醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1417号   白井一道

2020-05-22 10:28:45 | 随筆・小説



   徒然草第240段 しのぶの浦の蜑の見る目も所せく



原文
 しのぶの浦の蜑(あま)の見る目も所せく、くらぶの山も守る人繁からんに、わりなく通はん心の色こそ、浅からず、あはれと思ふ、節々の忘れ難き事も多からめ、親・はらから許して、ひたふるに迎へ据ゑたらん、いとまばゆかりぬべし。
世にありわぶる女の、似げなき老法師、あやしの吾妻人なりとも、賑はゝしきにつきて、「誘う水あらば」など云ふを、仲人、何方も心にくき様に言ひなして、知られず、知らぬ人を迎へもて来たらんあいなさよ。何事をか打ち出づる言の葉にせん。年月のつらさをも、「分(わ)け来(こ)し葉山(はやま)の」なども相語らはんこそ、尽きせぬ言の葉にてもあらめ。
 すべて、余所の人の取りまかなひたらん、うたて心づきなき事、多かるべし。よき女ならんにつけても、品下り、見にくゝ、年も長けなん男は、かくあやしき身のために、あたら身をいたづらになさんやはと、人も心劣りせられ、我が身は、向ひゐたらんも、影恥かしく覚えなん。いとこそあいなからめ。
 梅の花かうばしき夜の朧月に佇み、御垣が原の露分け出でん有明の空も、我が身様に偲ばるべくもなからん人は、たゞ、色好まざらんには如かじ。

現代語訳
 人目を忍び女に逢うにも邪魔されることが煩わしく、闇に紛れて女に逢おうとすると女を見張り逢わせないようにする人が多い中、何としても女に逢おうとする男の気持ちには浅からぬ思いがあるように思われ、その折々の忘れ難い事も多いであろうに、女の親や兄弟が許してくれ、どうぞと迎えてくれたなら、どんなにか心躍ることであろう。
世渡りに困っている女が釣り合わない老法師や関東の田舎者であっても、豊かなようなので「妻に迎えて下さるなら」などと言うのを仲人が男女どちら側にも奥ゆかしい人であるかのように言いくるめて相手も知らず、こちらも知らない人を迎え入れることほどくだらないことはない。この男女は何事についての言葉をかけあうのであろうか。気安く逢えなかった年月の辛さをも、「無理をかさねての逢瀬だった」と語り合うことほど尽きぬ言葉なのであろう。
 すべて、他人が取りまとめた結婚は何とはなしに気にくわないことが多かろう。良い女であったにしても、下品で醜く年も取っている男にとってはあれほどの女が身を持ち崩していくと女の人柄も思ったより下らなく思え、男自身にとっても立派な女と向かい合っていると自分自身の醜い容姿が恥ずかしく思われるであろう。これでは本当にあじけないものであろう。
 梅の花の香り漂う夜の朧月に佇み、恋人が住む邸の垣の辺りの露を分けて出てくるころの夜明けの空も我が身のように偲ぶことのない人は本当に恋愛に夢中にならないに越したことはない。

 「夜這い「について     白井一道
赤松啓介の『夜這いの民俗学』によると、夜這いは、時代や地域、各社会層により多様な状況がある。夜這い相手の選択や、または女性側からの拒絶など、性的には自由であり、祭りともなれば堂の中で多人数による「ザコネ」が行われ、隠すでもなく恥じるでもなく、奔放に性行為が行われていた。ただし、その共同体の掟に従わねば、制裁が行われることもあった。赤松によれば戦争その他などで男の数が女に比して少なかったことからも、この風習が重宝された可能性があるという。
また明治以降、夜這いの風習が廃れたことを、夜這いと言う経済に寄与しない風俗を廃して、各種性風俗産業に目を向けさせ、税収を確保しようとする政府の意図が有ったのではないか、とみている。
なお、日本の共同体においては、少女は初潮を迎えた13歳、または陰毛の生えそろった15 - 16歳から夜這いの対象とされる。その際に儀式として性交が行われた。少年は13歳でフンドシ祝いが行われ、13歳または15歳で若衆となるが、そのいずれかの時に、年上の女性から性交を教わるのが儀式である。その後は夜這いで夜の生活の鍛練を積む。
赤松は明治42年(1909年)兵庫県の出身である。この当時はまだフンドシ祝いが残っていた。日本の共同体では夜這いの前に以上の如くの性教育があった。夜這いが認められていたので、赤ん坊が誰の子であるのかよく解らない、などと言った例がよく見られたが、共同体の一員として、あまり気にすることなく育てられた。 ウィキペディアより