醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1415号   白井一道

2020-05-20 06:01:07 | 随筆・小説



  徒然草第238段 御随身近友が自讃とて



原文
 御随身近友(みずゐじんちかとも)が自讃とて、七箇条書き止めたる事あり。皆、馬芸、させることなき事どもなり。その例(ためし)を思ひて、自讃の事七つあり 。
一、 人あまた連れて花見ありきしに、最勝光院の辺にて、男の、馬を走らしむるを見て、「今一度馬を馳するものならば、馬倒れて、落つべし。暫し見給へ」とて立ち止りたるに、また、馬を馳す。止むる所にて、馬を引き倒して、乗る人、泥土の中に転び入る。その詞の誤らざる事を人皆感ず。

現代語訳
 御随身近友(みずゐじんちかとも)が自慢話として七か条を書き留めたことがある。皆、馬術に関する事ばかりでたいしたことではない。その例を思い、私にも自慢したいことが七つある。
一、多くの人を連れて花見をしたときに、最勝光院の辺りで男が馬を走らせているのを見て、「今一度、馬を走らせようものなら馬は倒れて、乗り手は落ちるであろう。暫し見て置け」と立ち止まっていると、また馬を走らせる。馬を留める所で馬を引き倒してしまい、男は泥土の中に転びこんだ。私の言葉が間違っていなかったことに皆は感嘆じた。

原文
 一、当代(たうだい)未だ坊におはしましし比、万里小路殿御所(までのこうじどのごしょ)なりしに、堀川大納言殿伺候し給ひし御曹司(みざうし)へ用ありて参りたりしに、論語の四・五・六の巻をくりひろげ給ひて、「たゞ今、御所にて、『紫の、朱奪ふことを悪む』と云ふ文を御覧ぜられたき事ありて、御本を御覧ずれども、御覧じ出されぬなり。『なほよく引き見よ』と仰せ事にて、求むるなり」と仰せらるゝに、「九の巻のそこそこの程に侍る」と申したりしかば、「あな嬉し」とて、もて参らせ給ひき。かほどの事は、児どもも常の事なれど、昔の人はいさゝかの事をもいみじく 自讃したるなり。後鳥羽院の、御歌に、「袖と袂と、一首の中に悪しかりなんや」と、定家卿に尋ね仰せられたるに、「『秋の野の草の袂か花薄(ずすき)穂(ほ)に出でて招く袖と見ゆらん』と侍れば、何事か候ふべき」と申されたる事も、「時に当りて本歌を覚悟す。道の冥加なり、高運なり」など、ことことしく記し置かれ侍るなり。
九条相国伊通公(くでうのしやうこくこれみちこう)の款状(くわじやう)にも、殊なる事なき題目をも書き載せて、自讃せられたり。

現代語訳
 今上天皇がまだ春宮坊(とうぐうぼう)におられた頃、万里小路殿邸(までのこうじどのてい)が御所であった頃、堀川大納言殿が参上しご機嫌を伺っておられた部屋、御曹司(みざうし)に用があり私が参った折、論語の四・五・六の巻を繰り広げられて「ただ今、御所で『紫が朱を奪う事を憎む』という文をご覧になりたい思っておられたことがあり、御本をご覧になられても、探し出すことができなかったようだ。『なおよく探してみよ』と仰せられて、求められた」とおっしゃられた折に「九の巻のそこそこにある」と申されたので、『とても嬉しい』と、持ってこさせた。このようなことは、子供には常の事ではあるが、昔の人は小さなことも大事にすることを自慢していた。後鳥羽院の和歌に「袖と袂とが一首の中にあるのは悪いことでしようか」と、藤原定家卿にお尋ねになられたところ、「『秋の野の草の袂か花薄(ずすき)穂(ほ)に出でて招く袖と見ゆらん』とあるので、何の差支えがありましょう」とおっしゃられた事も、「大事な時に巡り合い典拠となる歌を覚えていた。歌の神様のご加護であり、運に恵まれた」など大げさに記述されている。
 九条相国伊通公(くでうのしやうこくこれみちこう)の上申書に格別な事もない題目も書き載せて自慢している。

原文
一、 常在光院(じやうざいくわうゐん)の撞き鐘の銘は、在兼卿(ありがねのきやう)の草(さう)なり。行房朝臣清書(ゆきふさのあつそんせいじよ)して、鋳型(いかた)に模(うつ)さんとせしに、奉行(ぶぎやう)の入道(にふだう)、かの草を取り出(い)でて見せ侍りしに、「花の外(ほか)に夕を送れば、声(こゑ)百里に聞ゆ」と云ふ句あり。「陽唐(やうたう)の韻と見ゆるに、百里誤りか」と申したりしを、「よくぞ見せ奉(たてまつ)りける。己れが高名(かうみやう)なり」とて、筆者の許へ言ひ遣りたるに、「誤り侍りけり。数行(すかう)と直さるべし」と返事侍りき。数行(すかう)も如何なるべきにか。若(も)し数歩(すほ)の心か。おぼつかなし。数行なほ不審。数(す)は四五也。鐘四五歩不幾也(かねしごほいくばくならざるなり)。たヾ、遠く聞こゆる也。

現代語訳
 一、常在光院(じやうざいくわうゐん)の撞き鐘の銘文は在兼卿(ありがねのきやう)が書いたものだ。行房朝臣が清書し、鋳型(いかた)に模(うつ)そうとした折、奉行の入道がこの銘文を取り出して見せてくれ、「花の彼方で夕べを送り、鐘の音は百里遠くまでとどく」という句がある。「この銘文は陽唐(やうたう)の韻を踏んでいるように思うが、百里では間違いではないか」とおっしゃられたら、入道は「よくぞお見せ下さった。私の手柄だ」と、筆者のところに言いやったところ、「私の間違いでした。数行書き直して下さい」と返事がありました。数行もどうしたら良いものやら。もしいくつかの言葉だったら。はっきりしない。数行の意味が分からない。数とは四五ぐらいということか。鐘の音が四つ五つはっきりしない。ただ遠く聞こえるだけである。

原文
一、 人あまた伴ひて、三塔巡礼(さんたふじゆんれい)の事侍りしに、横川(よかわ)の常行堂(じやうぎやうだう)の中、龍華院〈りようげゐん〉と書ける、古き額あり。「佐理(さり)・行成(かうぜい)の間(あいだ)疑ひありて、未だ決せずと申し伝へたり」と、堂僧ことことしく申し侍りしを、「行成ならば、裏書あるべし。佐理ならば、裏書あるべからず」と言ひたりしに、裏は塵積り、虫の巣にていぶせげなるを、よく掃き拭ひて、各々見侍りしに、行成位署(かうぜいゐじよ)・名字・年号、さだかに見え侍りしかば、人皆興に入る。

現代語訳
人をたくさん連れて、比叡山延暦寺の東塔・西塔・横川を巡り礼拝することがあった折、横川の横川(よかわ)の常行堂(じやうぎやうだう)の中に龍華院〈りようげゐん〉と書いてある古い額がある。「藤原佐理(ふじわらすけまさ)が書いたのか、藤原行成(ふじわらいくなり)が書いたのか、分からず、未だに決していないと申し伝えられている」と、お堂の僧侶がものものしく話していた時「行成ならば裏書があるはず、佐理ならば裏書があるはずがない」と言うと、裏は塵が積もって虫の巣になり汚れているのを良く掃きぬぐい、各々を見ると行成署名、官位、年号がはっきり見ることができたので人は皆、感じ入った。

原文
一、 那蘭陀寺(ならんだじ)にて、道眼聖(だうげんひじり)談義せしに、八災と云ふ事を忘れて、「これや覚え給ふ」と言ひしを、所化(しよけ)皆覚えざりしに、局(つぼね)の内より、「これこれにや」と言ひ出したれば、いみじく感じ侍りき。

現代語訳
 一、 那蘭陀寺(ならんだじ)で道眼聖が経典の講義をした折、人の心を乱す八つの災いがあるということを忘れて「これらを覚えているか」と言った時、弟子たちが皆覚えていなかったのに、聴聞の別席から「これこれでは」と言い出すと道眼聖は感心していた。

