醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1321号   白井一道

2020-02-07 11:22:01 | 随筆・小説



   徒然草第146段  明雲座主、



原文
 明雲座主(めいうんざす)、相者(さうじや)にあひ給ひて、「己れ、もし兵杖(ひやうぢやう)の難やある」と尋ね給ひければ、相人(さうなん)、「まことに、その相(さう)おはします」と申す。「如何なる相ぞ」と尋ね給ひければ、「傷害の恐れおはしますまじき御身にて、仮にも、かく思(おぼ)し寄りて、尋ね給ふ、これ、既に、その危(あやぶ)みの兆なり」と申しけり。
 果して、矢に当りて失せ給ひにけり。

現代語訳
 明雲天台座主は人相見に出会い、「私には、もしかして武器による災いが起きるだろうか」とお尋ねになったところ、人相見は「誠に、その兆しがでています」と申した。「如何なる災いの兆しがあるのか」と、お尋ねになると「傷害を受ける恐れがありませぬようご自身でも仮にも災いが起きやしないかとお尋ねになる。このことが既に災いの兆しだ」と申した。
 果たして、明雲天台座主は矢に当たりお亡くなりになった。

 人相とは、   白井一道
 『人間喜劇』の小説群を書いたフランスの小説家ド・バルザックは「三十才を過ぎなければ女には顔がない」と言ったという。顔にはその人間の人生が表現されている。37点もの自画像を描いたゴッホは自分の顔に何が表現されているのかを知るために自画像を描き続けた。同じようにオランダの画家、レンブラントも何点もの自画像を描いている。顔にはその人間の生活が表現されている。
 人相を見る。顔にはその人間の思想が表現されている。人に対して優しい人、厳しい人、朗らかな人、冷たい人、暖かい人、そのすべてが顔には表現されている。顔には人間が表現されていると言う事を兼好法師は述べているのかもしれないなと、私は感じた。

醸楽庵だより   1320号   白井一道

2020-02-06 11:52:02 | 随筆・小説



   徒然草第145段  御随身秦重躬(みずゐじんはたのしげみ)



原文
 御随身秦重躬(みずゐじんはだのしげみ)、北面の下野入道信願(しもつけのにゆふどうしんぐわん)を、「落馬の相ある人なり。よくよく慎み給へ」と言ひけるを、いと真(まこと)しからず思ひけるに、信願、馬より落ちて死ににけり。道に長じぬる一言、神の如しと人思へり。
 さて、「如何なる相ぞ」と人の問ひければ、「極めて桃尻にして、沛艾(はいがい)の馬を好みしかば、この相を負せ侍りき。何時かは申し誤りたる」とぞ言ひける。

現代語訳
 警護役秦重躬(はだのしげみ)は、上皇の御所の警護役の下野入道信願(しもつけのにゆふどうしんぐわん)を「落馬の相がある。よくよく気を付けたまえ」と言ったことをとても本当の事とは思えなかったのに、信願は馬より落ちて亡くなった。仏教の教えに長じた一言、神様のようだと人は思った。
 さて、「如何なる相が出ているか」と、人が問うと「極めて乗馬には不向きなお尻をしていて、躍り上がる癖のある馬を好んでいたので、落馬の相があると申した。いつかは申し誤ることがある」と言っている。

