東洋医学概論の授業を振り返ると、陰陽五行論は何の為にと問うことの大事性痛感する。
昨日の東洋医学概論の授業。端的には、あれもこれもが整理されないままに、雑然と?説かれたことが、分かりにくさの原因と思える。
言われていることが分からないとは認識論的にいえば、言われていることの像が描けないということなのだが、その中身として、そもそもの像が描けないということももちろんあるが、それに加えて、昨日の授業の場合はそれ以上に、描けた像と像との区別と連関が像として描けないということがあると思える。
こういった場合、通常の科学的な物事の捉え方としては、事実の持つ論理性にそっての整理、整序ということになるのだが、東洋医学の場合、古代中国の人間観を、原点としては、正しいとしての観念論的な論理の体系なので、論理に論理を重ねるということになっていって、果てしなく迷い続けることになっていってしまう。
そういう時に、導きの灯となってくれるのが、陰陽論、五行論なのではと思える。
例えば、陰陽論によって対象の持つ根本陰陽を押さえ、その上でのその時々の主要陰陽に取り組んで行く。とか、五行論によって、対象の「生」から「長」へ「長」から「化」へ「化」から「収」へ「収」から「蔵」へと。
より具体的には、「肝」の捉え方を考えるにしても、まずは「生」としての原初の「肝」の捉え方はいかなるものかを考え、そこからの、その「生」としての「肝」から「長」としての「肝」をいかなるものかと考えて、それを「生」としての「肝」に重ねることでの「長」としての「肝」を理解して、その「長」としての「肝」から「化」としての「肝」を考えて、それを「生」から「長」として発展したところの「肝」に重ねることでの「化」としての「肝」を理解して、、、という様に「生」「長」「化」「収」「蔵」の五行の発展に従っての「肝」の理解が、現在の複雑化してしまっている東洋医学の、そこでの「肝」を理解する道であると考える。
そしてこれが、世界を整序して見せてくれるということが、古代中国にあっての陰陽五行論の意義なのであり、同時に現代の生きる我々にとっての陰陽五行論の意義なのではと思う。
そういう意味では、東洋医学の学び、陰陽五行論の学びも、人類の歴史を繰り返すことにあるのではと思える。
ここでも、「個体発生は系統発生を繰り返す」(ヘッケル)は真理であると思う。
昨日の東洋医学概論の授業。端的には、あれもこれもが整理されないままに、雑然と?説かれたことが、分かりにくさの原因と思える。
言われていることが分からないとは認識論的にいえば、言われていることの像が描けないということなのだが、その中身として、そもそもの像が描けないということももちろんあるが、それに加えて、昨日の授業の場合はそれ以上に、描けた像と像との区別と連関が像として描けないということがあると思える。
こういった場合、通常の科学的な物事の捉え方としては、事実の持つ論理性にそっての整理、整序ということになるのだが、東洋医学の場合、古代中国の人間観を、原点としては、正しいとしての観念論的な論理の体系なので、論理に論理を重ねるということになっていって、果てしなく迷い続けることになっていってしまう。
そういう時に、導きの灯となってくれるのが、陰陽論、五行論なのではと思える。
例えば、陰陽論によって対象の持つ根本陰陽を押さえ、その上でのその時々の主要陰陽に取り組んで行く。とか、五行論によって、対象の「生」から「長」へ「長」から「化」へ「化」から「収」へ「収」から「蔵」へと。
より具体的には、「肝」の捉え方を考えるにしても、まずは「生」としての原初の「肝」の捉え方はいかなるものかを考え、そこからの、その「生」としての「肝」から「長」としての「肝」をいかなるものかと考えて、それを「生」としての「肝」に重ねることでの「長」としての「肝」を理解して、その「長」としての「肝」から「化」としての「肝」を考えて、それを「生」から「長」として発展したところの「肝」に重ねることでの「化」としての「肝」を理解して、、、という様に「生」「長」「化」「収」「蔵」の五行の発展に従っての「肝」の理解が、現在の複雑化してしまっている東洋医学の、そこでの「肝」を理解する道であると考える。
そしてこれが、世界を整序して見せてくれるということが、古代中国にあっての陰陽五行論の意義なのであり、同時に現代の生きる我々にとっての陰陽五行論の意義なのではと思う。
そういう意味では、東洋医学の学び、陰陽五行論の学びも、人類の歴史を繰り返すことにあるのではと思える。
ここでも、「個体発生は系統発生を繰り返す」(ヘッケル)は真理であると思う。