただきたい。
『体系化ということが科学の全活動の本質であり、その一般的表現である。科学は我々の頭脳に対して世界の諸々の事物に秩序と体系とを与えようとするものに外ならない。
例えば、ある言語の科学的認識は、それを一般的な類別と規則とに分類し或いは秩序付けることを要求する。農業科学は馬鈴薯の収穫をあげることだけを目的とするものではなく、農業の方式と様式とに関して体系的秩序を見出し、その知識によって成果の予測をもって耕作できるようにしようとするものである。
あらゆる理論の実際的の効果は、我々をしてその理論の対象の体系と方法とに精通させ、従って成果の予測をもって世の中で働きうるようにするところにある。
経験はたしかにそのための前提にはなるものであるが、しかし経験だけでは足らない。経験から発展した理論、すなわち科学によってはじめて我々は偶然のたわむれから免れることができる。科学によって我々は意識的に事物を支配し、絶対に確実に処理することができる。』
(「人間の頭脳活動の本質」ディーツゲン著 小松摂郎訳 岩波文庫 原文は旧仮名遣い。読みやすいように?新仮名遣いにし、適宜改行した。ブログ筆者。)
鍼灸に関わっての理論体系の必要性が、(本来あるべき)東洋医学の必要性が、少しは感じていただけるであろうか?
しかし、である。過去のものとしてしまうのにはあまりにも惜しい内容がそこにはあると思える。以下に、引用した文章を読んでいただければ分かるように、実践家である鍼灸師が(本来あるべき)東洋医学・鍼灸理論を学ぶ意義が見事に説かれてあると思う。
引用文の「農業科学」を「本来あるべき東洋医学」あるいは「本来あるべき鍼灸理論」、「農業」を「鍼灸」、「収穫をあげる」を「治療効果をあげる」、「耕作」を「鍼灸の施術」と読み替えて、読んでみていただきたい。
『体系化ということが科学の全活動の本質であり、その一般的表現である。科学は我々の頭脳に対して世界の諸々の事物に秩序と体系とを与えようとするものに外ならない。
例えば、ある言語の科学的認識は、それを一般的な類別と規則とに分類し或いは秩序付けることを要求する。農業科学は馬鈴薯の収穫をあげることだけを目的とするものではなく、農業の方式と様式とに関して体系的秩序を見出し、その知識によって成果の予測をもって耕作できるようにしようとするものである。
あらゆる理論の実際的の効果は、我々をしてその理論の対象の体系と方法とに精通させ、従って成果の予測をもって世の中で働きうるようにするところにある。
経験はたしかにそのための前提にはなるものであるが、しかし経験だけでは足らない。経験から発展した理論、すなわち科学によってはじめて我々は偶然のたわむれから免れることができる。科学によって我々は意識的に事物を支配し、絶対に確実に処理することができる。』
(「人間の頭脳活動の本質」ディーツゲン著 小松摂郎訳 岩波文庫 原文は旧仮名遣い。読みやすいように?新仮名遣いにし、適宜改行した。ブログ筆者。)
鍼灸に関わっての理論体系の必要性が、(本来あるべき)東洋医学の必要性が、少しは感じていただけるであろうか?