原文
一、 賢助僧正(けんじよそうじよう)に伴ひて、加持香水を見侍りしに、未だ果てぬ程に、僧正帰り出で侍りしに、陳(ぢん)の外(と)まで僧都見えず。法師どもを帰して求めさするに、「同じ様(さま)なる大衆(だいしゆ)多くて、え求め逢はず」と言ひて、いと久しくて出でたりしを、「あなわびし。それ、求めておはせよ」と言はれしに、帰り入りて、やがて具して出でぬ。
現代語訳
 賢助僧正(けんじよそうじよう)にお伴して加持香水の儀式を見に行った折、まだ儀式が終わらないうちに僧正が帰り出て行かれたので真言院の外陣にも僧都は見えない。随行してきた法師どもをかえして探させると「同じような僧侶が多くて探すことができません」と言ってとても長い間たってから出て来たので「あぁ、困ったことだ。あなたが探してきてください」と言われたので儀式の会場に戻り、やがて連れ出してきた。

原文
一、二月十五日、月明き夜、うち更けて、千本の寺に詣でて、後より入りて、独り顔深く隠して聴聞し侍りしに、優なる女の、姿・匂ひ、人より殊なるが、分け入りて、膝に居かゝれば、匂ひなども移るばかりなれば、便(びん)あしと思ひて、摩り退きたるに、なほ居寄りて、同じ様なれば、立ちぬ。その後、ある御所様の古き女房の、そゞろごと言はれしついでに、「無下に色なき人におはしけりと、見おとし奉る事なんありし。情なしと恨み奉る人なんある」とのたまひ出したるに、「更にこそ心得侍れね」と申して止みぬ。この事、後に聞き侍りしは、かの聴聞の夜、御局の内より、人の御覧じ知りて、候ふ女房を作り立てて出し給ひて、「便よくは、言葉などかけんものぞ。その有様参りて申せ。興あらん」とて、謀り給ひけるとぞ。

現代語訳
 二月十五日、月の明るい夜更けに千本釈迦堂にお参りしていると、後から入って来て、独り顔を深く隠してお経の講釈を聞いてる女性の容姿や薫りが抜きんでて、人より特別な人が分け入りて、私の膝に触れるので匂いなどがうつる状況なので、具合が悪いと思い、擦り退いたところ、猶すり寄って来て、同じような状況になったので、立ち上がった。その後、ある御所様に仕えた古い女房がとりとめもないことを言われたついでに「あなたをひどく無粋な方でいらっしゃったわとお見下げ致したことがありましたわ。つれないとお恨み申し上げる人がいるのです」と言い出したので、「全然何のことなのかわかりません」と話してそのまままになった。この事を後に聞いたことによると、かの聴聞の夜、お局の中からある方が私のいることをお見知りになって、お側の女官を聴聞者のように仮装させてお出しになり、「いい折があったら言葉でも言いかけるようにせよ。その時の様子を帰って後に申し上げなさい。面白いことであろう」と云いつけられて、私をお試しになったのだそうだ。


醸楽庵だより   1414号   白井一道

2020-05-18 10:37:33 | 随筆・小説



  徒然草第237段 柳筥に据うる物は



原文
 柳筥(やないばこ)に据(す)うる物は、縦様(たてさま)・横様(よこさま)、物によるべきにや。「巻物などは、縦様に置きて、木の間(あはひ)より紙ひねりを通して、結い附く。硯(すずり)も、縦様に置きたる、筆転ばず、よし」と、三条右大臣殿仰せられき。
 勘解由小路(かでのこうじ)の家の能書の人々は、仮にも縦様に置かるゝ事なし。必ず、横様に据ゑられ侍りき。

現代語訳
柳筥(やないばこ)に乗せて置く物を縦向きに置くのか、横向きに置くのかは物によるのだろうか。「巻物などは縦向きに置き、木の間(あはひ)から紙縒(こよ)りを引っ張り出し結びつける。硯も縦向きに置き、筆を転ばさないようにするのが良い」と三条右大臣殿がおっしゃっておられた。
勘解由小路(かでのこうじ)家の能書家の人々は、仮にも縦向きに置くことはない。必ず横向きに置かれていた。

