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憲法九条やまとの会

今、日本国憲法九条改憲を止める
 ・・・平和を望み、維持したい・・・

憲法しゃべり場の記録その2

2009年10月30日 | 私たちのイベント情報

閉会の辞より-一賛同者
これで、本日のプログラムは終了しました。
この会は、これからも「今、九条改憲に反対する」の一点のみの共通点で結ばれています。その意味は、この会として自衛隊の廃止を求めているものでも、日米安全保障条約の廃棄を求めているのでもないし、また日の丸君が代の強制に賛成する人も、靖国神社の国家護持に賛成する人もそして自衛隊員自身も賛同して欲しい、というということです。メッセージで「平成」を使っている理由はそんな所にもあります。それでは飽き足らないという方も居られるとは思いますが、この点はどうかご了解ください。
現段階での、九条改憲反対・賛成の比率は、正確には分かりません。ただ、確実にいえることが2つあります。1つはその意見の違いは、実は昔風の左右の違いよりも世代の違いにこそ特徴があるということです。あるアンケートでは20代の実に約70%が九条改憲に賛成しています。2つは、だが九条改憲に賛成している人の多くが、日本の自主独立を目指しアメリカの属国のようになっているのは嫌だから、という理由だということです。この点こそが注目されます。「国際協調」と言う名での海外派兵は、アメリカの更なる属国になる意味なんだという本質を知ってもらえれば、それを若者にこそ知ってもらえれば、確実に九条改憲を止められると思います。


九 条 し ゃ べ り 場 よ り
2006.6.3 生涯学習センター
Aさん 男性
 昨日、ある公立高校で一時間ほど話をしてきた。沖縄への修学旅行などをしている高校です。沖縄では現実のこととして感じたようです。大和市の「語り部」に登録しているが、大切なのは体験を脚色めいて話すことではなく、あくまでリアルに伝えていくことなんだ、と思う。

Bさん 男性
大和市の平和事業の一環として「平和の語り部」があり、10数人が「語り部」として登録されており、自分は学童疎開の体験を主に学校で話しています。文部省を始め各地の教育機関は集団疎開先での死亡数を全く調査しないから、私が単独で全国調査しており、現在までに児童420人、教員、寮母、面会保護者計約30人の死亡が判明しています。ただし沖縄の疎開船「対馬丸」の生徒780人、教員など30人、更に最近判明した奄美大島からの疎開船「武州丸」の沈没も判明し、その死亡者約200人も別途判明しました。
当時の現実感を知ってもらうために、軍歌、子どもの歌、替え歌も伝えています。
4月22日の設立集会で紹介したのもその一部です。例えば「パーマネントは止めましょう」や「月月火水木金金」という歌も当時の世相も世代によっては常識だが、そんな時代だったということを若い人は全く知らない。
語り継ぐことの大切さを痛感しております。

