醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1331号   白井一道

2020-02-17 10:53:30 | 随筆・小説



   徒然草第156段 大臣の大饗は



原文
  大臣の大饗(だいきやう)は、さるべき所を申し請けて行ふ、常の事なり。宇治左大臣殿(うぢのさだいじんどの)は、東三条殿(とうさんでうどの)にて行はる。内裏にてありけるを、申されけるによりて、他所へ行幸ありけり。させる事の寄せなけれども、女院の御所など借り申す、故実(こしつ)なりとぞ。

現代語訳
 大臣披露のための宴会は誰でもが納得する最もふさわしいところに設定し、行うことが常のことである。宇治左大臣殿(うぢのさだいじんどの)、藤原頼長は、摂関家の儀式がとりおこなわれる東三条殿で大臣披露宴は行われた。皇居であることが分かりながらそこで行われたことにより他所へ天皇は行かれた。このようなことが行われなければ、女院の御所などを借り受けることが昔の例にあることだ。

 総理大臣主催「桜を見る会」について
 「桜を見る会」問題の本質は、公費によって功労・功績者を慰労する目的で行われる会が、「安倍首相による地元有権者の歓待行事」と化し、後援会関係の招待者が膨れ上がって開催経費が予算を超えて膨張しても、安倍後援会関係者が傍若無人に大型バスで会場に乗り込んできても、何も物を言えず、黙認するしかないという、政府職員の「忖度」と「無力化」の構図である」。
このように郷原信郎弁護士はブログで述べている。

醸楽庵だより   1330号   白井一道

2020-02-16 10:28:51 | 随筆・小説



   徒然草第155段 世に従はん人は、



原文
 世に従はん人は、先づ、機嫌を知るべし。序(ついで)悪(あ)しき事は、人の耳にも逆「さか」ひ、心にも違ひて、その事成らず。さやうの折節を心得べきなり。但し、病を受け、子生み、死ぬる事のみ、機嫌をはからず、序(ついで)悪(あ)しとて止む事なし。生・住・異・滅の移り変る、実の大事は、猛き河の漲(みなぎ)り流るゝが如し。暫しも滞らず、直ちに行ひゆくものなり。されば、真俗につけて、必ず果し遂げんと思はん事は、機嫌を言ふべからず。とかくのもよひなく、足を踏み止むまじきなり。

現代語訳
 世間の習いに従う人はまずチャンスをつかむことだ。順序を違えたことは人に聞き入れられず、気持ちを逆なでし、そのことは成就しない。そのような事もありえると心得ておくべきだ。ただし病気になったり、子を産んだり、死んだりすることだけは、好機を見計るものではないし、順序が悪いと言って止めることではない。生・住・異・滅は移り変わっていき、本当に大事な事は、荒れ狂う河に漲り流れるがごとくだ。少しも滞ることなく、直ちに行われていくものだ。だから仏道修行にあっても、俗世間に処していくにあっても、必ず果たし遂げようと思う事は、時機の良し悪しを言ってはならない。あれやこれやの用意・支度・準備を言うことなく、足を踏みとどめることをしてはならない。

原文
 春暮れて後、夏になり、夏果てて、秋の来るにはあらず。春はやがて夏の気を催し、夏より既に秋は通ひ、秋は即(すなは)ち寒くなり、十月は小春の天気、草も青くなり、梅も蕾(つぼ)みぬ。木の葉の落つるも、先づ落ちて芽ぐむにはあらず、下(した)より萌(きざ)しつはるに堪へずして落つるなり。迎ふる気、下に設けたる故に、待ちとる序(ついで)甚(はなは)だ速し。生(しやう)・老・病・死の移り来る事、また、これに過ぎたり。四季は、なほ、定まれる序(ついで)あり。死期は序を待たず。死は、前よりしも来らず。かねて後に迫れり。人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来る。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。

