醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1411号   白井一道

2020-05-15 11:04:23 | 随筆・小説



   徒然草第234段 人の、物を問ひたるに



原文
 人の、物を問ひたるに、知らずしもあらじ、ありのまゝに言はんはをこがましとにや、心惑はすやうに返事したる、よからぬ事なり。知りたる事も、なほさだかにと思ひてや問ふらん。また、まことに知らぬ人も、などかなからん。うらゝかに言ひ聞かせたらんは、おとなしく聞えなまし。
 人は未だ聞き及ばぬ事を、我が知りたるまゝに、「さても、その人の事のあさましさ」などばかり言ひ遣りたれば、「如何なる事のあるにか」と、押し返し問ひに遣(や)るこそ、心づきなけれ。世に古りぬる事をも、おのづから聞き洩すあたりもあれば、おぼつかなからぬやうに告げ遣りたらん、悪しかるべきことかは。
 かやうの事は、物馴れぬ人のある事なり。

現代語訳
 人がものを問う折、知らないという事でもあるまいと、本当の事を言うのに抵抗感を覚え、不明確に回答するのは悪いことである。知っていることであっても、いくぶん明確ではないと思って問うているのだろう。また、本当に知らない人もいないとは限らない。何のこだわりもなく話してやるなら相手も素直に受け入れてくれるであろう。
 人はまだ知り得ていないことを自分が知っているからというので「それにしても、あの人のことでは驚き入りました」などとばかり言いやれば、「どんなことがあったのですか」と繰り返し尋ねやることほど嫌なことはない。世間ではもう知れ渡ってしまっている事でもなんとなく聞き漏らしてしまっていることはありがちなことであるから、はっきりわかるように知らせてあげる事は悪いことでもないであろうに。
 このようなことは、世間知らずの人が良くやる事である。

『ソクラテスの弁明』より  白井一道
 無知の知を自覚する。
「この人は、他の多くの人間たちに知恵ある者だと思われ、とりわけ自分自身でそう思い込んでいるが、実際はそうではない」と。
私は帰りながら、自分を相手にこう推論しました。
「私はこの人間よりは知恵がある。この人は知らないのに知っていると思っているのに対して、私のほうは、知らないので、ちょうどそのとおり、知らないと思っているのだから。どうやら、なにかほんの小さな点で、私はこの人よりも知恵があるようだ。つまり、私は、知らないことを、知らないと思っているという点で」と。
「無知の知」は、ソクラテスの「知らないことを自覚する」という哲学の出発点に向かう姿勢を簡略して表現した言葉です。その哲学を探求するため、ソクラテスは識者に問答をしかけ、その結果、相手の無知を暴いてしまったことから憎しみを買われ、法廷で裁かれることになります。さらにその法廷の場で、人間はみな無知の中にいることをソクラテスが指摘したことから、さらに人々の憎悪が高まり、有罪に至るのです。
ソクラテスはあるとき、デルフォイの神託所から「ソクラテス以上の賢者はいない」という神託を受けます。これに対してソクラテスは、私は知恵のある者ではないことを自覚している、神は何の謎をかけているのか、と考え、この謎を解くことが神から課せられた自分の天職だと考えました。
そこでソクラテスは、賢明な人々のもとを歴訪する対話活動を開始します。その結果、賢明と言われる人々は「何も知らないにもかかわらず知っていると思い込んでいる」のだということに気が付きます。それとともにソクラテス自身は「何も知らないことを知っている」ということにも気づき、神託の真意が人間の無知を悟らせることだったと理解したのです。
それはソクラテスがのちに死罪となる罪を負わせられる原因ともなりました。つまり、ソクラテスの問答によって、相手の無知を公衆の前にさらすことになり、人々の怒りと憎しみを買う結果となったのです。
「無知の知」とは、「汝自身を知れ」という事。
『幸福論』で知られたフランスの哲学者アランは、この言葉を引用して、人間は自分以外には敵はほとんどいないものです。最大の敵は常に自分自身です。判断を誤ったり、無駄な心配をしたり、絶望したり、それこそが敵になるのです。だから、「あなたの運命は、あなた次第である」と言い残している。

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