Cさん 男性
 1926年生です。4月22日の集まりから参加している。中学校3年で中退して船乗りになり、後に5400トンの船ごと陸軍に徴用された。東南アジアなどをまわってきたが、16-7歳でものすごい嫌な人間模様を見てきた。「にっくき敵米英」ではなく日本人同士のことだった。そんなことを伝えようとしても、体験しないで分かる筈もないのが難しい。20歳、満でいえば18歳のときに終戦だった。その後勉強して色々なことが分ってきた。8月に近くになると、「話して」と言われるが断っている。最高責任者を処罰することができないで何が戦争体験だ、と思ってきた。
だけど、世の中に戦争を止めたいと思っている人がいて、自分もなんとかしたいと思う。自分のことを「非国民」だと思いながら今日はきました。
(追記) 戦争体験を語りつぐべき意味は、戦争の悲惨さ下劣さを後世代に傳え、二度と再び愚劣な戦争を起こさない為の戒めの云々に尽きると思いますが、それだけで日本、アジア大きくは世界の平和が保てるでしょうか?
 私自身の給付の体験等は、内地で父兄身内の留守を守り、敵襲を受け逃げまどった女子、子供、老人の恐怖、悲惨さには及びもしませんが、天皇の名に拠って行われた諸悪は純真な少年船員であった私の眼耳心に焼き付いて消えず、生涯許すことはできません。
戦後の日本を建設するには、我々戦争体験者がまず最高戦争指導者を法廷に引き出し断罪すべきでしたが、総てを連合国軍に任せ、未曾有の大犯罪を他人事の様に空々しく横目で見て、戦後61年を生きてきた自分が情けなく恥かしい思いであります。
日本国に(象徴であれ飾り物であれ)天皇制があり、多くの天皇教信者が存在し、日米安全条約があり、自衛隊と称する軍隊が存在するかぎり、日本・アジアに平和は望めません。戦後日本は平和であったと云われていますが、人身は乱れ、日々新聞に見られる様に、汚職ははびこり、悪が横行し、苛め、自殺、意味不明の犯罪にいたるまで、歪んだ階級制度の無責任体制にあると思われます。
崩壊寸前の日本を救う一歩は、正に私たち日本人の誇りであり世界の鑑たる憲法九条を日本人の象徴として死守する意気であります。
色々と訴えたい事、叫びたい事が多々ありますが、今となっては一老人の大言壮語で何を叫んでも負け犬の遠吠えに過ぎません。気宇壮大な皆様の御健闘をお祈りいたします。

Dさん 男性
1930年生、7人兄弟の長男。生まれた翌年が満州事変、敗戦のときは中学3年生。生まれてから14歳の夏まで戦争だった。中学校受験に当たり、軍隊の学校への合格率の高い学校を探して、府立6中-新宿高校-に越境入学した。それほどの軍国少年だった。中学2年のとき、たまたま熊本の陸軍幼年学校に合格したが、福島県に疎開していたので、空襲で危険な東海道線を避け、日本海側を何日もかかって熊本まで行った。沖縄戦が始まり、空襲で死を覚悟していたが、胸を悪くして自宅療養を命じられ帰郷した。もし病気に罹らなかったら死んでいただろう。
敗戦の翌年、母が7人の子供を残して疎開先でなくなった。40歳になったばかり。末っ子の弟と妹は当時3歳と5歳で母の顔を知らない。食べるものも無い荒れた世の中に、これほど多くの子供達を残して先に逝くことが、母にはどれほど辛かっただろうか、と今でも命日のたびに若い母の写真を見ては泣いている。7人皆元気な老人になっているのがせめてもの救い。母のご加護だと思っている。

Eさん 男性
 1951年生。父はそれ以前憲兵で中国に行っていた。引き上げてきてから結婚し男3人兄弟を設けたことになる。大和市に小学校時代からいて、爆音をもともと聞いてきた。大和の平和都市宣言とその後の活動の蓄積は大変重要なことだと思う。3000自治体中1200ほどの自治体がこの宣言をしたのだが、その後なかなか宣言を生かした活動ができていない。大和市では基地があるという背景があるけれど、多くの人の努力で続けてこられた。憲法九条を変えない力になるはずだと思う。8月12日、市の主催でアニメ版の「ガラスのうさぎ」が上映される。憲法九条も出てくるアニメ。すべての会派が賛同して実行委員となっていることなど、大和では現実感ある活動ができている証拠だと思う。
広島や長崎へ修学旅行をしている学校もあるのだが、それだけでは確かに退屈に思ってしまうはずだ、昔話でしかない。常に意識して、何を伝えるか、伝わっているかを考えて工夫していきたい。