三筆と三蹟について   白井一道
三筆は9世紀頃に活躍した空海(くうかい)・嵯峨天皇(さがてんのう)・橘逸勢(たちばなのはやなり)の3人を指し,三蹟は10世紀頃に活躍した小野道風(おののみちかぜ,通称は「とうふう」)・藤原佐理(ふじわらのすけまさ,通称は「さり」)・藤原行成(ふじわらのゆきなり,通称は「こうぜい」)の3人を指す。彼らは傑出した書家として古くから尊崇され,江戸時代には三筆・三蹟という呼び名が定着した。
弘仁9(818)年,嵯峨天皇は大内裏(平安宮)の門号を唐風に改めるとともに,自ら大内裏東面の陽明門(ようめいもん)・待賢門(たいけんもん)・郁芳門(いくほうもん)の額を書き,南面の美福門(びふくもん)・朱雀門(すざくもん)・皇嘉門(こうかもん)の額を空海に,また北面の安嘉門(あんかもん)・偉鑒門(いかんもん)・達智門(たっちもん)の額は橘逸勢に書かせました。この3人が三筆である。
平安時代中期,9世紀頃までの日本の書法は,東晋の人で書聖と称された王羲之(おうぎし,4世紀)を初め、中国の書家にならったものでした。当時の日本が中国の制度や文化の摂取につとめていたからである。三筆の書風も中国に規範を求め,その強い影響を受けている。しかしその一方,彼らは唐風にならいながらも,それぞれ独自の書法を開拓し,やがて後に確立する和様(わよう)への橋渡しという役割を果たす。
空海 五筆和尚(ごひつおしょう)
 空海(8世紀末~9世紀)は後に弘法大師(こうぼうだいし)と号され,真言宗の開祖として知られている。佐伯田公(さえきのたぎみ)の子として讃岐国(さぬきのくに,香川県)多度郡屏風浦(びょうぶがうら)に生まれ,上京して仏門に入りました。延暦23(804)年には遣唐使にしたがい入唐し,大同元(806)年に帰国して真言宗を開創しました。
空海は優れた宗教家であっただけでなく漢詩文にも秀で,唐では仏教のほか書法や筆の製法なども学びました。その達筆ぶりは,後世にさまざまな伝説を生み出しています。たとえば空海は,左右の手足と口に5本の筆を持って一度に5行を書し,「五筆和尚」と呼ばれたと伝えられますが(『入木抄』<じゅぼくしょう>),これも能書家として尊崇されたことの反映といえます。現代でも「弘法筆を選ばず」「弘法も筆の誤り」など,空海と書道にまつわることわざが残されています。
空海の筆跡として最も有名なものが,天台宗の開祖最澄(さいちょう,767~822)に宛てた手紙「風信帖」(ふうしんじょう,国宝)です。またこのほかにも,空海が高雄山寺(神護寺)で真言密教の秘法,灌頂(かんじょう)を授けた人々を記した「灌頂歴名」(かんじょうれきみょう,国宝)などが知られています。
こうした筆跡から窺える空海の書風は,伝統的な王羲之の書に,唐代の書家顔真卿(がんしんけい,709~85)の書法を加味し,彼自身の個性を加えたものとされています。また空海は様々な書体に優れ,たとえば唐で流行した飛白(ひはく)の書という技法もいち早く取り入れました。「五筆和尚」とは,このように多くの書体を使い分けたことに由来するともいわれます。
嵯峨天皇 能筆の天皇
 嵯峨天皇(786~842)は,桓武天皇の第二皇子で平城天皇の弟にあたり,大同4(809)年に天皇となりました。詩文や書にすぐれ,在位中は宮廷を中心に唐風文化が栄えたことで知られています。
嵯峨天皇は唐代の書家欧陽詢(おうようじゅん,557~641)を愛好し,また空海に親近したことから,その書風にも影響を受けたようです。『日本紀略』には「真(まこと)に聖なり。鍾(しょうよう,魏の書家)・逸少(いつしょう,王羲之),猶いまだ足らず」とあり,筆づかいは羲之らにも勝るとまでほめたたえられました。
嵯峨天皇の確実な筆跡では,光定(こうじょう)という僧が延暦寺で受戒したことを証明した文書「光定戒牒」(こうじょうかいちょう,国宝)が知られています。その書風には欧陽詢や空海の影響が認められるとされています。
橘逸勢 配流された能筆家
橘逸勢(?~842)は入居(いりすえ)の子で,延暦23(804)年,空海らとともに入唐して一緒に帰国しました。しかし承和9(842)年に起きた承和の変に連座し,配流地の伊豆へ向かう途中に病没するという非業の死を遂げました。
『橘逸勢伝』(たちばなのはやなりでん)によれば,逸勢は留学中,唐の文人たちに「橘秀才」(きつしゅうさい)と賞賛されたほどの学才があり,また隷書体(れいしょたい)に優れていたといわれています。残念ながら逸勢の確かな筆跡は残っていませんが,その筆と伝えられるものに,桓武天皇の皇女が興福寺東院西堂に奉納した「伊都内親王願文」(いとないしんのうがんもん)があります。
三蹟と和様の創成
以上のような中国を模範とした時代は,10世紀頃になると次第に変化を見せるようになりました。たとえば絵画での唐絵(からえ)から大和絵(やまとえ)への移り変わりや,文学に見られる物語文学の起こりなどがそれで,いわゆる国風文化(こくふうぶんか)の成立がそれにあたります。
書道でも,この頃には和様(わよう)と呼ばれる日本風の書法が創成され,新たな規範として広く流行することになりました。この和様を創始し定着させたのが,小野道風・藤原佐理・藤原行成の三蹟です。彼らの書は新しい日本独自の規範として長らく尊重され,鎌倉時代の書道指南書『入木抄』(じゅぼくそゆ)にも,野跡(やせき)・佐跡(させき)・権跡(ごんせき)(小野道風・藤原佐理・権大納言藤原行成の筆跡),この三賢を,末代の今に至るまで,この道の規模(模範)として好む事,面々彼の遺風を摸すなり。
小野道風 「羲之の再生」
小野道風(894~966)は,篁(たかむら)の孫にあたる官人で,当代随一の能書として絶大な評価を受けました。延長4(926)年,醍醐天皇は僧寛建の入唐にあたり,唐で広く流布させるため,道風の書いた行書・草書各一巻を与えました。当時,道風は唐にも誇示すべき書家として認められていたわけです。また『天徳三年八月十六日闘詩行事略記』も「木工頭(もくのかみ)小野道風は,能書の絶妙なり。羲之(王羲之)の再生,仲将(ちゅうしょう,魏の書家)の独歩(どっぽ)なり」と評しています。
道風は羲之の書風を基礎としながら字形を端正に整え,筆線を太く豊潤なものとして,日本風の穏やかで優麗な書風,つまり和様をつくり出した人物とされています。
その道風の真跡としては,円珍(814~91)へ智証大師の号が贈られたときの「円珍贈法印大和尚位並智証大師諡号勅書」(えんちんぞうほういんだいかしょういならびにちしょうだいししごうちょくしょ,国宝)や,内裏の屏風に文人大江朝綱の詩句を書したときの下書きとなった「屏風土代」(びょうぶどだい)などが知られています。
藤原佐理 異端の能筆家
藤原佐理(944~98)は摂政(せっしょう)太政大臣(だじょうだいじん)実頼(さねより)の孫で,「日本第一の御手」(『大鏡』)といわれ,達筆で名を馳せました。円融・花山・一条天皇ら三代の大嘗会(だいじょうえ)で屏風の色紙形(しきしかた)を書く筆者に選ばれ,永観2(984)年には内裏の額を書いて従三位(じゅさんみ)に昇進するなど,その筆跡がもてはやされました。
しかし筆跡への高い評価とはうらはらに,宮仕えの貴族としての佐理は,非常識でだらしない人物と見られていたようです。関白(かんぱく)藤原道隆(ふじわらのみちたか,953~95)の依頼で障子の色紙形を書いたときには,日が高くなり人々が参集した後でようやく現れたため,見事な能筆ぶりを見せたにもかかわらず,場が興醒めとなり,恥をかきました。『大鏡』はこのことから佐理を「如泥人(じょでいにん,だらしのない人物)」と評しています。
佐理の真跡では,大宰府へ赴く途中に書いた手紙「離洛帖」(りらくじょう,国宝)や漢詩文の懐紙「詩懐紙」(しかいし,国宝)などが有名です。その筆運びは緩急の変化に富み,奔放に一筆で書き流したもので,道風や行成の丁寧な筆致とは違って独特の癖があるといわれます。こうして見ると,佐理の非常識な行動も,むしろ個性的で型破りな異才ぶりを際だたせているように思えます。
藤原行成 「入木相承の大祖」
藤原行成(972~1027)は摂政太政大臣伊尹(これまさ)の孫で,実務に堪能な公卿として藤原道長(966~1027)の信頼も高く,権大納言まで昇進しました。この頃の名臣を称したいわゆる「寛弘の四納言」の一人にあたる人物です。
行成は本人だけでなく子孫も代々書道を相承して,この家流は「能書の家」となっていきました。このことはそれまでと大きく異なる点といえます。そうして生まれたのが後世に多くの書流の源となった世尊寺流(せそんじりゅう)であり,行成はその始祖として「本朝(ほんちょう,日本)入木(じゅぼく,書道)相承の大祖」(『尊卑分脈』<そんぴぶんみゃく>)と尊重されるようになったのです。
行成は道風の書を尊重し,自分の日記『権記』(ごんき)にも,夢で道風に会って書法を伝授されたと記しました。道風への尊崇や,彼の創始した和様を継承しようとする意識が読み取れます。行成は穏やかで優美な筆致を持ち,まさに完成された和様の姿を窺うことができます。性格も冷静で温厚だったらしく,そうした人柄も書風に反映したのかもしれません。
行成の代表的な筆跡としては,菅原道真(すがわらのみちざね)らの文章を書写したもので本能寺に伝来したために「本能寺切」(ほんのうじぎれ,国宝)と呼ばれる書や,唐代の詩人白居易(はくきょい,772~846)の詩集『白氏文集』(はくしもんじゅう)を書写した「白氏詩巻」(はくししかん,国宝)などがあります。
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醸楽庵゜だより   1413号   白井一道

2020-05-17 10:53:11 | 随筆・小説



    徒然草第236段 丹波に出雲と云ふ所あり



原文
 丹波に出雲と云ふ所あり。大社(おおやしろ)を移して、めでたく造れり。しだの某(なにがし)とかやしる所なれば、秋の比、聖海上人、その他も人数多誘ひて、「いざ給へ、出雲拝みに。かいもちひ召させん」とて具しもて行きたるに、各々拝みて、ゆゝしく信起したり。
 御前なる獅子・狛犬、背きて、後さまに立ちたりければ、上人、いみじく感じて、「あなめでたや。この獅子の立ち様、いとめづらし。深き故あらん」と涙ぐみて、「いかに殿原(とのばら)、殊勝の事は御覧じ咎(とが)めずや。無下なり」と言へば、各々怪しみて、「まことに他に異なりけり」、「都のつとに語らん」など言ふに、上人、なほゆかしがりて、おとなしく、物知りぬべき顔したる神官を呼びて、「この御社の獅子の立てられ様、定めて習ひある事に侍らん。ちと承らばや」と言はれければ、「その事に候ふ。さがなき童どもの仕りける、奇怪に候う事なり」とて、さし寄りて、据ゑ直して、往(い)にければ、上人の感涙いたづらになりにけり。

現代語訳
 丹波に出雲という所がある。出雲大社の神霊を請い迎えてめでたく造った。しだの何某とか言う者が支配する所なので、秋の頃、聖海上人とその他の人も多数誘い、「さぁーお出で下さい。出雲神社の参拝に。牡丹餅をご馳走しましょう」と手に持ち行った折、皆それぞれ拝み、えらく信仰心を起した。
 神社の前の獅子や狛犬が背むいて後ろに立ち上がっているので、上人は大事なことだと思い、「なんとめでたいことか。この獅子の立ち上がった姿はとても珍しい。きっと深い理由があるのだろう」と涙ぐみ「どんなにか皆さん、この素晴らしいことをご覧になって不思議にお思いになりませんか。それではあんまりです」と言うと、各々不思議がり、「本当に他とは違っていますね」、「都への土産話にしましょう」などと話すと、上人はなおそのいわれを知りたいと思い、かなり年配の事情を知っていそうな顔をしている神官を呼び、「この御社の獅子が立っているさまを決められている。すこし伺いたい」と言われたので「そのことでございますか。いたずらな子供たちのしたことで、怪しからんことでございます」と、獅子に近寄り、向き合うように据え直して立ち去ったので上人の感涙は無意味なものになってしまった。