 落馬が死因 ブログ「酪農と歴史のお話し」から
 「落馬が死因」という日本の偉人が3名いる。因みに、この3名のお歴々のご職業は、時代は違えども、「武士」であり、その内の1人は、日本人なら誰でもが知る、一時代の構築者であると当時に、学校の歴史の教科書に必ず載っている程の有名人ですが、寧ろテレビドラマなど創作の世界では、彼自身からしてみれば、極めて不名誉ですが、悪役として描かれる事でも有名な偉人であります。兎に角にも、武士でありながら、はからずも落馬事故死してしまった上記の3人物については、少し後述させて頂きます。
 世間一般のイメージでは、「馬は武士のみが騎乗していた」と思われる事がありますが、実は、小難しい歌を詠んだり、牛車ばかり乗って、ゆっくりと都を練り歩くイメージが強い公家(貴族)も、馬に乗っており、彼らの中にも、馬を愛し、現在で言う「名騎手」と呼ばれる人物も存在しました。
 他の記事でも何度か紹介させて頂いた「流鏑馬(騎射術)」や「鷹狩(狩猟)」、騎手の乗馬技術や作法を競う「競馬(きそいうま・駒競(こまくらべ)とも言う)」など武術は、武士のみが行っていたと思われがちですが、先述の武術は全て、朝廷、それに連なる高級貴族(摂関家など)が行っていた宮中イベントの一種でした。因みに、上記の競馬では、貴族たちが未去勢・未調教の荒々しい馬を乗りこなし、足の速さを競ったりしていたと言うので、脆弱なイメージを持たれがちの貴族の皆様も、中々勇敢でありますね。
 摂関政治の代表格で、歴史の教科書に載るほど有名な貴族・藤原道長も、国政の中枢に就く前の若年の頃より、弓術や馬術を好み、私的に競馬をよく行っていたと伝わり、絶大な権勢を握った後は、自邸に天皇に行幸を賜って、競馬を開催し、自己の権威アピールをしています。
 道長の時代を下り、武家の源平が歴史の表舞台に台頭し始めた平安末期の公家・藤原忠隆という器量人も、馬術の名人として、当時より有名でした。彼の四男である信頼と対立関係となった信西(藤原通憲)も、忠隆の優れた馬術や器量を自著内で賞賛しています。
 武士と貴族の闘争期である南北朝争乱期(室町前期)でも、南朝(後醍醐天皇)側の中心人物である、戦う貴族(国司)の北畠親房・顕家親子は有名ですが、特に息子の顕家は、若年ながら後醍醐天皇から請われて、古代から馬の産地として有名な奥州(東北)地方を統括する鎮守府将軍に任命され、足利尊氏(北朝のリーダー・室町幕府初代将軍)が南朝に叛乱を起こした際は、強豪の奥州人馬を率いて、尊氏軍を撃破しました。この頃の顕家軍は、半月で、約600kmを超える道程(東北から滋賀)を行軍するという、神懸り的な記録を達成していますが、これには優れた奥州の軍馬の力が背景にあったに違いありません。また顕家自身も、先述の強行軍を行える程の馬術を持っていた事を窺わせます。
 織田信長が台頭した戦国期(室町後期)の馬術に通暁した貴族には、傑物・近衛前久います。彼は、公家の最高職である関白・太政大臣を歴任し、有職故実・和歌・書道などに通じる一流の教養人であると同時に、公家の権威をバックボーンとした名外交官としても活躍した。信長や上杉謙信、徳川家康など当時の戦国英傑と親交を持ち、特に同年代の信長とは、馬術・鷹狩りという共通の趣味を通して、仲が良かったと言われています。
 乗馬がお得意であったのは、貴族だけには留まりません。日本のシンボルでもある歴代の天皇家にも名馬術家はおられました。
近代では、明治天皇・昭和天皇の両陛下も旧日本陸海軍を統括する大元帥として、特に乗馬の修練を積まれ、御腕前は優れておられた事も有名ですが、武士が東国に武士政権(鎌倉幕府)が誕生し暫く後、その武士たちに戦い(承久の乱)を臨んだ豪胆な後鳥羽上皇も、和歌・武芸に秀でていたことは有名ですが、その中でも乗馬・弓術の腕前は超一級であったと言われています。
 以上、ほんの一部の天皇家や公家の乗馬に関する逸話を紹介させて頂きました。牛車ばかり乗り、歌を詠うなど、従来の大人しいイメージとは違う、荒々しい馬に果敢に乗り回す様な人々がいた事がわかります。彼もまた武家と同様に、馬と共に生きた人々なのです。