現代語訳
 春は暮れると夏になり、夏果てて秋が来るのではない。春はやがて夏の雰囲気を醸し出し、夏から既に秋の気配が漂いだし、秋はすぐ寒くなり、十月は小春の暖かさがあり、草も青々として、梅には蕾が付き始める。木の葉が落ちるのも、まず落ちて芽吹くのではなく、葉の芽が萌えだす勢いに堪えられずに落ちるのである。変転を迎える気配は下に設けられている故に、待ち受ける順序が速やかなのだ。生(しやう)・老・病・死の移り変わる事はまたこれよりも速い。四季には、決まった順序がある。死期には四季のような順序はない。死は前からばかり来るものではない。あらかじめ後ろに迫っている。人は誰でも死が来ることを知っていて、待っていること、しかも急でもないにもかかかわらずに自覚することなくやって来る。沖の干潟は遥かであるけれども、磯より潮が満ちて来るようなものだ。


 老いは突然、襲ってくる  白井一道
 老いが突然襲ってきた。床屋を出て自転車に乗ったが道が分からない。恐ろしくなった私は自転車を降り、自転車を引き、歩き始めたが行き先が分からない。蕎麦屋の脇の道に入り、道路に出て左に曲がった。私はどこに行こうとしているのかが分からない。じっとしているわけにはいかない。歩かなければならない。歩き始めてみるとまた同じ道を歩いている。元の道に戻った。また蕎麦屋の脇の道に入ると同じだ。真っすぐ進もう。信号が見えて来た。あぁー、この信号を渡り、向こう側に行こう。右に向かって歩き始めよう。自転車に乗ることが怖くて乗ることができない。突然、私に話かけてくる人がいた。「この道を行くと郵便局に行きますか」。私はただ漠然と頭を上下にして頷いた。本当に郵便局にいけるのか、どうか、私には分からなかった。ただ頷き、ニコニコしただけである。ただ私は真っすぐに伸びる道を自転車を引き、歩いているだけである。すると突然、見慣れた景色が現れた。昔、花屋だったところの交差点を曲がり、まっすぐ行くと我が家だ。家に帰れる。意識が戻り、正常に戻った。

醸楽庵だより   1329号   白井一道

2020-02-14 12:25:38 | 随筆・小説



   徒然草第154段 この人、東寺の門に



原文
 この人、東寺の門に雨宿りせられたりけるに、かたは者どもの集りゐたるが、手も足も捩(ね)ぢ歪(ゆが)み、うち反りて、いづくも不具に異様(ことやう)なるを見て、とりどりに類(たぐひ)なき曲物(くせもの)なり、尤(もつと)も愛するに足れりと思ひて、目守(まも)り給ひけるほどに、やがてその興尽きて、見にくゝ、いぶせく覚えければ、たゞ素直に珍らしからぬ物には如かずと思ひて、帰りて後、この間、植木を好みて、異様(ことやう)に曲折あるを求めて、目を喜ばしめつるは、かのかたはを愛するなりけりと、興なく覚えければ、鉢に植ゑられける木ども、皆掘り捨てられにけり。
さもありぬべき事なり。

現代語訳
 この人が東寺の門に雨宿りをさせていただいた折、かた者どもが集まっていた。手も足もねじれ歪み、うち反りてどこを見ても不具合で異様な状況を見て、それぞれが類稀な曲者である。もっとも愛するに充分だと思い、見守っていると、やがてその興味も失せて、醜く不快に思われたので、ただそのまま珍しくもない物にも及ばないと思って、家に帰った後、しばらくの間、植木が好きになり、異様に曲がりくねったものを探し求めて、目を楽しませることは、かのかたわ者を愛することになると、面白くないと思ったので、鉢に植えられている木を皆掘り上げて捨ててしまった。
 さもありそうなことだ。

醸楽庵だより   1328号   白井一道

2020-02-14 12:25:38 | 随筆・小説



   徒然草第153段 為兼大納言入道



原文
 為兼大納言入道(ためかねのだいなごんにふどう)、召し捕(と)られて、武士どもうち囲みて、六波羅(ろくはら)へ率(ゐ)て行(ゆ)きければ、資朝卿(すけとものきやう)、一条わたりにてこれを見て、「あな羨まし。世にあらん思い出、かくこそあらまほしけれ」とぞ言はれける。

