醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1425号   白井一道

2020-05-31 10:36:05 | 随筆・小説



   『徒然草』を読み終えて



 読み終えて感じたことは、こんなものかという特に感じたものは何もなかった。感動した文章は一つもなかった。これが率直な感想である。このような文章が日本古典の三大随筆の一つにあげられていることに違和感さえ感じた。何が凄いのかが全然分からない。私には分からないということなのかもしれない。
建築家の安藤忠雄さんがテレビで次のような発言をしていたことを思い出した。安藤さんは若かったころ、ヨーロッパ旅行をした。ギリシア・アテネのパルテノン神殿は凄い建築だと聞いていたが実際のものを見て、こんなものかと何も感じなかったと話していた。建築家として大成してのち、再びパルテノン神殿を見た時には圧倒されるような建築に深い感動を覚えたとも発言していた。建築の教養を積み上げて後に再び見た時には全然感想が違っていたという話だった。
私にも日本古典の教養は何もない。強いて言うなら高校生の頃古典の授業を受けた記憶がある程度である。勉強した記憶もなく、その成績はどちらかと言うととても悪かったというのが実際である。私は定年退職後、芭蕉について勉強を始めた。芭蕉は独学で『徒然草』を読んでいるということを知り、私も読んでみようと思い、読み始めた。芭蕉はきっと貪るように大事に一字一字を食い入るようにして読み進めていたに違いない。手に入れる事すら難しかったに違いない。今のような注釈書も十分でない時代に時間をかけ、少しづつ読み進めていったのであろう。
貞享4年芭蕉は江戸深川の芭蕉庵にいた。遠く聞こえる鰹売りの声が聞こえた。あぁー、今じゃ初鰹は高嶺の花だなぁー。『徒然草』第119段の文章を思い浮かべ「鰹売りいかなる人を酔はすらん」と詠んだのかもしれない。「鎌倉の海に、鰹と言ふ魚は、かの境ひには、さうなきものにて、この比もてなすものなり。それも、鎌倉の年寄の申し侍りしは、「この魚、己れら若かりし世までは、はかばかしき人の前へ出づる事侍らざりき。頭は、下部も食はず、切りて捨て侍りしものなり」と申しき。かやうの物も、世の末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ侍れ」と『徒然草』119段にある。もともと庶民が好んで食べていた魚が今や庶民にとっては手の届かない高価な魚になってしまったと、芭蕉は鰹売りの声に俳諧を発見し、詠んだ句のようだ。芭蕉は間違いなく『徒然草』119段を読み、その上でこの句を詠んでいる。『徒然草』の教養があって初めて芭蕉の句に奥行きと深さが滲み出てきているのであろう。江戸の町人文化が花咲こうとしている時代を表現する句になっている。芭蕉の俳諧の裏には日本古典文学の教養があって初めて生れ出てきたものなのであろう。
世の中は移り変わっていくものだ。そのような無常なものだと「もののあはれ」を「鰹売りの声」に発見し、芭蕉は詠んだ。芭蕉の俳諧が文学にまでなった背景には日本古典文学を学んだ結果なのであろう。芭蕉にとって日本古典文学としての『徒然草』と現代に生きる私にとっての『徒然草』は大きく違っている。私にとっては芭蕉理解のための史料的意味以上のものを『徒然草』に見出すことができない。
人間の意識は時代に制約されたものであるということを私は『徒然草』を読み、確認した。兼好法師は第190段で次のように述べている。
「妻といふものこそ、男の持つまじきものなれ。「いつも独り住みにて」など聞くこそ、心にくけれ、「誰がしが婿に成りぬ」とも、また、「如何なる女を取り据ゑて、相住む」など聞きつれば、無下に心劣りせらるゝわざなり。殊なる事なき女をよしと思ひ定めてこそ添ひゐたらめと、苟しくも推し測られ、よき女ならば、らうたくしてぞ、あが仏と守りゐたらむ。たとへば、さばかりにこそと覚えぬべし。まして、家の内を行ひ治めたる女、いと口惜し。子など出で来て、かしづき愛したる、心憂し。男なくなりて後、尼になりて年寄りたるありさま、亡き跡まであさまし。
いかなる女なりとも、明暮添ひ見んには、いと心づきなく、憎かりなん。女のためも、半空にこそならめ。よそながら時々通ひ住まんこそ、年月経ても絶えぬ仲らひともならめ。あからさまに来て、泊り居などせんは、珍らしかりぬべし」。
妻通婚が理想的な婚姻関係であった時代、保守的な男は妻との同居を煩わしいもとして受け止めていた。男にとって通う女が数人いても問題になることは基本的にない時代社会であった。そのような時代に生きた男の気持ちが表現されている。