醸楽庵より   1319号   白井一道

2020-02-05 10:43:09 | 随筆・小説



   徒然草 第144段 栂尾の上人、



原文
 栂尾(とがのを)の上人(しやうにん)、道を過ぎ給ひけるに、河にて馬洗ふ男、「あしあし」と言ひければ、上人立ち止りて、「あな尊や。宿執(しゆくしふ)開発の人かな。阿字阿字(あじあじ)と唱ふるぞや。如何なる人の御馬ぞ。余りに尊く覚ゆるは」と尋ね給ひければ、「府生殿(ふしやうどの)の御馬に候ふ」と答へけり。「こはめでたき事かな。阿字本不生(あじほんふしやう)にこそあンなれ。うれしき結縁をもしつるかな」とて、感涙を拭はれけるとぞ。

現代語訳
 栂尾(とがのを)の明恵上人が道をお歩きになっていると河で馬を洗っている男が「あしあし」と言うのを聞いて立ち止まり、「なんと尊いことだ。善根功徳をお開きになった人かな。阿字阿字と唱えているではないか。いかなる人の馬なのか。あまりにも尊く思われるので」と尋ねたところ、検非違使庁の役人の馬でございます」と答えた。「これはめでたいことだ。阿字本不生(あじほんふしやう)が現れたということだ。嬉しい仏縁を得た」と、感涙にむせた。

 「阿字本不生(あじほんふしやう)」ということ
 白井一道
  「密教の根本の教えで、阿の字はすべての文字の始めであるとみて、これに「本」の義「不生(ふしょう)」の義があるとし、ここから阿字は、一切が不生不滅すなわち空(くう)であるという真理を表わすとして、これを阿字本不生といったもの」。
        ブリタニカ百科事典より
「2500年ほど前、古代ギリシャでのソクラテスの裁判のとき、当時28歳の青年だったプラトンが、その弁明を聞いていました。
「死を恐れるのは、賢ならずして賢人をきどることになる。死とは何か誰も知らないのに、人はそれが最悪であると確知しているかのようにこれを怖れている。私も知らないが、知らないということを知っている」
 ほぼ同じころインドにおいて、お釈迦様がヴィパッサナー・ヨーガ(精神を集中して考えること、最近ではマインドフルネスといわれる)を開拓して徹底的な自己観察を行ないました。そして仏陀(目覚めた人)となって「死ぬ」という苦を解決し「不死」を説きました。それは「自己執着を捨てる」という生き方です」。
「筏(仏教)に乗って、苦しみの此岸から楽の彼岸に渡ったら筏を捨てる」という仏教は仏教自身に執着せず、あらゆる生き方(宗教)を尊重します。「自己執着を捨てる」と聞いただけで、直ぐにそのようには成れません。ヨーガによる追体験(解釈)が必要です。
「追体験が難しい」ことを「秘密」といいます。明治時代に「シークレット」の翻訳語として使われて「隠すこと」を意味するようになりましたが、元来は「ミステリー」に近い言葉でした。
 空海の著作『吽字義』は、「吽」という秘密の一字を解釈した論説です。梵字の「吽」という文字は「ア・ハ・ウ・マ」という4つの部分に分解可能です。今回紹介するのは、「ア」の解釈にある「阿字本不生」です。
 ここで空海は、先に挙げたソクラテスの言葉と似た話を書いています。生死の苦とは「無知な絵師が恐ろしい夜叉を描き、自分でその絵を見て恐怖のあまり卒倒する」ようなものだというのです。
 ヨーガで自己観察を行ない、その知恵の完成を「実の如く自心を知る」といいます。それは、あたかも「ア」という音があらゆる文字の始まりであるように、あらゆる物事の源を観ることなのです。それは「これではない」という「否定」でしか表現できません。
梵語の「ア」は否定の接頭語で「無・不・非」などの意味です。ギリシャ語でも「ア」は否定を意味し、例えば「アトム(切れない)」(日本語では原子と訳された)です。プラトンも自己は「他」であると言い、「他」は「他」自身に対しても他であると表現しています。
 自己執着を捨てた理想の存在、それこそが本来の自己であり「阿字本不生」と表現されます。  たなか・まさひろ