Fさん 男性
 1957年生。大和市で育った人は、戦後世代でも、それなりに実際のものとして戦争を感じてきたと思う。ベトナム戦争の時の16号線を走る戦車のキャタピラーの音。トレーラー無しに走ってもいたと思う。深夜、傷害を負った米軍人が厚木基地についた飛行機からヘリコプターに載せられて相模大野の米軍病院に運ばれる、そのプロペラの音。遺体を拭くのがいいアルバイトだということも聞いていた。冷戦時代多かった深夜の緊急スクランブルの「ンゴッー」の爆音。死んだ父は厚木基地を作らされた一人で、移動するマッカーサーの車を山陰から覗いたとも言っていた。
 九条の問題は、従前いわれてきた思想の対立よりも、世代の違いの方が大きいと思う。具体的には戦争の現実感の問題です。その点を十二分に認識しないとならないと思う。
例えば、私の世代は、就寝ラッパ「兵隊さんは可哀想だーなー、また寝て泣くのかよー」なんて大人から聞いて知っている。「オーテンテンプラ食べ過ぎて、アーチャコ先生に見てもらい、あーああーモウダメダ、神経衰弱、脳膜炎、あーしたのおーかーずは原爆マーグロ」なんていう歌も知っているが、2つ下の人は知らない。「子どもの国」に行けばまだ軍需工場の壊れた建物があり、母は其処で落下傘を作ったという。銃後の状態も含めて戦争とはどういうことかを、当時の歌で伝えたり映像とか工夫しなければならない。
それから、大切なこと。じゃあ北朝鮮政府に対してどうするのか、を自分でまず納得できるようにしなければならない。戦時中の日本仏教界は「慈悲の殺人は菩薩の万行に勝る」なんてことを言っていた。オウムと同じだった。今、その状態が北朝鮮。そして日本向けにミサイルを多数配備しても居る。核弾頭が無いとはいえない状態です。核実験も十分あり得る。そんな状況に対してどうするかを答えられるようにしなければ、説得しきれない。
もちろん、戦争の悲惨さを伝えること、将来の希望を伝えることは大切だ。だが、この点について、正面から話し合っていかなければ、決して国民投票での過半数にはならないことを肝に銘ずるべきだと思っています。

Gさん ??さん -未了解
1923年生、83歳です。昭和13年、浜松の航空保安通信隊に入った。シンガポール、マニラなどに行った。終戦のときはマレー半島をメコン川経由でサイゴンに入った頃だった。ともかく食料がなかった。タピオカをすくって食べた。昭和21年3月に復員できて、翌年大学に入れた。
 なぜ戦争をしてはいけないか、と言われれば、自分は友人を思い出す。同級生のうち甲種合格した者は歩兵となって半分は死んでいる。千葉の出身だが、佐倉の連隊はレイテで餓死した。ガダルカナルから生きては帰ったがガリガリの人を見た。飢え死にが多かったことを若い人は知らない。

Hさん
 父が満州鉄道に勤めていた。1945年8月に父が現地召集され、男の人がいなくなった。父はシベリアに抑留され、そこで死んでしまった。満州には母と私たち子ども3人が残され、命からがら逃げてきた。子ども3人は育てられないから一人は親戚に預けられた。実感として戦争の傷跡がいえるには3代必要だと思う。子にも後遺症があり、孫の代になって初めて影響がなくなっていく。
最近、戦争中の大政翼賛会に似ていると感じる。子どもの友人がヨーロッパにいるがそこでも右傾化していて、有色人種と言うだけで殺されることもあるから注意するように、となっている。

Iさん 男性
 昭和8年に小学校に入る。サイタサイタサクラガサイタの読本で学ぶ。小学校で海軍を志願したが不合格。昭和17年、16歳で陸軍に入った。軍国教育により喜び勇んで入った。私は、私がなぜそうなってしまっていたのかを伝えたい。つまり戦争の準備は平和な時にもう始まっていること、教育の重さということです。
作戦中、40度の熱で泥の家の麦わらに寝た。そのとき、関西弁の兵隊が高熱で頭をやられて死んだ、指1本焼いて骨にした。石ころよりは良いのだろうけれど。
従軍慰安婦について、強制していないと言う人もいるが、慰安所は人間とは思えない悲惨な酷さだ。慰安婦は本当に可哀想だった。若い男性ばかりそれも殺し合いの極限状態の中では性欲も亢進することは充分わかる。
戦争は正常な人間を異常にさせる。正常では戦争は出来ない。