現代語訳
 為兼大納言入道(ためかねのだいなごんにふどう)は、召し捕らえられて、武士どもが囲んで六波羅(ろくはら)へ引き連れて行くのを資朝卿(すけとものきやう)が一条大路の辺りで見て、「なんと羨ましい。世に生きた証はこのようにあってほしいものだ」と言われたという。

 兼好法師は何を表現したのか、分からない。
                 白井一道
 為兼大納言入道(ためかねのだいなごんにふどう)は鎌倉幕府側の武士たちに召し捕らえられ、六波羅探題に引っ立てられていく姿を見た日野資朝卿はそこに人間の生きた証を発見した。
 時代状況が分からなければ、兼好法師が日野資朝卿の言葉に共感した理由が伝わらない。兼好法師は古代天皇制権力が武家政権に奪われていく時代に生きていた。六波羅探題が京都に設置されるようになったのは、1221年に起きた「承久の乱」後のことである。「承久の乱」とは、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対し討伐の兵を挙げた戦争である。結果的に上皇は敗れ、隠岐島に配流となる。
「六波羅探題」は、朝廷が二度とこのような乱を起こさぬよう監視する目的で、鎌倉幕府により京都に置かれた機関である。それまでの「京都守護」を廃止し、その代わりに京都六波羅の北と南に設置された。
兼好法師と後醍醐天皇は同時代を生きていた。後醍醐天皇は天皇による政治体制復活を図ったが失敗している。古代的な天皇権力の復活をもくろむ勢力が時代の大勢になぎ倒されていく時代に生きたのが後醍醐天皇であり、吉田兼好法師であった。そうした仲間の一人が日野資朝卿である。為兼大納言入道(ためかねのだいなごんにふどう)もまたそのような者の一人であった。

醸楽庵だより   1327号   白井一道

2020-02-13 11:06:24 | 随筆・小説



   徒然草152段 西大寺静然上人



原文
 西大寺(さいだいじ)静然上人(じやうねんしやうにん)、腰屈(こしかが)まり、眉白く、まことに徳たけたる有様にて、内裏(だいり)へ参られたりけるを、西園寺内大臣殿(さいをんじのだいだいじんどの)、「あな尊の気色や」とて、信仰の気色ありければ、資朝卿(すけとものきよう)、これを見て、「年の寄りたるに候ふ」と申されけり。
 
現代語訳
 西大寺(さいだいじ)静然上人(じやうねんしやうにん)は、腰が曲がり、眉が白く、実に徳を積まれたご様子で宮中へおいでになられたのを見て、西園寺内大臣殿(さいをんじのだいだいじんどの)は、「なんと尊い気品であるか」と、仰ぎ窺うような様子だったので、資朝卿(すけとものきよう)が静然上人(じやうねんしやうにん)を見て、「お年をめされましたね」とおっしゃられた。 
 
原文
後日に、尨犬(むくいぬ)のあさましく老いさらぼひて、毛剥げたるを曳かせて、「この気色尊く見えて候ふ」とて、内府(だいふ)へ参らせられたりけるとぞ。

現代語訳
後日、むく毛の犬のみすぼらしく老いさらばいて、毛が剥げている犬を「この気品尊く見えている」と内大臣殿の邸に贈ったということだ。

 皮肉ということ   白井一道
 『悪魔の辞典』より
老齢(age)
すでに犯すだけの冒険心が持てなくなっている悪徳を悪しざまに言うことによって、いまだに失わずに持っている悪徳を棒引きにしようとする人生の一時期。

醸楽庵だより   1326号   白井一道   

2020-02-12 12:20:27 | 随筆・小説



   徒然草151段 或人の云はく、



原文
 或人の云はく、年五十になるまで上手に至らざらん芸をば捨つべきなり。励み習ふべき行末もなし。老人の事をば、人もえ笑はず。衆に交りたるも、あいなく、見ぐるし。大方、万のしわざは止めて、暇あるこそ、めやすく、あらまほしけれ。世俗の事に携はりて生涯を暮すは、下愚の人なり。ゆかしく覚えん事は、学び訊くとも、その趣を知りなば、おぼつかなからずして止むべし。もとより、望むことなくして止まんは、第一の事なり。