醸楽庵だより   1318号   白井一道

2020-02-04 10:25:51 | 随筆・小説


   徒然草第143段 人の終焉の有様の



原文
 人の終焉の有様のいみじかりし事など、人の語るを聞くに、たゞ、静かにして乱れずと言はば心にくかるべきを、愚かなる人は、あやしく、異なる相を語りつけ、言ひし言葉も振舞も、己れが好む方に誉めなすこそ、その人の日来(ひごろ)の本意(ほんい)にもあらずやと覚ゆれ。
この大事は、権化の人も定むべからず。博学の士も測るべからず。己れ違ふ所なくは、人の見聞くにはよるべからず。


現代語訳
 人の臨終の有様が並々ではないなどと人が語るのを聞き、ただ静かにして乱れることはなかったと云うのなら、立派なことであるということになるのに愚かな人はいい加減に間違った状況を人に語り、臨終の言葉も振る舞いも己が好むように褒めたりする事は無くなった人本来の姿ではないのではなかろうと思われる。
 この臨終の大事は仏の化身になるような人でも必ず立派であるとはかぎらない。博学の人も自分の死がどのようになるかを決めることはできない。自分さえ間違えなければ、人が見聞きすることに気をかけることはない。

  芭蕉の臨終について   白井一道
 病中吟として
「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」
 芭蕉生前最後の句として有名なものである。芭蕉は、元禄7年9月29日夜から下痢がひどくなり、病床に就く。10月5日に、槐本之道〈えのもとしどう〉亭が手狭だったため南久太郎町御堂前の花屋仁右衛門宅離れ座敷に移る。10月8日深更、呑舟に墨を摺らせてこの句を芭蕉は詠んだ。 このような事が『追善之日記』にある。
 其角の『枯尾花』に、「ただ壁をへだてて命運を祈る声の耳に入りけるにや、心細き夢のさめたるはとて、~旅に病で夢は枯野をかけ廻る。また、枯野を廻るゆめ心、ともせばやともうされしが、是さへ妄執ながら、風雅の上に死ん身の道を切に思ふ也、と悔まれし。8日の夜の吟なり」 とある。
元禄時代に生きた農民の平均寿命はおよそ30代前半ぐらいだったのではないかと言われている。芭蕉は農民身分であった。しかし人生の大半を農業に勤しむことなく、生涯を送った。決して豊かな生活を送ったわけではない。29歳になって初めて、伊賀上野から江戸に出て来て、上水道の管理、営繕の職を得て、働き始め、35歳の時に俳諧宗匠として立机している。それから6年間、江戸に棲家を得て、生活しているが、41歳になると住まいを手放し、旅に生きる人生が始まる。それからの10年間が芭蕉の人生である。元禄7年になると51歳になった芭蕉は旅の途中、大阪で病の床に就き、旧暦の10月12日に門人の家で亡くなり、琵琶湖湖畔の膳所、義仲寺に葬られた。
 芭蕉は臨終を迎えても枯れることはなかった。9月25日には、「この道や行く人なしに秋の暮」という実質的には辞世の句のような句を詠む一方、同じ日に「升買うて分別替る月見哉」という句を詠んでいる。浮世に生きる喜びを詠んでいる。さらに9月27日には午前中、病をおして門人園女(そのめ)邸を訪れ、「白菊の目に立て見る塵もなし」と詠んでいる。亭主園女に対する挨拶吟でもある。この句を発句として歌仙を巻く。寒気のしみわたる初冬の朝の引き締まった気分と白い菊の清冽さに芭蕉の園女に対する思いが滲んでいる。園女は大変な美女であったと言われている。
 芭蕉は亡くなるまでお酒が好きで、女性が好きであった。枯れることのない男として芭蕉は亡くなった。

   

