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くまもとよかとこ案内人の会

熊本観光ボランティアガイドの会です。主に熊本城や熊本市内をご案内いたします。

古町は”せいしょこさん”時代のなごり

2019年01月12日 | ガイド”もっこす”

現在、古町という町名は無いが、五福校区あたりに古くからある町を総称して「古町」と呼んどると。古町は町人町として作られ、細工町・桶屋町・紺屋町など作って売る店、呉服町・米屋町・魚屋町のように町名に由来する様々な商品を扱う店が並んだ。坪井川による舟運、明治 24 年九州鉄道開通、大正 13 年市電開通により、流通の拠点性は高まった。明治期、様々な商店の他、銀行、芝居小屋が立地し、唐人町は花の唐人町と言われるほど繁華街、問屋街としてにぎわった。そういえば、子供の頃、確か郵便番号導入の頃と思っとるバッテンが、住んどった古城堀端町、塩屋町、職人町、馬借町等の町名が新町一丁目、二丁目、三丁目・・・となりたいぎゃ寂しかったバッテンが古町の人達は大したもんばい、最近古い町名復活要望が出ているバッテンガ・・・・残念タイ


2019年 明けましておめでとうございます。

2019年01月01日 | ガイド”もっこす”

皆さん元気に新しい年を迎えなはったと思っとりますバッテン、熊本地震からやがて3年になるたい。お城や城下町も普請の槌音がアチコチで聞こえるタイ。モッちゃん一族”も皆元気に正月を迎え「今年もお城や、ご城下の面白か話ば、皆の衆に伝えるため“黒鍬者モツ兵衛”を中心に全員探索方となり話のネタを集め、よみうりのもつ吉”が皆の衆に伝えるタイ。面白か話ば聞いたなら知らせてね!


名君細川重賢公と櫨

2018年12月22日 | ガイド”もっこす”

前回は、「赤穂事件と櫨」の話をしたばってんが、延享四年(1747年)8月15日に江戸城で発生した板倉勝該(いたくらかつかね)事件は、肥後細川藩にとっては「青天の霹靂」、急遽六代藩主となったのが重賢(しげかた)公・・この方が財政再建の柱に「櫨」・・不思議な「縁」ですタイ。


忠臣蔵と櫨

2018年12月15日 | ガイド”もっこす”

12月14日は、歴史上有名な「赤穂浪士討ち入り」の日です。拙者も以前、赤穂義士が祀られている品川の泉岳寺にお参りに行ったコツがあるバイ。約270年続いた江戸時代、江戸城で7件の刃傷(傷害)事件が起きています。その2件に肥後細川家が係わっています。始めは、1701年(元禄14年)3月14日に起きた播州赤穂浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)公家吉良上野介対する刃傷事件(赤穂事件)。2件目は1747年(延享四年)8月15日に起きた板倉勝該(いたくらかつかね)が肥後五代藩主細川宗孝に対し、間違って刃傷に及び宗孝公は死亡、細川家にとっては藩の存亡の危機に及んだ大事件です。事件内容、年代は違っても事の発端が江戸城での刃傷事件であり、その話の結末が何故か「櫨(ハゼ)」と言うキーワードなのです。この2つの事件に不思議な”縁”を何故か感じるのは、拙者の思い過ごしかも!そぎゃんこっぁ~どぎゃんでんよかバッテン、今回と次回はこの2つの不思議な「縁」について紹介するタイ。


土木の神様2

2018年12月08日 | ガイド”もっこす”

二本木の“せいしょこさんの背割塘”についてしゃべったばってんが、少し上流に逆登っと"長六橋"があっと。熊本城の外堀として利用した白川には、敵の侵入を防ぐため橋は架けず渡し船を利用していたそうです。江戸時代、肥後と薩摩を結ぶ薩摩街道に架けられた唯一の橋、右岸の下河原に上座、下座の二つの芝居小屋があり、下河原は芝居小屋を始め市場も立並ぶ繁華街となり、熊本の繁華街、歓楽街のルーツといわれる。対岸には刑場もあったという。明治10年の西南戦争の時は、薩摩軍がこの橋を渡り、侵攻してきた歴史的な橋でもあり、西郷さんも渡ったかも?