醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1318号   白井一道

2020-02-04 10:25:51 | 随筆・小説


   徒然草第143段 人の終焉の有様の



原文
 人の終焉の有様のいみじかりし事など、人の語るを聞くに、たゞ、静かにして乱れずと言はば心にくかるべきを、愚かなる人は、あやしく、異なる相を語りつけ、言ひし言葉も振舞も、己れが好む方に誉めなすこそ、その人の日来(ひごろ)の本意(ほんい)にもあらずやと覚ゆれ。
この大事は、権化の人も定むべからず。博学の士も測るべからず。己れ違ふ所なくは、人の見聞くにはよるべからず。


現代語訳
 人の臨終の有様が並々ではないなどと人が語るのを聞き、ただ静かにして乱れることはなかったと云うのなら、立派なことであるということになるのに愚かな人はいい加減に間違った状況を人に語り、臨終の言葉も振る舞いも己が好むように褒めたりする事は無くなった人本来の姿ではないのではなかろうと思われる。
 この臨終の大事は仏の化身になるような人でも必ず立派であるとはかぎらない。博学の人も自分の死がどのようになるかを決めることはできない。自分さえ間違えなければ、人が見聞きすることに気をかけることはない。

  芭蕉の臨終について   白井一道
 病中吟として
「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」
 芭蕉生前最後の句として有名なものである。芭蕉は、元禄7年9月29日夜から下痢がひどくなり、病床に就く。10月5日に、槐本之道〈えのもとしどう〉亭が手狭だったため南久太郎町御堂前の花屋仁右衛門宅離れ座敷に移る。10月8日深更、呑舟に墨を摺らせてこの句を芭蕉は詠んだ。 このような事が『追善之日記』にある。
 其角の『枯尾花』に、「ただ壁をへだてて命運を祈る声の耳に入りけるにや、心細き夢のさめたるはとて、~旅に病で夢は枯野をかけ廻る。また、枯野を廻るゆめ心、ともせばやともうされしが、是さへ妄執ながら、風雅の上に死ん身の道を切に思ふ也、と悔まれし。8日の夜の吟なり」 とある。
元禄時代に生きた農民の平均寿命はおよそ30代前半ぐらいだったのではないかと言われている。芭蕉は農民身分であった。しかし人生の大半を農業に勤しむことなく、生涯を送った。決して豊かな生活を送ったわけではない。29歳になって初めて、伊賀上野から江戸に出て来て、上水道の管理、営繕の職を得て、働き始め、35歳の時に俳諧宗匠として立机している。それから6年間、江戸に棲家を得て、生活しているが、41歳になると住まいを手放し、旅に生きる人生が始まる。それからの10年間が芭蕉の人生である。元禄7年になると51歳になった芭蕉は旅の途中、大阪で病の床に就き、旧暦の10月12日に門人の家で亡くなり、琵琶湖湖畔の膳所、義仲寺に葬られた。
 芭蕉は臨終を迎えても枯れることはなかった。9月25日には、「この道や行く人なしに秋の暮」という実質的には辞世の句のような句を詠む一方、同じ日に「升買うて分別替る月見哉」という句を詠んでいる。浮世に生きる喜びを詠んでいる。さらに9月27日には午前中、病をおして門人園女(そのめ)邸を訪れ、「白菊の目に立て見る塵もなし」と詠んでいる。亭主園女に対する挨拶吟でもある。この句を発句として歌仙を巻く。寒気のしみわたる初冬の朝の引き締まった気分と白い菊の清冽さに芭蕉の園女に対する思いが滲んでいる。園女は大変な美女であったと言われている。
 芭蕉は亡くなるまでお酒が好きで、女性が好きであった。枯れることのない男として芭蕉は亡くなった。