醸楽庵だより   1317号   白井一道

2020-02-03 10:45:27 | 随筆・小説



   徒然草第142段 心なしと見ゆる者も



原文
 心なしと見ゆる者も、よき一言はいふものなり。ある荒夷(あらえびす)の恐しげなるが、かたへにあひて、「御子(おこ)はおはすや」と問ひしに、「一人も持ち侍らず」と答へしかば、「さては、もののあはれは知り給はじ。情なき御心にぞものし給ふらんと、いと恐し。子故にこそ、万のあはれは思ひ知らるれ」と言ひたりし、さもありぬべき事なり。恩愛(おんない)の道ならでは、かゝる者の心に、慈悲ありなんや。孝養(けいやう)の心なき者も、子持ちてこそ、親の志は思ひ知るなれ。

現代語訳
 情緒に欠けるなと思う者も、時には良い一言を言うことがある。ある関東の荒武者の恐ろしげな者が仲間と逢って「子供はいるのか」と問い、「一人もいない」と答えると「それだから人の気持ちが分からないのだ。冷たい心の持ち主なのかと思うと、とても恐ろしい。子がいて初めて何事についても情というものが分かってくるものだ」と言っている。さもありそうなことだ。夫婦・親子の情というものが、このような者の心に慈悲というものはあるのだろうか。親の追善供養する心のない者も、子を持って初めて親の心を思い知ることになる。

原文
 世を捨てたる人の、万にするすみなるが、なべて、ほだし多かる人の、万に諂(へつら)ひ、望み深きを見て、無下に思ひくたすは、僻事なり。その人の心に成りて思へば、まことに、かなしからん親のため、妻子のためには、恥をも忘れ、盗みもしつべき事なり。されば、盗人(ぬすびと)を縛(いまし)め、僻事(ひがこと)をのみ罪せんよりは、世の人の饑ゑず、寒からぬやうに、世をば行はまほしきなり。人、恒の産なき時は、恒の心なし。人、窮まりて盗みす。世治(をさま)らずして、凍餒(とうたい)の苦しみあらば、科(とが)の者絶ゆべからず。人を苦しめ、法を犯さしめて、それを罪なはん事、不便(ふびん)のわざなり。

現代語訳
 遁世した人は親兄弟、係累のない人であるが、係累の多い人は何事についてもおもねり、欲が深いのを見て、一概に決めつけることは良くない。その人の気持ちになれば誠に悲しむであろう親のため、妻子のためには恥を忘れ、盗みをもすることもある。だから盗人を戒め、悪事だけを罰するよりは世の人が飢えることなく、寒いことがないような世の中になってもらいたい。人は恒常的な収入がない時には平常心を失う。人は困ったあげくに盗みを犯す。世の中が安定せず、困窮と寒さの苦しみがあれば、罪を犯す者が絶えることはない。人を苦しめ、法を犯すようなことをさせ、その罪を償わせることは不憫(ふびん)なことだ。

原文
 さて、いかゞして人を恵むべきとならば、上の奢り、費す所を止め、民を撫(な)で、農を勧めば、下に利あらん事、疑ひあるべからず。衣食尋常なる上に僻事せん人をぞ、真の盗人とは言ふべき。

現代語訳
 さて、いかにして人々を恵むべきかというと、上の者の奢り、費やすのを止め、民の生活を安定させ、農業に励めば、下の者の生活が豊かになる事間違いなし。衣食に心配がないのに、悪事をする人こそが真の盗人と言うのだ。

 『レ・ミゼラブル』を思い出す  白井一道
 小学生だった頃、リライトされた『少年少女文学全集』の一冊『あゝ無情』を読み、感動した思い出がある。
一切れのパンを盗み、罰を受けたジャン・バルジャンは徒刑場を出場し、行く先々で通行証代わりとなる黄色い身分証明書を提示しなければならない。
 そこには、バルジャンの前科と「この人物は危険」という趣旨の記載があるため、宿屋で宿泊は拒否される、働いても賃金は通常の半分だけ、冷酷な仕打ちを受け、19年間の投獄ですさんだ心は増々すさんでいく。そんなジャン・バルジャンが行き着いた先がミリエル司教館。ジャン・バルジャンはそこで銀の食器を盗む。官憲に捕まったジャン・バルジャンは司教館に連れ戻されるが、そこでミリエル僧正は銀の食器をジャン・バルジャンに与える。ジャン・バルジャンは回心する。この世に悪人はいないというキリスト教精神が表現されている。

