閉会の辞より-一賛同者
これで、本日のプログラムは終了しました。
この会は、これからも「今、九条改憲に反対する」の一点のみの共通点で結ばれています。その意味は、この会として自衛隊の廃止を求めているものでも、日米安全保障条約の廃棄を求めているのでもないし、また日の丸君が代の強制に賛成する人も、靖国神社の国家護持に賛成する人もそして自衛隊員自身も賛同して欲しい、というということです。メッセージで「平成」を使っている理由はそんな所にもあります。それでは飽き足らないという方も居られるとは思いますが、この点はどうかご了解ください。
現段階での、九条改憲反対・賛成の比率は、正確には分かりません。ただ、確実にいえることが2つあります。1つはその意見の違いは、実は昔風の左右の違いよりも世代の違いにこそ特徴があるということです。あるアンケートでは20代の実に約70%が九条改憲に賛成しています。2つは、だが九条改憲に賛成している人の多くが、日本の自主独立を目指しアメリカの属国のようになっているのは嫌だから、という理由だということです。この点こそが注目されます。「国際協調」と言う名での海外派兵は、アメリカの更なる属国になる意味なんだという本質を知ってもらえれば、それを若者にこそ知ってもらえれば、確実に九条改憲を止められると思います。
九 条 し ゃ べ り 場 よ り
2006.6.3 生涯学習センター
Aさん 男性
昨日、ある公立高校で一時間ほど話をしてきた。沖縄への修学旅行などをしている高校です。沖縄では現実のこととして感じたようです。大和市の「語り部」に登録しているが、大切なのは体験を脚色めいて話すことではなく、あくまでリアルに伝えていくことなんだ、と思う。
Bさん 男性
大和市の平和事業の一環として「平和の語り部」があり、10数人が「語り部」として登録されており、自分は学童疎開の体験を主に学校で話しています。文部省を始め各地の教育機関は集団疎開先での死亡数を全く調査しないから、私が単独で全国調査しており、現在までに児童420人、教員、寮母、面会保護者計約30人の死亡が判明しています。ただし沖縄の疎開船「対馬丸」の生徒780人、教員など30人、更に最近判明した奄美大島からの疎開船「武州丸」の沈没も判明し、その死亡者約200人も別途判明しました。
当時の現実感を知ってもらうために、軍歌、子どもの歌、替え歌も伝えています。
4月22日の設立集会で紹介したのもその一部です。例えば「パーマネントは止めましょう」や「月月火水木金金」という歌も当時の世相も世代によっては常識だが、そんな時代だったということを若い人は全く知らない。
語り継ぐことの大切さを痛感しております。
Cさん 男性
1926年生です。4月22日の集まりから参加している。中学校3年で中退して船乗りになり、後に5400トンの船ごと陸軍に徴用された。東南アジアなどをまわってきたが、16-7歳でものすごい嫌な人間模様を見てきた。「にっくき敵米英」ではなく日本人同士のことだった。そんなことを伝えようとしても、体験しないで分かる筈もないのが難しい。20歳、満でいえば18歳のときに終戦だった。その後勉強して色々なことが分ってきた。8月に近くになると、「話して」と言われるが断っている。最高責任者を処罰することができないで何が戦争体験だ、と思ってきた。
だけど、世の中に戦争を止めたいと思っている人がいて、自分もなんとかしたいと思う。自分のことを「非国民」だと思いながら今日はきました。
(追記) 戦争体験を語りつぐべき意味は、戦争の悲惨さ下劣さを後世代に傳え、二度と再び愚劣な戦争を起こさない為の戒めの云々に尽きると思いますが、それだけで日本、アジア大きくは世界の平和が保てるでしょうか?