現代語訳
 或る人の言っていることによると、年50になるまでに上手になることのない芸は止めるべきだ。励み習ってみても行く末はない。老人のことだと言って人が笑えるようなことではない。人々との付き合いにおいても面白くないし、見苦しい。大方、世俗の仕事はやめて、暇であることが目にもよろしく、また望ましい。世俗の事に関わり合って生涯を暮らすのは愚かな人だ。

原文
 未だ堅固かたほなるより、上手の中に交りて、毀(そし)り笑はるゝにも恥ぢず、つれなく過ぎて嗜(たしな)む人、天性、その骨(こつ)なけれども、道になづまず、濫(みだ)りにせずして、年を送れば、堪能(かんのう)の嗜まざるよりは、終(つい)に上手の位に至り、徳たけ、人に許されて、双なき名を得る事なり。

現代語訳
 未だ芸が未熟なうちから上手な人の中に入り、厳しいことを言われ、笑われることがあっても恥じることなく、相手にされないことが続いても努力できる人、生まれながらの芸能の才能がなくとも、勝手な事をせずに、荒れたことをしないで、年月を経れば、器用で上手な人が稽古に打ち込まない人より最終的には上手になり、徳も得て人に受け入れられ、並ぶ者のない名を得ることになるだろう。

原文
 天下のものの上手といへども、始めは、不堪(ふかん)の聞えもあり、無下(むげ)の瑕瑾(かきん)もありき。されども、その人、道の掟正しく、これを重くして、放埒せざれば、世の博士にて、万人の師となる事、諸道変るべからず。

現代語訳
 天下に名だたる上手と言えども、初めは下手だったという噂もあり、ひど過ぎる恥辱もあったのだ。しかれども、その人は芸道の掟を正しく守り、この事を重視し、放埓になることなく、世に知られた名人になり、万人の師となる事、あらゆる習い事の道に変わることはない。

 ひたすらなる努力は名人への道か   白井一道
 将棋の15歳少年プロ棋士藤井聡太四段が現役最高のプロ棋士羽生名人に公式戦で戦い、勝利したことがある。それから3年、17歳になった藤井聡太4段は7段になった。最年少プロ棋士藤井聡太7段は順位戦C級1組9回戦で高野秀行6段と対戦した。高野秀行6段は47歳のベテランである。プロ棋士になって20年の経験を持つ。プロ棋士になってまだ間もない藤井聡太7段と対戦するに当たって、角変り腰掛け銀戦法を高野6段は採用した。藤井聡太7段の得意戦法の一つのようだ。藤井7段の得意戦法で戦う意気込みで受けてみようと考えたのかもしれない。高野6段は今までの藤井7段のすべての棋譜を調べ、対戦の戦略を練って対戦に挑んだようだ。一手一手に思いを込め、研究の成果を表現すべく、丁寧に指し進めた。がどうしたことか、研究の成果が何の役にも立たないことが中盤以降に出現したのだ。今までにない盤面が出現したのだ。この盤面を打開するにはこの対戦中に解決しなければならない。将棋の対戦というものはこういうものなのた。どんなに研究していても研究し尽くすことができないのだ。これが将棋というものなのだ。将棋の指し手というものは無限なのだ。甘い一手が命を落とすことになるのだ。最善の正しい一手だと思った指し手が咎められてしまう。指した後になって分かってももう遅い。徐々に形勢は傾き、徐々に敗戦の色が濃くなっていくのが分かって来る。どうしてこうなってしまうのか、将棋の神様から見放されていく自分が盤面から分かって来る。将棋を指し続ける気持ちが少しづつ萎えて来る。ますます落ち込んでいく自分の気持ちをもう一人の自分が見つめている。これ以上、将棋を指しても無意味だ。自分の負を自分に納得させる苦しい時間に耐えているのだ。これ以上将棋を指し進めても無惨だ。威儀を正そう。静かに将棋の駒を握り、その駒を盤面の上に置き、頭を下げ、負けを受け入れた。藤井7段は昇級を果たした。