 映画『汚れなき悪戯』   白井一道
 映画は祭礼のために丘の上の寺院に向かう人々の流れと逆方向に歩き、町に住む病気の少女を見舞う無名の神父の話で始まる。彼は今日の祭りは何を記念するものか知っているかと少女とその父親に問い、祭礼の起こりを語りだす。
19世紀の前半、スペインのある町の町長を2人のフランシスコ会神父、1人の修道士、計3人が訪れ、侵略者フランス軍により破壊されたまま廃墟となっている丘の上の市有地の修道院を再建する許可を求めた。町民の助けを得て再建された修道院ではやがて12人に増えた修道士たちが働いていたが、ある朝、門前に男の赤子が置かれていた。神父たちは、赤子にその日の聖人の名前、「マルセリーノ」で洗礼を施した。両親は既に亡くなっていたことが判ったので、修道士たちは近隣に里親を求めて歩き回った。
しかし適当と考えられた人々の生活は苦しく、また引き取ると申し出た鍛冶屋は徒弟を乱暴に扱っているため修道士の方で断り、結局赤子は修道院で育てることになった。5年後、マルセリーノは丈夫で活発な少年になっていた。彼は修道士たちから愛され、また宗教や学業の手ほどきを受けはじめていたが、細やかな愛情を注ぐ母親もいなければ同じ年頃の遊び相手もいない境遇に、修道士たちは憂慮していた。
ある日町に行く途中で馬車の故障で修道院に立ち寄った家族がいて、マルセリーノはその母親と話すことで女性に初めて接し、また自分と同じくらいの歳だというマヌエルという息子の話も聞いた。マルセリーノは炊事係のトマス修道士に自分の母親のことを尋ね、彼は母親はもちろん美人で今は神様のところにいると請け合った。またマルセリーノはマヌエルを仮想の遊び仲間として独り言を言いながら遊ぶ癖がついた。
修道院の再建を許可した町長は死ぬ前に土地の寄贈を採決しようと申し出たが院長は断っていた。しかし彼の死後町長となった鍛冶屋はまず子供の里親となることを要求し、拒否されると他の議員への影響力を駆使して修道院を立ち退かせようと画策し始めた。
トマス修道士は農具や工具を保管する屋根裏部屋には決して入るな、奥の部屋には男がいておまえを捕まえるとマルセリーノに言いつけていたが、ある日おっかなびっくり階段を上がって行ったマルセリーノは奥の部屋で大きな十字架のキリスト像を見た。
転がるように階段を下って逃げたマルセリーノだが、怖いもの見たさで再び様子をうかがいに戻ると「男」は元の場所から動いていなかった。トマス修道士の話を信じ、「男」が彫像だとは思わないマルセリーノは像に話しかけた。男は答えなかったが痩せて空腹そうだと思った少年は台所に走るとパンを持ってきて差し出した。すると像の腕が動いた。
像はマルセリーノが大きな肘掛け椅子をすすめると降りてきて、私が誰だか分かるかと問うとマルセリーノは神様ですと答えた。像は特にパンと葡萄酒を喜んだのでマルセリーノは毎日それらを盗み、それに気づいた修道士らは訝りながらも気付かぬふりをして彼を見張ることにした。
像との話題はマルセリーノの母のことや像の母のことに及んだ。ついにある日、トマス修道士が見張っている時、例のようにパンと葡萄酒を持っていったマルセリーノに対し、キリストは彼が良い子だから願いをかなえようと申し出た。迷わずマルセリーノは母に会いたい、そしてあなたの母にも会いたいと言った。今すぐにかという問いには今すぐと答えた。ドアの割れ目から覗くトマス修道士の前で像は少年を膝に抱き、眠らせた。
トマス修道士は階段上まで戻ると兄弟たちを呼んだ。駆けつけた神父、修道士たちは空の十字架を見て、やがて像が十字架に戻るのを見て扉を開いた。輝く光のなかで、マルセリーノは椅子の上で顔に微笑みを浮かべて死んでいた。
奇跡を聞きつけた町の人々が続々とあつまる中、町長とその妻は、彼らに混じって行った。
やがて修道院は寺院に作り変えられ、礼拝堂には奇跡のキリスト像が祀られ、そのひと隅にマルセリーノが葬られ、奇跡の記念日には遠近の町村から大勢の人々が集まるようになった。

醸楽庵だより   1412号   白井一道   

2020-05-16 10:37:34 | 随筆・小説



  徒然草第235段 主ある家には



原文
 主(ぬし)ある家には、すゞろなる人、心のまゝに入り来る事なし。主なき所には、道行人濫りに立ち入り、狐・梟やうの物も、人気(ひとけ)に塞(せ)かれねば、所得顔(ところえがお)に入り棲み、木霊(こたま)など云ふ、けしからぬ形も現はるゝものなり。
 また、鏡には、色・像なき故に、万の影来りて映る。鏡に色・像あらましかば、映らざらまし。
 虚空よく物を容る。我等が心に念々のほしきまゝに来り浮ぶも、心といふもののなきにやあらん。心に主あらましかば、胸の中に、若干(そこばく)の事は入り来らざらまし。

現代語訳
 主の住む家には、無関係な人が思いのまま通りすがりに入って来ることはない。主の居ない所には通りすがりの人がみだりに立ち入り、狐や梟のようなものも、人の気配に防がれることがなく、思う存分入り込み住み始め、木霊(こたま)などという奇怪なものが現れてくるものである。
 また鏡には色と像がないので、あらゆる物の映像が映る。鏡に色や像があったとしても映ることはないであろう。
 何もない空間にはあらゆる物をいれることができる。我らの心に種々の思いが気ままに現れては浮かんでくるのも、心というものに実体がないからであろう。心に主がいるのならば、胸の中に多くの事は入り込むことはないであろう。

鏡の神秘性   白井一道
神を祀るために、弥生時代以来さまざまな品々が捧げられてきた。「鏡」はそのひとつである。古代の祭祀を考える上で手がかりとなる『日本書紀』の「天石窟(あめのいわや)(『古事記』では「天石屋戸〈あめのいわやと〉)」の神話を読むと、鏡の記述が目に留まる。鏡をサカキ(常緑樹)に下げて捧げ、天照大神のお出ましを願うシーンがあるのだ。「八咫鏡(やたのかがみ)」と呼ばれるその鏡は、のちに天上から地上世界へともたらされたという。優れた鏡は神に捧げられ、その象徴ともなったのである。一方で、鏡は神祭りのみならず、人の葬祭にも用いられた。
「古代の人々にとって、鏡は単に姿を写す実用品としてだけでなく、墓への副葬品や祭祀の道具としても使われました。多くの遺跡からも、そのような使い方をしていた形跡が見て取れます」
こう話すのは、國學院大學 研究開発推進機構の内川隆志教授(國學院大學博物館 副館長)。実際、古墳時代に作られた古墳の中には、鏡が副葬品として使われていた事実を伝える遺跡が多数ある。
「たとえば、4世紀前半に作られたとされる奈良県の黒塚古墳(天理市)。ここからは、三角縁神獣鏡が33面、そして画文帯神獣鏡が1面、出土しました。三角縁神獣鏡は、鏡面をすべて埋葬者に向けて並べられ、埋葬者の頭部付近には画文帯神獣鏡が置かれていました」
また、3世紀後半〜4世紀前半の古墳と推定される奈良県のホケノ山古墳(桜井市)からも、画文帯神獣鏡が出土している。一方で、古代祭祀の形跡が数多く残り、世界遺産にもなっている福岡県の沖ノ島では、当時の祭祀遺跡から数多くの鏡が見つかった。死者への副葬品、そして神への捧げ物として、鏡は大きな役割を果たしていたことが分かる。
「三種の神器」でもある鏡、人々が感じた特殊な力とは
弥生時代前期に日本へ伝わった鏡は、後期になると、北九州を中心に日本国内でも作られるようになる。副葬品として、また4世紀頃からは祭祀でも用いられていたことが出土事例から確認できる。
時代が進む中で「当時の祭祀遺跡からは、本物の鏡だけでなく、鏡を模した石製や土製の模造品も出現しました」と内川氏。また、古墳から出土した埴輪の中には巫女の姿を表した「巫女埴輪」があるが、腰には呪具として鏡を付けているものも見られ、祭祀と鏡との密接な関わりを想起させる。
 今年5月に行われた天皇陛下の剣璽等承継の儀では、皇位と関係する「三種の神器」が話題となった。剣・璽とともに鏡があり、長い日本の歴史の中で、鏡が果たしてきた役割の大きさの一端が伺えるのではないだろうか。最後に、古代に建物を建てるのに先立ち、土地の神を鎮め邪鬼を払いのける目的で、鏡が土中に埋納された。
吉永博彰