Jさん 女性
国民学校の1年から6年という珍しい世代です。昭和19年、最初の集団疎開だったので水上温泉だった、後の人よりは良かったと思う。戦争末期に「正しいことは正しいと主張しなさい」と言った先生がいたことを覚えている。


憲法しゃべり場の記録その1

2009年10月30日 | 私たちのイベント情報

2007年06月07日

憲法しゃべり場の記録

-2006.4.22〝リレートーク,& 6.2〝しゃべり場〟から-

憲法九条やまとの会では、市民それぞれの九条にかける想いを大切にしたいと思っています。2006年4月22日の「今、ヤマトの地から九条を」発足集会でのリレートークや、6月3日「九条しゃべり場」では、様々なお話が聞けました。
貴重な体験談といろいろな意見を広く知っていただきたいので、ここにそのご発言の要旨を載せます。どうぞ、お読みになってください。

「今、ヤマトの地から九条を」発足集会でのリレートーク
2006.4.22 保健福祉センター
イさん 女性
日本の経験した戦争で人の命が奪われ、イラク戦争では多くの人が傷つけられ、私と似たような年齢のアメリカの青年が戦場に送られて身も心もぼろぼろになって帰ってきていること。私はこういったことを学んできて、戦争という暴力で解決できるものは何もないということが解ってきたのです。ですから、結論だけを叫ぶデモや抗議行動では、伝えられることに限界があると思います。結論を叫ぶのではなく、なぜそう思うのか、理由を伝えることが必要だし、そういった社会運動が必要とされていると思います。

ロさん 男性
科学技術関係の翻訳、著述を業としております。「学童疎開体験」という本を自費出版し、1998年に第一回「日本自費出版文化賞」の大賞を受賞しました。
私は昭和一桁生まれの世代です。戦争中は朝から晩まで毎日歌を聞かされていました。当時は他に娯楽が無かったと言えるでしょう。文部省唱歌、戦時少国民歌謡、国民歌謡、軍歌など多数ありました。今日は戦争中の雰囲気を伝えたいので、いくつかの元歌と替歌を紹介します。
元歌「太郎よ花子よ、良い子ども、丈夫で大きく強くなれ。お前が大きくなる頃は、日本も大きくなっている、子どもよ、大人を超えていけ」、替歌「太郎よ花子よ、不運の子、丈夫で大きく強くなれ。お前が大きくなる前に日本は小さくなっちゃった、子どもを大人は騙すなよ」です。
更に小さい頃の歌です。元歌「僕は軍人大好きだ、いまに大きくなったなら、勲章つけて剣下げて、お馬に乗ってハイドウドウ」、替歌「僕は軍人大嫌い、いまに小さくなったなら、おっかさんに抱かれて乳飲んで、一銭もらって飴買いに」
 当時の歌の中には校長が教え子に進んで死ぬことを教えた歌もあります。「勝ち抜く僕ら少国民、天皇陛下のおんために死ねと教えた父母の赤い血潮を受けついで、心に決死の白だすき、かけて勇んで突撃だ!」。この歌詞は京都のある国民学校(現在の小学校)の校長先生の作詞です。
また校長が国民学校(現在の小学校)の卒業式のはなむけの言葉として「征け、戦え」、その後に「死ね」と言いました。戦争中だから、「戦え」までは良いとしても、その後に「死ね」は酷すぎます。しかしそんな学校もあったのです。そんな特異な時代の教育と雰囲気を紹介しました。

ハさん 女性
 被爆体験をし、相模原原爆被災者会。
先日、国連で60年たって初めて原爆展と被爆者の証言をする機会があり、私も話してきました。私は、原爆のとき12歳、女学校1年生でした。1,2年生は殆ど全滅しました。この写真は谷口君16歳、郵便配達をしているときに被爆しました。背中が赤く焼け爛れています。当時、木の葉のように飛んでいったものがある、それは直前に話していた子どもさんでした。
戦争はなくさなければなりません、日本は戦争をしてはいけません。