醸楽庵だより   1316号   白井一道

2020-02-02 11:34:24 | 随筆・小説



  徒然草 第141段 悲田院尭蓮上人は



原文
 悲田院尭蓮上人(ひでんゐんのげうれんしやうにん)は、俗姓(ぞくしやう)は三浦の某(なにがし)とかや、双(そう)なき武者なり。故郷の人の来りて、物語すとて、「吾妻人(あづもうど)こそ、言ひつる事は頼まるれ、都の人は、ことうけのみよくて、実(まこと)なし」と言ひしを、聖(ひじり)、「それはさこそおぼすらめども、己れは都に久しく住みて、馴れて見侍(みはんべ)るに、人の心劣れりとは思ひ侍(はんべ)らず。なべて、心柔かに、情ある故に、人の言ふほどの事、けやけく否(いな)び難(がた)くて、万(よろづ)え言ひ放(はな)たず、心弱くことうけしつ。偽りせんとは思はねど、乏しく、叶はぬ人のみあれば、自ら、本意(ほんい)通らぬ事多かるべし。吾妻人は、我が方なれど、げには、心の色なく、情(なさけ)おくれ、偏(ひとへ)にすぐよかなるものなれば、始めより否と言ひて止みぬ。賑(にぎ)はひ、豊かなれば、人には頼まるゝぞかし」とことわられ侍りしこそ、この聖、声うち歪み、荒々しくて、聖教(しやうげう)の細やかなる理(ことわり)いと辨(わきま)へずもやと思ひしに、この一言の後、心にくゝ成りて、多かる中に寺をも住持せらるゝは、かく柔(やはら)ぎたる所ありて、その益(やく)もあるにこそと覚え侍りし。

現代語訳
 悲田院尭蓮上人(ひでんゐんのげうれんしやうにん)は、俗人の時の姓は三浦何某といい、ならぶほどのない武者であった。故郷の人が訪ねて来て話したことに「関東人の話していることは信頼できるが、都の人の話していることは立派だが、当てにならない」と話したことに上人は「確かにそのようなことはあるだろうけれども、私は都に長い間住みなれてみると都の人の心が劣っているようには思わない。すべてに柔軟で情がこもっているから、人様のおっしゃることにはっきり否定し難いためであり、事情をすべて話すことなく、優しさのあまり受け入れてしまう。偽りを言うつもりはなく、貧しく生活が思うようにならない人が多いので、自らの思い通にならないことが多いということだろう。関東人は私と同類の人であるけれども、実は心が汚く、人情味がなく、ただ嫌なものは嫌だと初めから嫌だと言ってしまう。関東人は富み栄え裕福であるから人に頼まれることもあるのだろう」と話されたがこの僧の言葉には訛りがあり、荒々しく、仏の教えの細やかな理屈を充分わきまえていないという思いがあったが、この一言の後、上人の魅力が現れ、とにかく僧侶が多い中、寺の住職になるのは、人々への優しさがあり、それなりの徳を備えておられると思われた。