醸楽庵だより   1411号   白井一道

2020-05-15 11:04:23 | 随筆・小説



   徒然草第234段 人の、物を問ひたるに



原文
 人の、物を問ひたるに、知らずしもあらじ、ありのまゝに言はんはをこがましとにや、心惑はすやうに返事したる、よからぬ事なり。知りたる事も、なほさだかにと思ひてや問ふらん。また、まことに知らぬ人も、などかなからん。うらゝかに言ひ聞かせたらんは、おとなしく聞えなまし。
 人は未だ聞き及ばぬ事を、我が知りたるまゝに、「さても、その人の事のあさましさ」などばかり言ひ遣りたれば、「如何なる事のあるにか」と、押し返し問ひに遣(や)るこそ、心づきなけれ。世に古りぬる事をも、おのづから聞き洩すあたりもあれば、おぼつかなからぬやうに告げ遣りたらん、悪しかるべきことかは。
 かやうの事は、物馴れぬ人のある事なり。

現代語訳
 人がものを問う折、知らないという事でもあるまいと、本当の事を言うのに抵抗感を覚え、不明確に回答するのは悪いことである。知っていることであっても、いくぶん明確ではないと思って問うているのだろう。また、本当に知らない人もいないとは限らない。何のこだわりもなく話してやるなら相手も素直に受け入れてくれるであろう。
 人はまだ知り得ていないことを自分が知っているからというので「それにしても、あの人のことでは驚き入りました」などとばかり言いやれば、「どんなことがあったのですか」と繰り返し尋ねやることほど嫌なことはない。世間ではもう知れ渡ってしまっている事でもなんとなく聞き漏らしてしまっていることはありがちなことであるから、はっきりわかるように知らせてあげる事は悪いことでもないであろうに。
 このようなことは、世間知らずの人が良くやる事である。

『ソクラテスの弁明』より  白井一道
 無知の知を自覚する。
「この人は、他の多くの人間たちに知恵ある者だと思われ、とりわけ自分自身でそう思い込んでいるが、実際はそうではない」と。
私は帰りながら、自分を相手にこう推論しました。
「私はこの人間よりは知恵がある。この人は知らないのに知っていると思っているのに対して、私のほうは、知らないので、ちょうどそのとおり、知らないと思っているのだから。どうやら、なにかほんの小さな点で、私はこの人よりも知恵があるようだ。つまり、私は、知らないことを、知らないと思っているという点で」と。
「無知の知」は、ソクラテスの「知らないことを自覚する」という哲学の出発点に向かう姿勢を簡略して表現した言葉です。その哲学を探求するため、ソクラテスは識者に問答をしかけ、その結果、相手の無知を暴いてしまったことから憎しみを買われ、法廷で裁かれることになります。さらにその法廷の場で、人間はみな無知の中にいることをソクラテスが指摘したことから、さらに人々の憎悪が高まり、有罪に至るのです。
ソクラテスはあるとき、デルフォイの神託所から「ソクラテス以上の賢者はいない」という神託を受けます。これに対してソクラテスは、私は知恵のある者ではないことを自覚している、神は何の謎をかけているのか、と考え、この謎を解くことが神から課せられた自分の天職だと考えました。
そこでソクラテスは、賢明な人々のもとを歴訪する対話活動を開始します。その結果、賢明と言われる人々は「何も知らないにもかかわらず知っていると思い込んでいる」のだということに気が付きます。それとともにソクラテス自身は「何も知らないことを知っている」ということにも気づき、神託の真意が人間の無知を悟らせることだったと理解したのです。
それはソクラテスがのちに死罪となる罪を負わせられる原因ともなりました。つまり、ソクラテスの問答によって、相手の無知を公衆の前にさらすことになり、人々の怒りと憎しみを買う結果となったのです。
「無知の知」とは、「汝自身を知れ」という事。
『幸福論』で知られたフランスの哲学者アランは、この言葉を引用して、人間は自分以外には敵はほとんどいないものです。最大の敵は常に自分自身です。判断を誤ったり、無駄な心配をしたり、絶望したり、それこそが敵になるのです。だから、「あなたの運命は、あなた次第である」と言い残している。

醸楽庵だより   1410号   白井一道

2020-05-14 10:24:18 | 随筆・小説



    徒然草第233段 万の咎あらじと思はば



原文
 万の咎(とが)あらじと思はば、何事にもまことありて、人を分かず、うやうやしく、言葉少からんには如かじ。男女・老少(らうせう)、皆、さる人こそよけれども、殊に、若く、かたちよき人の、言(こと)うるはしきは、忘れ難く、思ひつかるゝものなり。
 万の咎は、馴れたるさまに上手めき、所(ところ)得たる気色して、人をないがしろにするにあり。

現代語訳
 いろいろな欠点をなくそうと思うなら、何事にも誠実に対応し、人を差別することなく、敬い、言葉少ないことにこしたことはない。男女、老人、子供など皆、このような人なら良いのだが、殊に若くて、美しい人の話すことの麗しさは忘れ難く、記憶に残るものである。
 いろいろな欠点は慣れて来るにしたがって見えなくなり、得意げにもなり、人を軽んずるものである。


 平等主義の歴史   白井一道

近代社会を支える人権概念は平等主義の上に成り立っている。地球上に生きるすべての人間は生まれながらにして平等である。この平等観なしには人権思想は成り立たない。平等主義は近代社会思想における他の一切の思想・信条・主張に対して優越しており、近代政治社会思想の根幹を成している。また民主制と平等主義は不可分な関係にある。
 平等主義は、その性格上、常に階級や差別や格差・差異・区別の存在が前提となり、それに対する「反発」や「負い目」として成立する。そうした(人間の)個体間の相互性・同等性に対する理解・尊重・同情・畏怖・懸念・猜疑・危機感などの積み重ねにより、古来より人間社会における普遍的な社会道徳・社会規範として醸成されてきた発想が、いわゆる「黄金律」だが、平等主義は、その「黄金律」が敷衍化・過激化した一形態であるとも言い換えることができる。裏を返せば、人間の間に絶対的・根源的な差異・区別を設けることの困難さ、個体間の能力差の僅少さこそが、平等主義が生じる背景となっていると言える。
階級・差別・格差・差異・区別によって生じる利益・特権、あるいは、それらを支えている伝統・慣習・宗教・道徳・規範・規則、更には、それらによって支えられている社会秩序を維持しようとする守旧派と、それに反発する平等主義勢力との対立は、人類の歴史上、様々な場面で見られる普遍的なものであり、近代政治学における、右翼・保守と左翼・革新の対立にも受け継がれている。
国家・社会の多数派が格差・不公平・被差別を感じる状態の場合、新興勢力がその多数派が平等主義を主張ることによって、社会改革が発生・進行する。このように、全ての国家・社会には、常に平等主義へと促されていく潜在的圧力がかかり続けている。
 キリスト教
 閉鎖的な選民宗教であるユダヤ教に立脚していた古代イスラエルでは、長年の周辺民族・国家との対立・混淆、忠誠心を欠いた自民族に対する歴代の預言者達による数々の叱責、神(ヤハウェ)の至高性・卓越性追求(神は他民族をも救う)の果てに、ついにユダヤ民族の特権性の破棄(新しい契約)を宣言するナザレのイエスが登場することになった。
初期キリスト教の代表的な使徒(伝道者)であったパウロらは、異邦人(他民族)へと布教していくにあたり、ユダヤ教徒(ユダヤ民族)の要件・義務とみなされていた、割礼等の戒律・慣習の遵守を、保守派の反対を説得し大幅に破棄・簡素化させた。これによりキリスト教は異邦人(他民族)への布教が容易になり、周辺各地に広く普及していく一方で、ユダヤ教とは完全に分離・分裂していった。
イスラム教
 開祖ムハンマドらの初期のイスラム教共同体(ウンマ)から発展して成立した、最初のイスラム系王朝であるウマイヤ朝では、アラブ人優遇政策を採り、同じイスラム教徒(ムスリム)であっても、非アラブ人はマワーリー(被征服民)としてジズヤ(人頭税)が課される等、差別待遇が成されていた。これがウマイヤ朝が打倒される一因となり、その力を借りて覇権を奪取した続くアッバース朝では、そうした差別は撤廃された。これは「アラブ帝国」としてのウマイヤ朝から、真の「イスラム帝国」であるアッバース朝への脱皮を果たした歴史的事件として、俗に「アッバース革命」と呼ばれる。
 ウィキペディア参照