醸楽庵だより   1325号   白井一道

2020-02-11 10:58:08 | 随筆・小説



   徒然草150段 能をつかんとする人



原文
 
能をつかんとする人、「よくせざらんほどは、なまじひに人に知られじ。うちうちよく習ひ得て、さし出でたらんこそ、いと心にくからめ」と常に言ふめれど、かく言ふ人、一芸も習ひ得ることなし。

現代語訳
 芸能を身に着けようとする人は、「よくできないうちはなまじっか人に知られるようなことはせず。人に知られずこっそりよく練習し、その後人前に出てくることがとても奥ゆかしいことだ」と人は常に言うようだが、このように言う人に限って一芸も習い得ることはない。

原文
 未だ堅固かたほなるより、上手の中に交りて、毀(そし)り笑はるゝにも恥ぢず、つれなく過ぎて嗜(たしな)む人、天性、その骨(こつ)なけれども、道になづまず、濫(みだ)りにせずして、年を送れば、堪能(かんのう)の嗜まざるよりは、終(つい)に上手の位に至り、徳たけ、人に許されて、双なき名を得る事なり。

現代語訳
 未だ芸が未熟なうちから上手な人の中に入り、厳しいことを言われ、笑われることがあっても恥じることなく、相手にされないことが続いても努力できる人、生まれながらの芸能の才能がなくとも、勝手な事をせずに、荒れたことをしないで、年月を経れば、器用で上手な人が稽古に打ち込まない人より最終的には上手になり、徳も得て人に受け入れられ、並ぶ者のない名を得ることになるだろう。

原文
 天下のものの上手といへども、始めは、不堪(ふかん)の聞えもあり、無下(むげ)の瑕瑾(かきん)もありき。されども、その人、道の掟正しく、これを重くして、放埒せざれば、世の博士にて、万人の師となる事、諸道変るべからず。

現代語訳
 天下に名だたる上手と言えども、初めは下手だったという噂もあり、ひど過ぎる恥辱もあったのだ。しかれども、その人は芸道の掟を正しく守り、この事を重視し、放埓になることなく、世に知られた名人になり、万人の師となる事、あらゆる習い事の道に変わることはない。

 ひたすらなる努力は名人への道か   白井一道
 将棋の15歳少年プロ棋士藤井聡太四段が現役最高のプロ棋士羽生名人に公式戦で戦い、勝利したことがある。それから3年、17歳になった藤井聡太4段は7段になった。最年少プロ棋士藤井聡太7段は順位戦C級1組9回戦で高野秀行6段と対戦した。高野秀行6段は47歳のベテランである。プロ棋士になって20年の経験を持つ。プロ棋士になってまだ間もない藤井聡太7段と対戦するに当たって、角変り腰掛け銀戦法を高野6段は採用した。藤井聡太7段の得意戦法の一つのようだ。藤井7段の得意戦法で戦う意気込みで受けてみようと考えたのかもしれない。高野6段は今までの藤井7段のすべての棋譜を調べ、対戦の戦略を練って対戦に挑んだようだ。一手一手に思いを込め、研究の成果を表現すべく、丁寧に指し進めた。がどうしたことか、研究の成果が何の役にも立たないことが中盤以降に出現したのだ。今までにない盤面が出現したのだ。この盤面を打開するにはこの対戦中に解決しなければならない。将棋の対戦というものはこういうものなのた。どんなに研究していても研究し尽くすことができないのだ。これが将棋というものなのだ。将棋の指し手というものは無限なのだ。甘い一手が命を落とすことになるのだ。最善の正しい一手だと思った指し手が咎められてしまう。指した後になって分かってももう遅い。徐々に形勢は傾き、徐々に敗戦の色が濃くなっていくのが分かって来る。どうしてこうなってしまうのか、将棋の神様から見放されていく自分が盤面から分かって来る。将棋を指し続ける気持ちが少しづつ萎えて来る。ますます落ち込んでいく自分の気持ちをもう一人の自分が見つめている。これ以上、将棋を指しても無意味だ。自分の負を自分に納得させる苦しい時間に耐えているのだ。これ以上将棋を指し進めても無惨だ。威儀を正そう。静かに将棋の駒を握り、その駒を盤面の上に置き、頭を下げ、負けを受け入れた。藤井7段は昇級を果たした。