 文明化は人間性を悪くする   白井一道
 本田勝一の著書に『極限の民族・三部作』がある。『カナダエスキモー』、『ニューギニア高地人』、『アラビア遊牧民』である。
現在、「エスキモー」という言葉は使用されていたないようだが、今でも書籍の題名は『カナダエスキモー』になっているようだ。
この三部作を読み、今も強く印象に残っていることの一つが「カナダエスキモー」や「ニューギニア高地人」と比べて「アラビア遊牧民」はずる賢いと本田勝一が述べていたことである。アラビア遊牧民は交易の民としての数百年の歴史を持つ民である。この長い交易の民としての歴史がアラビア遊牧民をずる賢くしたということである。
 アラビア遊牧民に対して「カナダエスキモー」や「ニューギニア高地人」はほぼ自給自足の経済社会に生きる人々であり、異なる言語を話す人々との交流、交易をすることなく生活している人々である。それらの人々は嘘をつく、人を騙すことをしない。純朴で正直、親切である。これらの人々に比べてアラビア遊牧民は冷淡であり、えげつなさがあり、嘘があり、騙されることもある。
 文明化が進み、異なった言語を話す人々との交易が活発に行われるようになると人間が擦れて来る。半面人間性が磨かれる一方で人間性が失わて行く傾向が出てくる。このようなことが昔の日本にもすでに表れていたということを『徒然草・141段』を読んで感じた。大坂商人(あきんど)という言葉がある。この言葉の中には確かに「がめつさ」のような意味が込められているように感じる。粘り強さ、強引さ、決して諦めない気持ちのようなものを持つのが大坂商人と言われた人々なのではないかと思う。

醸楽庵だより   1315号   白井一道

2020-02-01 10:52:24 | 随筆・小説



 徒然草 第140段 身死して財(たから)残る事は



原文
 身死して財(たから)残る事は、智者(ちしゃ)のせざる処なり。よからぬ物蓄へ置きたるもつたなく、よき物は、心を止めけんとはかなし。こちたく多かる、まして口惜し。「我こそ得め」など言ふ者どもありて、跡に争ひたる、様あし。後は誰にと志す物あらば、生けらんうちにぞ譲るべき。  
朝夕なくて叶はざらん物こそあらめ、その外は、何も持たでぞあらまほしき。

現代語訳
 死後財産を残す事は、見識を持った者がすることではない。つまらない物を蓄えていることは見苦しく、良かった物は執着した物として空しい。財産が多く残されたら更につまらない。「私がもらっておこう」などと言う者がいて、後に争うことになり、見苦しい。死んだ後に誰かに残す物があるのなら、生きているうちに譲った方が良かろう。
 朝晩、なくてはならないものがあれば、その他は何もなくともよいではないか。


   「無一物ということ」   白井一道
禅宗には「本来無一物(ほんらいむいちもつ)」という思想がある。
自分のものというものは一つもないという考えのようだ。この考えは人間存在の在り方を問う根本的な問いのようだ。人間には誰にも親がいる。人間は親を持って生まれてくる。親を持つことによってさまざまな制約を受ける。親もまた子を持つことによっていろいろな制約を持つ。この制約が執着というものを生む。人間は結婚し、家族を形成し、家を持つ。人間は結婚し、男は女に制約され、執着する。女は男に制約され、執着する。人間は家族を形成し、執着して生きていく。そこに幸せを見出して生きていく。人間は自らの意志によって結婚し、家族を形成し、制約され、執着することによって生きている。人間は一人では生きていくことができない。人は人と助け合って生きている。助け合うことなしに人間は生きていくことができない。農民がいるから食べ物を得ることができる。漁業者がいるから魚を食べる事ができる。山林従事者がいるから家を建てることができる。人間生活が成り立つためには人間同士が協力し、助け合う必要がある。にもかかわらず人間は無一物だと禅宗は教えている。
無一物に生きるために出家する。在家にあっては、無一物に生きることは不可能である。出家をし、妻帯をしない。家族を持たない。托鉢をして生きる最小限の食べ物をいただく。僧侶は自分のものを一切持つことなく生きていく。願いは衆生済度。このように生きた僧侶が実際に存在した。例えば、円空である。円空は生涯無一物であった。無一物に生きた。この世に生きる人々の幸せを願い、仏を造り続け、祈り続けた。老いて死を自覚すると自ら墓穴に入り、息絶えた。即身成仏への道を選んだ。