醸楽庵だより   1409号   白井一道

2020-05-13 11:19:28 | 随筆・小説



    徒然草第232段 すべて、人は、無智・無能なるべきものなり



原文
 すべて、人は、無智・無能なるべきものなり。或人の子の、見ざまなど悪しからぬが、父の前にて、人と物言ふとて、史書の文を引きたりし、賢しくは聞えしかども、尊者の前にてはさらずともと覚えしなり。また、或人の許にて、琵琶法師の物語を聞かんとて琵琶を召し寄せたるに、柱(ぢゆう)の一つ落ちたりしかば、「作って附けよ」と言ふに、ある男の中に、悪しからずと見ゆるが、「古き柄杓(ひしゃく)の柄ありや」など言ふを見れば、爪(つめ)を生(お)ふしたり。琵琶など弾くにこそ。盲法師(めくらほうし)の琵琶、その沙汰にも及ばぬことなり。道に心得たる由にやと、かたはらいたかりき。「柄杓の柄は、檜物木(ひものぎ)とかやいひて、よからぬ物に」とぞ或人仰せられし。
 若き人は、少しの事も、よく見え、わろく見ゆるなり。

現代語訳
 何事においても人間は無知で無能でいる方がいい。ある人の子が、すがた格好はまあまあだが、父の前で、人と話し合う折、歴史書から文章を引用し、賢しく見えるけれども、目上の人の前ではそのような事はしなくともいいのにと思えたことだ。また、ある人の下で琵琶法師の物語を聞こうと琵琶を取り寄せたところ、柱(ぢゆう)の一つが欠けていたので「新しく作って琵琶に付けよ」というとそこにいた男の中の一人が、卑しくもなさそうなその男が「使い古しの柄杓の柄がありますか」などと言うのを聞き見ると爪が長く伸びている。琵琶を弾いているからなのだな。盲法師の琵琶は、そのような処置をするまでもないことだ。琵琶の心得があるのかと思いきや、聞くに堪えないものであった。「柄杓の柄は檜物に使う木とかいって、琵琶の柱に適したものではない」とある人が言っておられた。
 若い人は少しの事で良くも見え、悪くも見えたりするものだ。

 琵琶法師について   白井一道
 琵琶法師(びわほうし)は、平安時代から見られた琵琶を街中で弾く盲目の僧。琵琶を弾くことを職業とした盲目僧の芸人で、平安時代中期におこった。
 日本の琵琶は古代のアジア大陸よりもたらされたものであるが、その系統には中国から奈良時代および平安時代にもたらされた器楽の琵琶楽(雅楽、芸術音楽)と、それと同時代ないしそれに先んじてもたらされた声楽の琵琶楽(盲僧琵琶、宗教音楽)との2つがある。琵琶法師は、後者に属し、宗教音楽としての盲僧琵琶を担った。なお、盲人の琵琶法師(盲僧琵琶)から宗教性を脱した語りものを「くずれ」という。
仏説を語る琵琶法師は天台宗などに属する低級の宗教者であり、仏説座頭、地神経座頭などと呼ばれ、地鎮祭や竈祓いで地神経や荒神経を行った。仏説座頭の活動範囲は後述する平家座頭に比べてあまり広くはなかった。
鎌倉時代には『平家物語』を琵琶の伴奏に合わせて語る平曲が完成した。この時代には、主として経文を唱える盲僧琵琶と、『平家物語』を語る平家琵琶(平家座頭)とに分かれた。琵琶法師のなかには「浄瑠璃十二段草子」など説話・説経節を取り入れる者がおり、これがのちの浄瑠璃となった。
平家座頭はその当初から廻国の芸能者であり、中世には文化人の伝手や紹介状を頼りに、各地の有力な大名の屋敷のあいだを芸を披露して回った。絵巻物などに登場する平家座頭は、多くの場合弟子を連れての二人旅となっている。
 天台宗系の九州の寺院で法要琵琶を演奏した盲僧たちは,この当道盲人と対立し,江戸時代初めまで軋轢を繰返した。江戸時代には,幕府の当道保護政策もあって,当道盲人は京都の職屋敷と江戸の惣録屋敷の支配下におかれた。彼らは平曲以外に三味線音楽や箏曲も扱い,また,鍼灸その他に従事する者もあったので,琵琶法師というイメージは,それらのなかの中世以来の琵琶弾奏の放浪芸能者からのみ与えられるにいたった。平曲演奏家は幕府および諸大名から厚遇され,いわゆる放浪芸能者としては,実際にはほとんど存在しないようになった。明治4 (1871) 年当道制度の廃止後,平曲は急激にすたれ,その演奏家も激減した。一方,九州の盲僧は,ごくわずかながら法要以外に門付芸能としての琵琶弾奏も行なって現在にいたっている。
            ウィキペディアより

醸楽庵だより   1408号   白井一道

2020-05-12 10:32:47 | 随筆・小説


 徒然草第231段 園の別当入道は


原文
 園の別当入道(べつだうにふどう)は、さうなき庖丁者(はうちやうじや)なり。或人の許にて、いみじき鯉を出だしたりければ、皆人、別当入道の庖丁を見ばやと思へども、たやすくうち出でんもいかゞとためらひけるを、別当入道、さる人にて、「この程、百日の鯉を切り侍るを、今日欠(か)き侍るべきにあらず。枉(ま)げて申し請けん」とて切られける、いみじくつきづきしく、興ありて人ども思へりけると、或人、北山太政入道殿に語り申されたりければ、「かやうの事、己れはよにうるさく覚ゆるなり。『切りぬべき人なくは、給(た)べ。切らん』と言ひたらんは、なほよかりなん。何条(なでう)、百日の鯉を切らんぞ」とのたまひたりし、をかしく覚えしと人の語り給ひける、いとをかし。
大方、振舞ひて興あるよりも、興なくてやすらかなるが、勝りたる事なり。客人の饗応なども、ついでをかしきやうにとりなしたるも、まことによけれども、たゞ、その事となくてとり出でたる、いとよし。人に物を取らせたるも、ついでなくて、「これを奉らん」と云ひたる、まことの志なり。惜しむ由して乞はれんと思ひ、勝負の負けわざにことづけなどしたる、むつかし。

現代語訳
 園の別当基氏卿はたぐい稀な料理人である。ある人のお宅で立派な鯉を出されたので、皆が別当基氏卿の包丁さばきを見せてもらえるなと思ったが、軽々しく口にするのもいかがなものかと躊躇(ためら)っていると別当基氏卿は機転の利く人で「このところ、百日の間、毎日鯉を切って料理の稽古をしていますので今日のところしないというわけにもいきますまい、是非ともその鯉を調理させていただきましよう」と、言って切られた。とてもその場にかなった言葉で、人々は皆ぞくぞく期待していると、或る人が北山太政入道殿にこの話をしたことによると「このようなこと、私には気障っぽく思えるがね。『きちんと切って料理できる人がいないなら、させていただきますと、言って料理する』と言うなら,なお良かった。どうして百日の鯉を切ろうなど」というのか、面白く思ったと人に話したことも面白い。大方、わざとらしい盛り上がりより、そのような盛り上がりがなく静かな方が良い。客人のおもてなしなども、ちょうどよい折だというように計らってだしたのも誠に良いが、ただ、何という事もなく、ご馳走の品々を出した方がいい。他人に物をあげるのも、何の理由もなく「これを差し上げましょう」と言ってあげた方が誠の好意というものだ。その物を惜しみ手放し難く、相手から欲しがられたいように思ったり、勝負事に負けた理由としての贈り物やご馳走は嫌味なものだ。