醸楽庵だより   1324号   白井一道

2020-02-10 10:58:42 | 随筆・小説



   徒然草第148段 四十以後の人、



原文
 四十以後の人、身に灸を加へて、三里を焼かざれば、上気の事あり。必ず灸すべし。

現代語訳
 四十以後の人は、身体に灸をすえ、三里を焼かないと、のぼせ上がることがある。必ず灸をするべきだ。

 鍼灸の効果   脳梗塞リハビリセンター        
 東洋医学では病気を体全体のバランスが崩れていることから症状が生まれ、そのバランスを自然治癒力により戻すことができれば病気が治る、という考え方をしています。 基本的な考え方として「気・血・水」のバランスが保たれている状態が健康状態であり、気・血・水のバランスの崩れ方によって治療法が定められており、鍼灸では2000以上のツボを症状に応じて使い分けるのです。
「気」体内を流れるエネルギーのことで、元気や気力の『気』という意味をもちます。「血」文字通り血液のこと。血液が循環して全身に栄養を運び、潤いを与えます。「水」血液以外の体内にあるリンパ液やその他の水分のこと。消化や排泄に影響するほか、臓器をスムーズに働かせる潤滑油のような作用もあります。
民間療法的に定着していった鍼灸治療ですが、ここ数十年の間に鍼灸治療も含めた伝統的な医学は世界に普及し、現在では世界中で研究と実践が進められている普遍的な存在へと変貌を遂げています。
1979年にはWHOは鍼灸治療の適応疾患43疾患を発表し、2001年には大学病院での医学部教育課程に東洋医学が取り入れられるようになるなど、もはや民間療法ではない正式な医療としての役割の重要性は日に日に高まっています。
そのような背景には、ストレス、さまざまなアレルギー、慢性疲労など不定愁訴と言われる現代社会特有の疾患が増えてきており、それらに対して西洋医学の手法は必ずしも万全の効果をもたらしているとは言いがたいことがあります。
西洋医学が、病気の原因である細菌やウィルスの根絶や患部を回復させることに主眼を置いている一方、東洋医学は「身体の免疫力を高める」ことを主眼にしています。西洋医学よりも副作用が少なく、また原因がはっきりしない症状や慢性的な症状に効果があることが明らかになり、東洋医学を治療に取り入れる医療機関も年々増えています。
2008年にはWHOによって、ツボの名称や経穴の位置が統一され、ますます鍼灸治療は世界標準として必要不可欠なグローバル医療としての地位を確立しつつあります。

