徒然草第227段 六時礼讃は
原文
六時礼讃(ろくじらいさん)は、法然上人の弟子、安楽といひける僧、経文を集めて作りて、勤めにしけり。その後、太秦善観房(うずまさのぜんくわんぼう)といふ僧、節博士(ふしはかせ)を定めて、声明(しやうみやう)になせり。一念の念仏の最初なり。御嵯峨院の御代より始まれり。法事讃(ほうじさん)も、同じく、善観房始めたるなり。
現代語訳
六時礼讃(ろくじらいさん)は、法然上人の弟子の安楽という僧が経文を集めて作り、勤行にしたものである。その後、太秦善観房(うずまさのぜんくわんぼう)という僧が調節を定めて声明(しやうみやう)にしたものである。御嵯峨院の時代から始まったものである。法事讃(ほうじさん)も同じように善観房が始めたものである。
声明(しようみょう)とは 白井一道
754年(天平勝宝4年)に東大寺大仏開眼法要のときに声明を用いた記録があり、奈良時代には声明が盛んにおこなわれていたと考えられる。
平安時代初期に最澄・空海がそれぞれ声明を伝えて、天台声明・真言声明の基となった。天台宗・真言宗以外の仏教宗派にも、各宗独自の声明があり、現在も継承されている。源氏物語の中に度々出てくる法要の場でも、比叡山の僧たちによって天台声明が演奏されていた。
平安時代に中国から入ってきた実践的な仏教声楽は梵唄と呼ばれていた。また、インドの声明にあたる悉曇学という梵字の文法や音韻を研究する学問が盛んとなった。やがて、悉曇学と経典の読謡を合わせたものを声明と呼ぶようになり、中世以後には経典の読謡の部分のみを指して声明と称するようになった。
声明は口伝(くでん)で伝えるため、現在の音楽理論でいうところの楽譜に相当するものが当初はなかった。そのため、伝授は困難を極めた。後世になってから楽譜にあたる墨譜(ぼくふ)、博士(はかせ)が考案された。なお、各流派により博士などの専門用語には違いがある。
しかし博士はあくまでも唱えるための参考であり、声明を正式に習得しようとすれば、口伝(「ロイ」とも言う。指導者による面授。)が必要不可欠であり、面授によらなければ、師から弟子への流派の維持・継承は出来ない。そのために指導者・後継者の育成が必須であった。
中世以前の声明は一般の日本人のみならず、僧侶にとってもその内容は理解し難いものだった。そのため、日本語の歌詞によるわかり易い声明が求められるようになり、講式という形式の声明が成立した。講式は既存の声明の約束事とは逸脱した音組織で成り立っていたため、新たな記譜方式を考案するに至った。講式は平曲・謡曲など邦楽の発展に大きな影響を及ぼした。
天台声明は最澄が伝えたものが基礎となり、独自の展開をした。最澄以後は、円仁・安然が興隆させた。後に融通念仏の祖となる良忍が中興の祖として知られる。1109年(天仁2年)に、良忍は、京都・大原に来迎院を建立した。大原の来迎院の山号を、中国の声明発祥の地・魚山(ぎょさん)に擬して、魚山と呼称された。やがて、来迎院・勝林院の2ヶ寺を大原流魚山声明の道場として知られるようになった。また、後に寂源が一派をなして、大原には2派の系統の声明があった。のちに宗快が大原声明を再興するに至った。
湛智が新しい音楽理論に基づいた流れを構築した。以降、天台声明の中枢をなし、現在の天台声明に継承されている。融通念仏宗、浄土宗、浄土真宗の声明は、天台声明の系統である。
真言声明は空海が伝えたものが基礎となり、現在に至っている。声明が体系化されてきたのは真雅以降である。寛朝はなかでも中興の祖ともいえる。声明の作曲・整備につとめた。
鎌倉時代までは多くの流派があったが、覚性法親王により、本相応院流・新相応院流・醍醐流・中川大進流の4派にまとめられた。このうち中川大進流は、奈良・中川寺の大進が流祖。
南山進流(古義真言宗系声明) :中川大進流がもとになった。貞永年間(1232~1233)に高野山蓮華谷・三宝院の勝心が本拠地を高野山に移した。後に高野山の別名、南山を冠して、南山進流と称した。進流・野山進流とも称する。
ウィキペディアより