 鯉の歴史について   白井一道
 鯉の原産地は、黒海・カスピ海沿岸の中央アジアと中国。ヨーロッパへの鯉の移植経路は、紀元前三世紀で、このころ、キプロス島を経てギリシャへ渡った。鯉の属名である「キプリヌス」は、この島名からきている。
 鯉は、十四世紀以降、十字軍の遠征によって、中部ヨーロッパへはいった。はじめの頃は、ハンガリーやオーストラリアにはいったが、次第に近隣の国々に広がっていった。ロシアにはいったのが十八世紀、アメリカへは十九世紀、その後、ほとんど全世界に分布した。
 いまや、地球上で鯉のいない所は、両極地帯の地域ぐらいで。鯉の養殖はずいぶん古くから行はれた。中国では、紀元前五世紀の頃に、既に養殖法の記述がある。陶朱公范蠡の『養魚経』である。
 中国から渡来した日本の鯉については、紀元一世紀のころ、景行天皇が鯉を池に放して飼った記録が残されている。古来、東洋では鯉は”出世魚”とされ我が国では端午の節句の鯉幟となって、男子の出世を象徴した。
 はじめは、食用にしていた鯉であったが、我々の祖先はいつか観賞用の色鯉を作りあげた。まず中国で緋鯉、黄鯉ができ、我が国ではさらにこのほかに、鯉の自然淘汰と遺伝を利用して紅白・三色・五色・白・青・縞など、色彩に富む色鯉を次々に生み出した。我が国の錦鯉の産地は、古くから、越後の国とされている。
 鯉の効果
鯉の肉はタウリンという、強肝剤として使われる含硫アミノ酸がある。これは飲酒時には解酒毒剤となり、酒で二日酔や脂肪肝になるのを予防するという。

醸楽庵だより   1407号   白井一道

2020-05-11 11:00:25 | 随筆・小説



    徒然草第230段 五条内裏には、妖物ありけり


原文
 五条内裏(ごでうのだいり)には、妖物(ばけもの)ありけり。藤大納言殿(とうのだいなごん)語られ侍りしは、殿上人(てんじやうびと)ども、黒戸にて碁を打ちけるに、御簾(みす)を掲げて見るものあり。「誰そ」と見向きたれば、狐、人のやうについゐて、さし覗(のぞ)きたるを、「あれ狐よ」とどよまれて、惑ひ逃げにけり。
 未練の狐、化け損じけるにこそ。

現代語訳
 五条大宮内裏には化け物がおった。藤大納言殿(とうのだいなごん)が語られたことによると殿上人(てんじやうびと)たちが黒戸の御所で碁を打っていると御簾を掲げて見る者がいた。「誰か」と振り向くと狐が人のような膝をつけ座って覗き見しているのを、「あれ狐だ」と驚かれたので慌てて逃げてしまった。
 未熟な狐が化けそこなったことだ。


 落語『初音の鼓』     白井一道
骨董趣味の殿様に、毎回胡散臭いものを売りつけてゆく古商人の吉兵衛。 今日も今日とて「初音の鼓」という怪しい鼓を、百両という大金で殿様に売りつけようと画策する。
『初音の鼓』といえば、源義経が静御前に与えたとされる代物で、源九郎狐の親の雄狐雌狐の皮が張られており、本物であれば何百金にもなる由緒正しい品であるのだが、当然本物であるはずがない。
そこで吉兵衛はこの鼓が本物である証拠として「鼓を打つと、傍らにいる者に狐の霊が乗り移って『コンッ』と鳴く」と殿様に吹き込み、試しに鼓を打つ殿様の前で狐の鳴き真似をして、狐が乗り移った芝居をする。
さらに吉兵衛は、殿様の重臣である三太夫を買収し、三太夫にも狐の鳴き真似をさせることによって、まんまと殿様を騙すことに成功する。
すっかり本物だと信用した殿様は百両で買うと確約するが、その前に今度は「自分ではなく吉兵衛が鼓を打ったら、自分にも狐が乗り移るのかどうか試してみたい」と言い出し、流石に殿様まで買収することは出来ないので吉兵衛は窮地に陥ってしまう。
いざ恐る恐る吉兵衛が鼓を打つと、なんと殿様が『コンッ』と鳴いた。吉兵衛が贋物だと思っていた鼓は、実は本物だったのである。
その後、何度打っても殿様がコンコンと鳴くため、吉兵衛は本物の鼓であることに感動すると同時に、今まで自分が働いてきた詐欺まがいの行為に恥ずかしさを覚える。
それはさておき、肝心のお勘定をしてもらうと、殿様からいただいた包みには一両しか入っていない。
吉兵衛がお代は百両だと確認をすると、殿様は「それでよいのじゃ。余と三太夫の鳴き賃が差し引いてある」と答えるのであった。
ウィキペディアより
白面金毛九尾の狐 
紀元前11世紀頃、中国古代王朝殷の最後の王である紂の后、妲己を喰い殺して妃に化けると暴政を敷いたため、周の武王率いる軍勢により捕らえられ、処刑された。 この処刑の際に、太公望が照魔鏡を取り出して妲己にかざし向けると、白面金毛九尾の狐の正体を現して逃亡しようとしたため太公望が宝剣を投げつけると、九尾の体は3つに飛散した。一つは若藻という少女に化け、彼女に惑わされた吉備真備の計らいによって、阿倍仲麻呂、鑑真和尚らが乗る第10回目の遣唐使船に乗船し嵐に遭遇しながらも来日を果たした。 来日から約360年後、北面の武士である坂部行綱が子宝に恵まれなかったため、九尾の狐が化けたとも知らずに藻女という捨て子を拾い、大切に育てられる。 その17年後、坂部夫婦に大切に育てられた藻女は18歳で宮中に仕え、玉藻前と改名する。その才能と美貌、優しさから、次第に鳥羽上皇に寵愛され、契りを結ぶこととなる。しかしその後、鳥羽上皇は病を発する。そして、その原因が玉藻前であると発覚し、玉藻前は白面金毛九尾の狐の姿で宮中から逃亡した。 数年後、彼女は下野国・那須に現れ、婦女子や旅人を誘拐し喰い殺すなどの暴行を働いたため、鳥羽上皇は白面金毛九尾の狐の討伐を命令すると8万の軍勢が那須へ向かう。軍勢は白面金毛九尾の狐を殺すことに成功する。九尾の狐はその直後、殺生石という巨大な毒石に姿を変える。 その後玄翁和尚によって、殺生石は破壊され、各地へと飛散したという。
ウィキペディアより