ニさん 男性
 昭和35年から厚木基地爆音防止期成同盟をやってきました。この4月20日は、爆音がうるさかったですね、事務所で測定してくれた人がいました。この日の12時30分から50分の間、33機が飛びました。100デシベル以上が22回、95デシベル代が7回です。殺人的です。
基地は戦争の道具です。私たちは46年も前から、基地に苦しめられています。戦争は多数殺人かつ大量破壊の暴力です。平和は人間の生活基盤、人類の財産です。今こそ、憲法九条を大切にしなければならないと思います。本日は、民衆の決起で、改憲と戦争を阻止することができるかどうか、という集いです。
キューバ危機を当事者として経験した故ケネディ大統領はこう言いました。
「人類は戦争に終止符を打たなければならない。さもなくば、戦争が人類に終止符を打つだろう」と。
皆で、平和をしっかり抱きしめ、頑張りぬきたいと思います。

ホさん 女性 
 大学では開発経済を学ぶ。大学に入ってから3年でインドを5回訪れ、いろいろな人と出会う。現在、山谷の路上生活者自立支援のNPOで活動している。
昨年の11月頃から、「NO war YES」という企画を立て、学生仲間一人一人がそれぞれの地域、家族や友達など身近な人たちと戦争の話をする場をつくろう、個人として戦争をしたい、したくない関係なく「戦争」について話をしてみようということを呼びかけ、地道に活動している。
 集会に集まった方々へのメッセージとしては、参加することで安心するのではなく、自分自身が自分の言葉で思うことを人に話していくことをしていってほしい。以前、聞いた言葉で「憲法を活かす」という意味で「活憲」という言葉が、たくさんの人たちの中に根付いていくよう、一人一人が声を上げていくことが必要だと思う。

ヘさん 男性 
 経済学部大学生。「性」に関して真面目に語る場を開催。趣味は料理とお昼寝。
 僕は絶対戦争をしたくない、殺したくないし 殺されたくありません。九条を一所懸命勉強するまでは、日本はアメリカから酷い目にあったんだとしか思っていませんでした。
 中国や韓国で酷いことをしてきたことが、本当には分っていなかったんです。教科書にもほんの少ししか書いてないし。想像して欲しいのは、自分の大切な人が殴られて後に仲良くしようといわれても、簡単に許せるはずがないじゃないかということです。過去があって現在があるのだから、隠していくことはおかしい、と。
それからお願いしたいのは、「若い人は何を考えているのか分らない」とよく言われるけれど、大人の人が話してくれていないじゃないか、だから「話してはいけないんじゃないか」と思ってしまっているんだということです。だから、若い人に、自分の子どもや孫に、いろいろと話してやって欲しいと思います。

トさん 女性
私は、大学4年生です。有機農業や森林問題を中心に、体を動かしながら人と出会いながら環境問題を学んでいます。私も「NO war YES」の活動をしています。ここから見まわしてみて、私と同じ大学生ぐらいの人が見えないのが寂しいです。
 今、何か日本にとって都合の良いことだけを言っている人がいます。それから9条改憲にしても「あの人が改正に賛成だから賛成する」とか、逆があるかもしれないけれど、おかしいです。一人ひとりが、どうして九条改憲に反対なのかを十分に考え、人に伝えていくことが大切なんだろうと思っています。
 自分に関係がないと思っている人が多いですが、それでも自分と戦争について考える方法はあると思います。広く自分の子、孫にも伝えていくことが大切だと思います。お願いします。一緒にがんばっていきます。

