「ブログ更新の遅れについて」
日々、ブログの更新を!と思いながら、すでに2月も終わろうとしている。自身の決断力の不足を痛感する。
当初は、2月中旬の後期末試験後に東洋医学概論の試験へ向けての学びを振り返る形で、具体的には、病証について書くことでブログの本格的な再開を!と考えていたのであるが、下書きの原稿は幾つか書いたものの、ブログの更新が出来ないままに来てしまった。
理由は、端的には自身の決断力の無さ!であると反省されるのであるが、これは例えば、変な例えではあるが、武道の、練習での技と試合での技の違いと同じことなのでは?と思える。
どういうことかと言えば、武道経験のある方ならば簡単に理解していただけると思うが、練習でいくら見事な技が出せているように思えても、試合となるとそのままの技が使えるということは、通常は無いものである。試合前の一ヶ月ほどの期間をかけて、自身の認識を戦えるものとして追い込んで行かないと、まともに戦うことが出来ない。
もちろん、試合においても、真剣勝負の場においても、練習そのままに。が可能な方もおられるとは思う。例えば、剣客商売の秋山小兵衛の如くに。これは、あくまで自身のレベルでは、である。
その練習と試合との認識の違い、試合でしっかりと技が出せるという認識の中身は、決断力の問題である。と思うのであるが、そういう意味での認識の違いが、ブログの原稿の下書きとそれをブログにアップすることとの間にはあると思える。
そういう意味では、ブログにアップするという認識で、原稿を書くことが出来ていなかった。日々、ブログの原稿を書いていた!というものの、所詮、下書きであり、真剣勝負ではなかったと反省される。
そういう意味でも、今後、ブログ更新に真剣に取り組んでいきたい。
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「医学教育概論(6)」に学ぶ〜病を弁証法的に捉えるとは〜
さて、本題の「医学教育概論(6) 医学生・看護学生に学び方を語る」(瀬江千史・本田克也・小田康友・菅野幸子著 現代社)についてである。この書を読んで、文化遺産としての病(証)というものは如何に学ぶべきなのか。ということのイメージが描けた。と思える。
今回の後期末試験で、五臓の病証名とその症候を覚える。という作業をするなかで、例えば、肝の病証名とその症候を覚える作業をするなかで、肝鬱気滞、肝火上炎、肝血虚、肝陰虚、肝陽上亢という病証名を並列に並べて、症候とともにの丸暗記では、どれもが同じように思えて、とても覚えきれない。
肝の病証が全てであればそれも可能であるかもしれないが、五臓六腑の病証となると数十にもなるから!との思いから、肝の病の生成発展の過程として、病証名と症候を理解・整理して覚えていくことにした。
具体的には、実証としては、七情の乱れから肝鬱気滞へ、肝鬱気滞から肝火上炎へ。虚証としては、脾胃虚弱や出血から肝血虚へ、肝血虚から肝陰虚へ。そして最終的には虚証、実証ともにが、虚実挟雑証としての肝陽上亢へ。という病の深まりの流れとして理解して、その上での症候の違いを理解していく。
例えば、肝血虚から肝陰虚であれば、同じくに肝の陰が不足している症候であるといっても、後者では、陰の不足の長期化(量質転化)によって、熱症状(虚熱)という症候が加わる。というように理解していく。という作業を行った。
同様の作業を、他の五臓に対しても行っていくことで、全部併せると、数十にもなる病証名とその症候を一日で整理することが、後期末試験レベルでは、覚えることができた。
結果として、東洋医学概論の後期末試験は無事クリアとなり、対象を弁証法的に捉えることの有効性を実感していた。
しかし、である。後期末試験が終わり、読みかけになっていた「医学教育概論(6)」を読んでみると、そこには、自身のやったこととは雲泥の差での、病の弁証法的把握がなされていた。その捉え方のスケールの大きさに、自身の、病の弁証法的把握!と思っていたことが、全く問題にならないほどの、幼稚園レベルであるということが痛感された。
「医学教育概論(6)」では、文化遺産としての腎臓病(のみならず、病というもの)を、如何に学ぶべきか!を、説(解)いていただいている。詳細には、「医学教育概論(6)」を読んでいただければと思うが。
端的には、腎臓病というものを、弁証法的に運動するものとして、正規分布にしたがって生成発展成熟衰退消滅するものとして、東洋医学的に言えば、生長化収蔵の過程性を持つものとしてイメージしての、その弁証法的に運動する、腎臓病の完成形態としての、「腎不全」の理解と、そこへ至る、その時々の現象形態と位置付けての、個々の腎臓病の、急性腎炎、ネフローゼ症候群、IgA腎症等々の理解。という作業によって、腎臓病というものが、あたかも一つの生命体、実体であるが如くに、ある時は静かにゆっくりと、またある時は急激に激しくという形で、様々な姿に変化、運動しながら、正規分布にしたがって、生成発展成熟衰退消滅という蠢きをなしている。と生き生きとイメージ出来るようになっていかねばならない。と説(解)いていただいている。と思えた。
以上の内容は、東洋医学の病の理解のありかたにも、そのままに当てはまる。と思える。
4月の新学期までの一ヶ月。自由になる時間のある貴重な期間であるので、「医学教育概論(1)〜(6)」にしっかりと学ぶとともに、そこに説(解)いていただいていることを、自身の鍼灸、東洋医学の学びとしても行っていけるように、そのことが可能となっていくような学びを、まずはしっかりと行っていきたい。と思う。