醸楽庵だより   1406号   白井一道

2020-05-10 10:29:26 | 随筆・小説


  徒然草第229段 よき細工は、少し鈍き刀を使ふと言ふ



原文
 よき細工は、少し鈍き刀を使ふと言ふ。妙観が刀はいたく立たず。

現代語訳
 優れた職人は少し切れの悪い刀を使うという。有名な仏師の妙観が用いた刀はひどく切れが悪かった。

 「よき細工は、少し鈍き刀を使ふ」とは
白井一道
「彼は利きすぎる腕と鈍い刀の必要とを痛感している自分のことを言っているのである。物が見えすぎる眼をいかに御したらいいか、これが徒然草の文体の精髄である。」  小林秀雄著「徒然草」
この兼好の229段の文章は、「妙観が刀」が切れない、などと言っているのでは無い。 全く逆な事を言っていると小林秀雄は述べている。
つまり、その「技」と「道具」とが利きすぎる、『切れすぎることの危うさ』について、その事を語っている。
妙観は、『切れ過ぎる刀の危うさ』を畏れていた。知り抜いていた。
妙観は“切れ過ぎる刀”(=「技」「道具」)をあえて使わなかった。その理由が兼好には分かっていた。
切れすぎてはいけない。 小刀は、切れなくては困るが、切れすぎてはいけない。
なぜか。
妙観の一木を彫るという行為、それは彼にとって神聖な行為ですが、その事によって出現するであろう仏、妙観の己の「観」によって捉えた仏・・・。
妙観は、ただその仏を彫る。
妙観は、彼が“観じていたその仏”をそこに出現させるために彫るという行為に至るのです。
それが、彼の認識であり、行為です。
仏を彫るという行為は、妙観にとってそれ以下でも無く、それ以上でも無いのです。
画家がそうするように。詩人がそうするように・・。
刀など、切れなくてもいい。切れ過ぎてしまうことこそ、危うい。
むしろ、問題の本質は別にある。
饒舌は人の欲です。
切れない事は、困る程度のことですが、切れすぎる事は、すなわち欲に通じる、過度の表現は、すなわち表現の賤しさ、醜さに通じてしまう事が分かっていた。
このことは、文章において然り。
すべての芸術に通じることでもあるのかもしれない。
木食仏「子安観音像」木食上人
“妙観”という名前を見るに、僧籍に身を置いた仏師だだった。
例をあげるまでもなく、私たちは、木喰上人の彫った仏などを見る時、いわゆる“仕上がりにの良さなどというものをを鑑賞して溜息が出るわけではない。もっと別の事、まったく別の事です。
それはおそらく、“その一木に、仏が現れる”という事。 言いかえれば、美の出現。その一事なのである。仏が現れれば、妙観は、それで小刀を収める。
それ以上、小刀をふるう必要も理由もない。木喰上人であれ、妙観であれ。一木に仏(美)が現れれば、それで良し。
兼好の「徒然草」も、また、同じ事。
『彼(兼好)には常に物が見えている、人間が見えている、見えすぎている』と、小林秀雄は書いている。すなわち、兼好自身が切れすぎる事の危うさを知り抜いていた。どこまでをどう表現するか。
だからこそ兼好は刀を選ぶ。少し鈍い切れ味の刀を時として使う。『物が見えすぎる眼をいかに御したらいいか、これが徒然草の文体の精髄である。』「妙観が刀は、いたく立たず」とは、まさに、その事なのであろう。
この一行は、小林さんの兼好の批評眼(観と表現力)に対する大いなる賛辞である。小林秀雄著「私の人生観」の中から、小林さんがベルグソンの文章に関して述べている部分を抜粋する。
最もよく切れる鑿(のみ)は、科学の成果がもたらした正確な諸観念に違いなかろうが、それはあんまり切れ過ぎるかもしれぬ。
切れ過ぎるとはまるで切れないことかも知れぬ。
 やまねこ新聞社 号外より


『五重塔』幸田露伴著
あらすじ
腕はあるが愚鈍な性格から世間から軽んじられる「のっそり」こと大工の十兵衛。しかし谷中感応寺に五重塔が建立されることを聞いたときから、一生に一度あるかないかの、その仕事をやり遂げたいという熱望に苦しめられ、朗円上人に聞いてもらいたい一心で会いに行く。

本来ならば、感応寺の御用を務める川越の源太が請け負うという話である。世間から名人よ、器量者よと褒められる源太はその通りの男であり、さらに十兵衛は日頃から源太の世話になっていた。十兵衛の女房お浪は心中で苦しめられ、源太の女房お吉は利口な女だが、のっそりの横着ぶりに怒りを覚える。

上人は十兵衛の熱意を知り、模型を見てその技術と反面の不遇に同情する。十兵衛と源太を寺に呼んだ上人は、技術においても情熱においても比べられない二人だからこそどちらが仕事をするか二人で話し合って決めるように諭す。

人を容れる難しさと、それゆえの尊さを伝える上人の思いやりに応えようと源太は十兵衛の家を訪ね、職人の欲も不義理への怒りも捨て一緒に作ろうと提案する。お浪は涙を流して源太に感謝するが、十兵衛は無愛想にその提案を断る。寺からの帰りにすべてを諦めた十兵衛だが、それでも自分が作るか、作らないか、どちらかしかないのであった。

情とことわりを尽くした源太の言葉にも嫌でござりますとしか返事をかえさない十兵衛に源太は虚しさを感じ、五重塔は己で建てると帰っていく。家には弟分の清吉が待っていた。誠実で優しい兄貴に尽くすことを生き甲斐とする清吉は十兵衛への怒りを隠さないが、源太は酔いつぶれた清吉を見ながら先ほどの己を振り返る。

葛藤の果てに源太は上人のもとへ向かい先日の顛末を語り、十兵衛に任せても自分に任せても一切のわだかまりを持たないため上人に決めてほしいと願いでる。上人は十兵衛も全く同じ話をしていったと源太に伝え、満面に笑みをたたえながら建てる以上の立派なことだと褒められた源太は「兄として可愛がってやれ」と言われて涙を流す。

源太は五重塔を建てることになった十兵衛を宴に招き、全てを水に流そうと申し出る。更に己が描いた五重塔の下絵や寸法書を役立てて欲しいと渡すが、十兵衛は見ることもなく断る。十兵衛が五重塔の仕事がやれるのは、源太より優れているからでもなく、正直さが上人から好かれた訳でもない。

ただ源太が上人の言葉により全てを胸に納め席を譲ったことによる。それが事実である。しかし十兵衛は他人の心を汲むよりも職人としての構想、技術を満たそうとするdemonic possession が優先した。もはや源太も怒りを抑えることは出来なかった。下卑た足の引っ張りはしないが、いつか失敗することを待っていると口にして席を立った。弟子や馴染みの娘を集めて賑やかな宴をひらくが、誇り高い男だけに周りに愚痴や怒りは毛筋ほども見せなかった。

仕事に取り組む十兵衛は誠を尽くし、全てに心を入れて己を捧げる。しかし情の鈍い「のっそり」だけに、源太への応接も忘れていき純粋に仕事の悦びに浸る。お吉は十兵衛の仕打ちを周りから知らされ、清吉に毒づいてしまう。清吉は十兵衛を殺そうとして重傷を負わせるが源太の兄貴分である火の玉鋭次に抑えつけられ散々に殴られる。

清吉を預かった鋭次は源太の家を訪ねると、主人は不在で代わりにお吉が応対に出た。鋭次は源太が十兵衛のもとに頭をさげに向かっていたと知り、人を殺そうとした清吉も浅はかだが、十兵衛にも非があったため源太が上人様にお詫びをした上では話もつく、心配のしすぎはするなとお吉に労りの言葉を残して去る。

源太は十兵衛のもとを訪れて頭を下げるが、先日よりの怒りは深く硬く、気分は晴れない。世話をかけた鋭次のもとに向かうつもりで家に戻ると清吉の母が訪ねてくる。愚かなまでに子を思う親の心の深さに源太は感じるものがある。一方、お吉は金を工面するために家をでると鋭次のもとに向かい、源太の怒りがとけるまで上方へ清吉を向かわせるため身銭をきり路銀を工面してきたと事情を説明する。清吉の母の面倒もみるつもりである。

片耳を切り落とされる重傷を負った十兵衛は休むことなく仕事場に向かう。十兵衛は職人たちが自分を軽んじていることを承知しており、働いて貰うには身体を労ることも無用だった。塔は完成する。

落成式を前にして江戸を暴風雨が襲う。百万の人が顔色無く恐怖に襲われるなか、感応寺の世話役は倒壊の恐怖から十兵衛を呼び出すが、使者の寺男へ十兵衛は倒れるはずは無く騒ぐに及ばずと断る。しかし世話役からの再びの呼び出しは上人からの呼び出しと偽りのものだった。上人様は自分を信用してくれないのか、恥を知らず生きる男と思われたなら生きる甲斐なしと嘆きながらも嵐の中を谷中に向かう。塔に登り嵐に向かう十兵衛。その頃、塔の周りを徘徊する源太の姿があった。果たして塔が壊れれば恥を知らず生きる職人として十兵衛を許さざる腹だったのか、叙述はない。

人の為せぬ嵐が去った後、人が為した塔は一寸一分の歪みが無かった。落成式の後、上人は源太を呼び、十兵衛とともに塔を登り「江都の住人十兵衛これを作り、川越の源太これをなす」と記し満面の笑みを湛える。十兵衛も源太も言葉なく、ただ頭を下げて上人を拝むだけだった。
ウィキペディアより