私自身の給付の体験等は、内地で父兄身内の留守を守り、敵襲を受け逃げまどった女子、子供、老人の恐怖、悲惨さには及びもしませんが、天皇の名に拠って行われた諸悪は純真な少年船員であった私の眼耳心に焼き付いて消えず、生涯許すことはできません。
戦後の日本を建設するには、我々戦争体験者がまず最高戦争指導者を法廷に引き出し断罪すべきでしたが、総てを連合国軍に任せ、未曾有の大犯罪を他人事の様に空々しく横目で見て、戦後61年を生きてきた自分が情けなく恥かしい思いであります。
日本国に(象徴であれ飾り物であれ)天皇制があり、多くの天皇教信者が存在し、日米安全条約があり、自衛隊と称する軍隊が存在するかぎり、日本・アジアに平和は望めません。戦後日本は平和であったと云われていますが、人身は乱れ、日々新聞に見られる様に、汚職ははびこり、悪が横行し、苛め、自殺、意味不明の犯罪にいたるまで、歪んだ階級制度の無責任体制にあると思われます。
崩壊寸前の日本を救う一歩は、正に私たち日本人の誇りであり世界の鑑たる憲法九条を日本人の象徴として死守する意気であります。
色々と訴えたい事、叫びたい事が多々ありますが、今となっては一老人の大言壮語で何を叫んでも負け犬の遠吠えに過ぎません。気宇壮大な皆様の御健闘をお祈りいたします。
Dさん 男性
1930年生、7人兄弟の長男。生まれた翌年が満州事変、敗戦のときは中学3年生。生まれてから14歳の夏まで戦争だった。中学校受験に当たり、軍隊の学校への合格率の高い学校を探して、府立6中-新宿高校-に越境入学した。それほどの軍国少年だった。中学2年のとき、たまたま熊本の陸軍幼年学校に合格したが、福島県に疎開していたので、空襲で危険な東海道線を避け、日本海側を何日もかかって熊本まで行った。沖縄戦が始まり、空襲で死を覚悟していたが、胸を悪くして自宅療養を命じられ帰郷した。もし病気に罹らなかったら死んでいただろう。
敗戦の翌年、母が7人の子供を残して疎開先でなくなった。40歳になったばかり。末っ子の弟と妹は当時3歳と5歳で母の顔を知らない。食べるものも無い荒れた世の中に、これほど多くの子供達を残して先に逝くことが、母にはどれほど辛かっただろうか、と今でも命日のたびに若い母の写真を見ては泣いている。7人皆元気な老人になっているのがせめてもの救い。母のご加護だと思っている。
Eさん 男性
1951年生。父はそれ以前憲兵で中国に行っていた。引き上げてきてから結婚し男3人兄弟を設けたことになる。大和市に小学校時代からいて、爆音をもともと聞いてきた。大和の平和都市宣言とその後の活動の蓄積は大変重要なことだと思う。3000自治体中1200ほどの自治体がこの宣言をしたのだが、その後なかなか宣言を生かした活動ができていない。大和市では基地があるという背景があるけれど、多くの人の努力で続けてこられた。憲法九条を変えない力になるはずだと思う。8月12日、市の主催でアニメ版の「ガラスのうさぎ」が上映される。憲法九条も出てくるアニメ。すべての会派が賛同して実行委員となっていることなど、大和では現実感ある活動ができている証拠だと思う。
広島や長崎へ修学旅行をしている学校もあるのだが、それだけでは確かに退屈に思ってしまうはずだ、昔話でしかない。常に意識して、何を伝えるか、伝わっているかを考えて工夫していきたい。
Fさん 男性
1957年生。大和市で育った人は、戦後世代でも、それなりに実際のものとして戦争を感じてきたと思う。ベトナム戦争の時の16号線を走る戦車のキャタピラーの音。トレーラー無しに走ってもいたと思う。深夜、傷害を負った米軍人が厚木基地についた飛行機からヘリコプターに載せられて相模大野の米軍病院に運ばれる、そのプロペラの音。遺体を拭くのがいいアルバイトだということも聞いていた。冷戦時代多かった深夜の緊急スクランブルの「ンゴッー」の爆音。死んだ父は厚木基地を作らされた一人で、移動するマッカーサーの車を山陰から覗いたとも言っていた。