チさん 男性
 1943年、15歳で予科練に志願、海軍飛行兵になる。1トン爆弾をつけた人間ロケット機に乗って体当たりする特攻隊員となり、訓練中に敗戦。大和市平和事業語り部。
今日は、私がどうして、またどんなきっかけがあって語り部をするようになったかを話します。弟の話です。僕は15歳で予科練に行きました。まだ弟は生まれていなかったから、戦争がつづいて僕が死んでいたら弟に会えなかったと思います。
弟は産院で、その日の朝生まれたのですが、母は会わせてもらえないでいました。父は、あの時代ですから夕方ようやく病院にいけました。その時のことです。父は、赤ん坊も見ないうちに医者に呼ばれました。そして「お宅のお子さんは御国の役に立たないから始末しましょう」と。中指と人差し指が両手とも癒着していたんです。鉄砲の引き金を引けないんです。
母が、朝産んだのにまだあわせてくれない、と父に訴えたところ、父は医者に言われたことをポロっと言ってしまった。母はすぐに医者の所に行って食ってかかり、さんざん暴れたそうです。兄は予科練にいっている、何とか生かして欲しいといったんです。それて弟は殺されずにすんだ。
私が伝えたいのは「お国のために」というのはどういうことか、と言うことです。今「国のために血を流せ」なんていう人がいますが、実態はこういうことです。
この話は、父の13回忌に、妹から陰に呼ばれて聞いた話です。妹は当時女学生になっていて、よく覚えているということでした。父母は、このことを戦後もまったく話してくれませんでした。とても辛かったのだと思います。僕は志願して予科練にいったけれど、弟は「お国のために」生まれたあとすぐ殺されるところだったのです。
それが、僕が語り部になったきっかけです。

リ 女性
 大和市在住12年、中学生の娘らがいる。
父は南方に行きました。母は東京大空襲で焼け出されました。でも両親が私にそんな事実を言ったのは40年もたってからでした。子どもは「嘘みたいだね」と言っていました。母は「本気にしてもらえないかもね」といっていました。戦争放棄、もう戦争はしないという時代に私に生まれました。
年老いた母は、イラクに自衛隊が派遣された時、私の子つまり孫が徴兵されるのではないか、と心配していました。それでこの会に入りました。

ヌ 女性 
牧師。「基地・自衛隊問題小委員会」委員など。
宗教が目指すことは本来、一人ひとりの心を大切にして、様々な違いを超えて、助け合うようにすることだと思います。今、尽くそうとしているのは、在日米軍の再編問題です。座間にアメリカ陸軍の司令部がきて、横須賀には原子力空母、沖縄では普天間基地が使い勝手が悪くなったのが本当の理由で代替基地ができます。
 つくづく感じるのは、戦争反対の志を示そうとする人に対して、すごい勢いで活動しにくくさせている、大変な時代だということです。例えば「共謀罪」が作られようとしています。犯罪の一部も用意もしていないのに、言葉があったとして捕まえるものです。いくらでもでっちあげをすることができます。治安維持法以上です。
先日、年をとった人に聞きました。治安維持法違反のときは、モガとかモボといっていた時代で、不安を感じた人は余りいなかったということです。今の時代に同じことが繰り返されてはいけません。今こそ、共謀罪も九条改憲も、声を上げて危険性を伝えていきたいと思います。

ル 男性
 今日は、会議がいろいろあって遅くなってしまいました。長く保守系といわれる会派で議員をしてきました。私は、今から60年前、昭和20年に川崎の国民学校(現在の小学校)を卒業したはずですが、卒業式がありませんでした。大空襲で校舎が焼けてしまったんです。
それから40年たって、そろそろ小学校の卒業証書がほしいなぁと思っていました。そしてようやく、40年目にその小学校で卒業証書を授与されました。そのときの感激は、今でも忘れません。昭和20年の3月、戦争がなければもらっていた筈の卒業証書でした。
憲法9条、大変なものです。戦争をしない、したらいけないと書いてある。戦争というのは人の命ばかりでなく、人の心まで傷つける。私は、今年73歳になりますが、 戦争は嫌です。戦後、日本がなんとか守ってきたことを、世界の人々に叫び、誇りとすべきです。「戦争」という言葉が死語になればいいなと、この地球上から無くなればいいなと思います。
どうかこの「今、ヤマトの地から九条を」の言葉どおり、戦争を止めるために協力していきましょう。