醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1326号   白井一道   

2020-02-12 12:20:27 | 随筆・小説



   徒然草151段 或人の云はく、



原文
 或人の云はく、年五十になるまで上手に至らざらん芸をば捨つべきなり。励み習ふべき行末もなし。老人の事をば、人もえ笑はず。衆に交りたるも、あいなく、見ぐるし。大方、万のしわざは止めて、暇あるこそ、めやすく、あらまほしけれ。世俗の事に携はりて生涯を暮すは、下愚の人なり。ゆかしく覚えん事は、学び訊くとも、その趣を知りなば、おぼつかなからずして止むべし。もとより、望むことなくして止まんは、第一の事なり。

現代語訳
 或る人の言っていることによると、年50になるまでに上手になることのない芸は止めるべきだ。励み習ってみても行く末はない。老人のことだと言って人が笑えるようなことではない。人々との付き合いにおいても面白くないし、見苦しい。大方、世俗の仕事はやめて、暇であることが目にもよろしく、また望ましい。世俗の事に関わり合って生涯を暮らすのは愚かな人だ。

原文
 未だ堅固かたほなるより、上手の中に交りて、毀(そし)り笑はるゝにも恥ぢず、つれなく過ぎて嗜(たしな)む人、天性、その骨(こつ)なけれども、道になづまず、濫(みだ)りにせずして、年を送れば、堪能(かんのう)の嗜まざるよりは、終(つい)に上手の位に至り、徳たけ、人に許されて、双なき名を得る事なり。

現代語訳
 未だ芸が未熟なうちから上手な人の中に入り、厳しいことを言われ、笑われることがあっても恥じることなく、相手にされないことが続いても努力できる人、生まれながらの芸能の才能がなくとも、勝手な事をせずに、荒れたことをしないで、年月を経れば、器用で上手な人が稽古に打ち込まない人より最終的には上手になり、徳も得て人に受け入れられ、並ぶ者のない名を得ることになるだろう。

原文
 天下のものの上手といへども、始めは、不堪(ふかん)の聞えもあり、無下(むげ)の瑕瑾(かきん)もありき。されども、その人、道の掟正しく、これを重くして、放埒せざれば、世の博士にて、万人の師となる事、諸道変るべからず。

現代語訳
 天下に名だたる上手と言えども、初めは下手だったという噂もあり、ひど過ぎる恥辱もあったのだ。しかれども、その人は芸道の掟を正しく守り、この事を重視し、放埓になることなく、世に知られた名人になり、万人の師となる事、あらゆる習い事の道に変わることはない。

 ひたすらなる努力は名人への道か   白井一道
 将棋の15歳少年プロ棋士藤井聡太四段が現役最高のプロ棋士羽生名人に公式戦で戦い、勝利したことがある。それから3年、17歳になった藤井聡太4段は7段になった。最年少プロ棋士藤井聡太7段は順位戦C級1組9回戦で高野秀行6段と対戦した。高野秀行6段は47歳のベテランである。プロ棋士になって20年の経験を持つ。プロ棋士になってまだ間もない藤井聡太7段と対戦するに当たって、角変り腰掛け銀戦法を高野6段は採用した。藤井聡太7段の得意戦法の一つのようだ。藤井7段の得意戦法で戦う意気込みで受けてみようと考えたのかもしれない。高野6段は今までの藤井7段のすべての棋譜を調べ、対戦の戦略を練って対戦に挑んだようだ。一手一手に思いを込め、研究の成果を表現すべく、丁寧に指し進めた。がどうしたことか、研究の成果が何の役にも立たないことが中盤以降に出現したのだ。今までにない盤面が出現したのだ。この盤面を打開するにはこの対戦中に解決しなければならない。将棋の対戦というものはこういうものなのた。どんなに研究していても研究し尽くすことができないのだ。これが将棋というものなのだ。将棋の指し手というものは無限なのだ。甘い一手が命を落とすことになるのだ。最善の正しい一手だと思った指し手が咎められてしまう。指した後になって分かってももう遅い。徐々に形勢は傾き、徐々に敗戦の色が濃くなっていくのが分かって来る。どうしてこうなってしまうのか、将棋の神様から見放されていく自分が盤面から分かって来る。将棋を指し続ける気持ちが少しづつ萎えて来る。ますます落ち込んでいく自分の気持ちをもう一人の自分が見つめている。これ以上、将棋を指しても無意味だ。自分の負を自分に納得させる苦しい時間に耐えているのだ。これ以上将棋を指し進めても無惨だ。威儀を正そう。静かに将棋の駒を握り、その駒を盤面の上に置き、頭を下げ、負けを受け入れた。藤井7段は昇級を果たした。