九条の問題は、従前いわれてきた思想の対立よりも、世代の違いの方が大きいと思う。具体的には戦争の現実感の問題です。その点を十二分に認識しないとならないと思う。
例えば、私の世代は、就寝ラッパ「兵隊さんは可哀想だーなー、また寝て泣くのかよー」なんて大人から聞いて知っている。「オーテンテンプラ食べ過ぎて、アーチャコ先生に見てもらい、あーああーモウダメダ、神経衰弱、脳膜炎、あーしたのおーかーずは原爆マーグロ」なんていう歌も知っているが、2つ下の人は知らない。「子どもの国」に行けばまだ軍需工場の壊れた建物があり、母は其処で落下傘を作ったという。銃後の状態も含めて戦争とはどういうことかを、当時の歌で伝えたり映像とか工夫しなければならない。
それから、大切なこと。じゃあ北朝鮮政府に対してどうするのか、を自分でまず納得できるようにしなければならない。戦時中の日本仏教界は「慈悲の殺人は菩薩の万行に勝る」なんてことを言っていた。オウムと同じだった。今、その状態が北朝鮮。そして日本向けにミサイルを多数配備しても居る。核弾頭が無いとはいえない状態です。核実験も十分あり得る。そんな状況に対してどうするかを答えられるようにしなければ、説得しきれない。
もちろん、戦争の悲惨さを伝えること、将来の希望を伝えることは大切だ。だが、この点について、正面から話し合っていかなければ、決して国民投票での過半数にはならないことを肝に銘ずるべきだと思っています。
Gさん ??さん -未了解
1923年生、83歳です。昭和13年、浜松の航空保安通信隊に入った。シンガポール、マニラなどに行った。終戦のときはマレー半島をメコン川経由でサイゴンに入った頃だった。ともかく食料がなかった。タピオカをすくって食べた。昭和21年3月に復員できて、翌年大学に入れた。
なぜ戦争をしてはいけないか、と言われれば、自分は友人を思い出す。同級生のうち甲種合格した者は歩兵となって半分は死んでいる。千葉の出身だが、佐倉の連隊はレイテで餓死した。ガダルカナルから生きては帰ったがガリガリの人を見た。飢え死にが多かったことを若い人は知らない。
Hさん
父が満州鉄道に勤めていた。1945年8月に父が現地召集され、男の人がいなくなった。父はシベリアに抑留され、そこで死んでしまった。満州には母と私たち子ども3人が残され、命からがら逃げてきた。子ども3人は育てられないから一人は親戚に預けられた。実感として戦争の傷跡がいえるには3代必要だと思う。子にも後遺症があり、孫の代になって初めて影響がなくなっていく。
最近、戦争中の大政翼賛会に似ていると感じる。子どもの友人がヨーロッパにいるがそこでも右傾化していて、有色人種と言うだけで殺されることもあるから注意するように、となっている。
Iさん 男性
昭和8年に小学校に入る。サイタサイタサクラガサイタの読本で学ぶ。小学校で海軍を志願したが不合格。昭和17年、16歳で陸軍に入った。軍国教育により喜び勇んで入った。私は、私がなぜそうなってしまっていたのかを伝えたい。つまり戦争の準備は平和な時にもう始まっていること、教育の重さということです。
作戦中、40度の熱で泥の家の麦わらに寝た。そのとき、関西弁の兵隊が高熱で頭をやられて死んだ、指1本焼いて骨にした。石ころよりは良いのだろうけれど。
従軍慰安婦について、強制していないと言う人もいるが、慰安所は人間とは思えない悲惨な酷さだ。慰安婦は本当に可哀想だった。若い男性ばかりそれも殺し合いの極限状態の中では性欲も亢進することは充分わかる。
戦争は正常な人間を異常にさせる。正常では戦争は出来ない。
Jさん 女性
国民学校の1年から6年という珍しい世代です。昭和19年、最初の集団疎開だったので水上温泉だった、後の人よりは良かったと思う。戦争末期に「正しいことは正しいと主張しなさい」と言った先生がいたことを覚えている。