日々、ブログの更新を!と思いながら、すでに2月も終わろうとしている。自身の決断力の不足を痛感する。
当初は、2月中旬の後期末試験後に東洋医学概論の試験へ向けての学びを振り返る形で、具体的には、病証について書くことでブログの本格的な再開を!と考えていたのであるが、下書きの原稿は幾つか書いたものの、ブログの更新が出来ないままに来てしまった。
理由は、端的には自身の決断力の無さ!であると反省されるのであるが、これは例えば、変な例えではあるが、武道の、練習での技と試合での技の違いと同じことなのでは?と思える。
どういうことかと言えば、武道経験のある方ならば簡単に理解していただけると思うが、練習でいくら見事な技が出せているように思えても、試合となるとそのままの技が使えるということは、通常は無いものである。試合前の一ヶ月ほどの期間をかけて、自身の認識を戦えるものとして追い込んで行かないと、まともに戦うことが出来ない。
もちろん、試合においても、真剣勝負の場においても、練習そのままに。が可能な方もおられるとは思う。例えば、剣客商売の秋山小兵衛の如くに。これは、あくまで自身のレベルでは、である。
その練習と試合との認識の違い、試合でしっかりと技が出せるという認識の中身は、決断力の問題である。と思うのであるが、そういう意味での認識の違いが、ブログの原稿の下書きとそれをブログにアップすることとの間にはあると思える。
そういう意味では、ブログにアップするという認識で、原稿を書くことが出来ていなかった。日々、ブログの原稿を書いていた!というものの、所詮、下書きであり、真剣勝負ではなかったと反省される。
そういう意味でも、今後、ブログ更新に真剣に取り組んでいきたい。
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「医学教育概論(6)」に学ぶ〜病を弁証法的に捉えるとは〜
さて、本題の「医学教育概論(6) 医学生・看護学生に学び方を語る」(瀬江千史・本田克也・小田康友・菅野幸子著 現代社)についてである。この書を読んで、文化遺産としての病(証)というものは如何に学ぶべきなのか。ということのイメージが描けた。と思える。
今回の後期末試験で、五臓の病証名とその症候を覚える。という作業をするなかで、例えば、肝の病証名とその症候を覚える作業をするなかで、肝鬱気滞、肝火上炎、肝血虚、肝陰虚、肝陽上亢という病証名を並列に並べて、症候とともにの丸暗記では、どれもが同じように思えて、とても覚えきれない。
肝の病証が全てであればそれも可能であるかもしれないが、五臓六腑の病証となると数十にもなるから!との思いから、肝の病の生成発展の過程として、病証名と症候を理解・整理して覚えていくことにした。
具体的には、実証としては、七情の乱れから肝鬱気滞へ、肝鬱気滞から肝火上炎へ。虚証としては、脾胃虚弱や出血から肝血虚へ、肝血虚から肝陰虚へ。そして最終的には虚証、実証ともにが、虚実挟雑証としての肝陽上亢へ。という病の深まりの流れとして理解して、その上での症候の違いを理解していく。
例えば、肝血虚から肝陰虚であれば、同じくに肝の陰が不足している症候であるといっても、後者では、陰の不足の長期化(量質転化)によって、熱症状(虚熱)という症候が加わる。というように理解していく。という作業を行った。
同様の作業を、他の五臓に対しても行っていくことで、全部併せると、数十にもなる病証名とその症候を一日で整理することが、後期末試験レベルでは、覚えることができた。
結果として、東洋医学概論の後期末試験は無事クリアとなり、対象を弁証法的に捉えることの有効性を実感していた。
しかし、である。後期末試験が終わり、読みかけになっていた「医学教育概論(6)」を読んでみると、そこには、自身のやったこととは雲泥の差での、病の弁証法的把握がなされていた。その捉え方のスケールの大きさに、自身の、病の弁証法的把握!と思っていたことが、全く問題にならないほどの、幼稚園レベルであるということが痛感された。
「医学教育概論(6)」では、文化遺産としての腎臓病(のみならず、病というもの)を、如何に学ぶべきか!を、説(解)いていただいている。詳細には、「医学教育概論(6)」を読んでいただければと思うが。
端的には、腎臓病というものを、弁証法的に運動するものとして、正規分布にしたがって生成発展成熟衰退消滅するものとして、東洋医学的に言えば、生長化収蔵の過程性を持つものとしてイメージしての、その弁証法的に運動する、腎臓病の完成形態としての、「腎不全」の理解と、そこへ至る、その時々の現象形態と位置付けての、個々の腎臓病の、急性腎炎、ネフローゼ症候群、IgA腎症等々の理解。という作業によって、腎臓病というものが、あたかも一つの生命体、実体であるが如くに、ある時は静かにゆっくりと、またある時は急激に激しくという形で、様々な姿に変化、運動しながら、正規分布にしたがって、生成発展成熟衰退消滅という蠢きをなしている。と生き生きとイメージ出来るようになっていかねばならない。と説(解)いていただいている。と思えた。
以上の内容は、東洋医学の病の理解のありかたにも、そのままに当てはまる。と思える。
4月の新学期までの一ヶ月。自由になる時間のある貴重な期間であるので、「医学教育概論(1)〜(6)」にしっかりと学ぶとともに、そこに説(解)いていただいていることを、自身の鍼灸、東洋医学の学びとしても行っていけるように、そのことが可能となっていくような学びを、まずはしっかりと行っていきたい。と思う。