醸楽庵だより   1323号   白井一道

2020-02-09 10:56:47 | 随筆・小説



   徒然草第148段 四十以後の人、



原文
 四十以後の人、身に灸を加へて、三里を焼かざれば、上気の事あり。必ず灸すべし。

現代語訳
 四十以後の人は、身体に灸をすえ、三里を焼かないと、のぼせ上がることがある。必ず灸をするべきだ。

 鍼灸の効果   脳梗塞リハビリセンター        
 東洋医学では病気を体全体のバランスが崩れていることから症状が生まれ、そのバランスを自然治癒力により戻すことができれば病気が治る、という考え方をしています。 基本的な考え方として「気・血・水」のバランスが保たれている状態が健康状態であり、気・血・水のバランスの崩れ方によって治療法が定められており、鍼灸では2000以上のツボを症状に応じて使い分けるのです。
「気」体内を流れるエネルギーのことで、元気や気力の『気』という意味をもちます。「血」文字通り血液のこと。血液が循環して全身に栄養を運び、潤いを与えます。「水」血液以外の体内にあるリンパ液やその他の水分のこと。消化や排泄に影響するほか、臓器をスムーズに働かせる潤滑油のような作用もあります。
民間療法的に定着していった鍼灸治療ですが、ここ数十年の間に鍼灸治療も含めた伝統的な医学は世界に普及し、現在では世界中で研究と実践が進められている普遍的な存在へと変貌を遂げています。
1979年にはWHOは鍼灸治療の適応疾患43疾患を発表し、2001年には大学病院での医学部教育課程に東洋医学が取り入れられるようになるなど、もはや民間療法ではない正式な医療としての役割の重要性は日に日に高まっています。
そのような背景には、ストレス、さまざまなアレルギー、慢性疲労など不定愁訴と言われる現代社会特有の疾患が増えてきており、それらに対して西洋医学の手法は必ずしも万全の効果をもたらしているとは言いがたいことがあります。
西洋医学が、病気の原因である細菌やウィルスの根絶や患部を回復させることに主眼を置いている一方、東洋医学は「身体の免疫力を高める」ことを主眼にしています。西洋医学よりも副作用が少なく、また原因がはっきりしない症状や慢性的な症状に効果があることが明らかになり、東洋医学を治療に取り入れる医療機関も年々増えています。
2008年にはWHOによって、ツボの名称や経穴の位置が統一され、ますます鍼灸治療は世界標準として必要不可欠なグローバル医療としての地位を確立しつつあります。

醸楽庵だより   1322号   白井一道

2020-02-08 10:52:20 | 随筆・小説



   徒然草第147段 灸治、あまた所に成りぬれば、



原文
 灸治、あまた所に成りぬれば、神事に穢れありといふ事、近く、人の言ひ出せるなり。格式等にも見えずとぞ。

現代語訳
 お灸をすえて病を治す。お灸を体のあちこちに据えると神事が穢れるという事、最近世間の人が言い出した。律や令の規則にもないことだ。

 鍼灸の歴史        日本鍼灸師会
 鍼灸は、一般に「はり・きゅう」または「しんきゅう」と呼ばれています。東洋医学或いは漢方医学の一分野として中国に起源をもつ我が国の伝統的医療であります。鍼灸は金属の細い針を経穴(ツボ)に刺入し、或いは艾(もぐさ)を燃焼させて経穴(ツボ)に刺激を加え病気を治そうとする施術です。鍼灸医学は、日本には6世紀の初め飛鳥時代に仏教の伝来より11年遅く、また漢方薬より先に渡来したと云われています。古代の中国で揚子江流域やその南方の地質が豊かでさまざまな植物が茂った所ではその根・皮・木・草等を採集して煎じて飲む薬としての療法が発達したとされています。一方、黄河流域は土地が痩せて植物の種類も少なく生育も悪い地方では、煎じ薬に頼りがたく経験的に針灸療法が発達したものと思われます。この2つの医学は、中国の漢の時代にひとつに集大成されましたので今日では、漢方医学と呼ばれています。

さて、鍼灸医学は、我が国に渡来して以来明治時代の初期までの長い間、漢方薬と共に医学の主流として広く人々に活用されてまいりましたが、幕末のオランダ医学(西洋医学)の伝来によって次第に衰退を余儀なくされてきました。その後、明治政府の欧米化政策により1874年、日本の医学を西洋医学とする立法が制定され医学の主流を西洋医学に明け渡すこととなりました。何故このようになったのか、欧米化政策がひとつの理由ですが、その他として東洋医学は内因性の病気には、その特徴を生かし治療効果もそれなりに評価されてきましたが外因性のもの(外傷)にたいしては効果が遅いことが挙げられます。特に、戦場などで受けた外傷に対しては、西洋医学の外科の方がはるかに役立ちましたから東洋医学が軽視されたとも云われています。しかし、最近では、公的な医学研究所・医科大学・鍼灸大学や鍼灸短期大学・医療機関等で科学的な各種の実験、研究がされて少しづつ鍼灸医学の効果が証明されてきましたので、日本をはじめとして米国やヨーロッパ各国でも鍼灸が盛んになってきました。