醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1320号   白井一道

2020-02-06 11:52:02 | 随筆・小説



   徒然草第145段  御随身秦重躬(みずゐじんはたのしげみ)



原文
 御随身秦重躬(みずゐじんはだのしげみ)、北面の下野入道信願(しもつけのにゆふどうしんぐわん)を、「落馬の相ある人なり。よくよく慎み給へ」と言ひけるを、いと真(まこと)しからず思ひけるに、信願、馬より落ちて死ににけり。道に長じぬる一言、神の如しと人思へり。
 さて、「如何なる相ぞ」と人の問ひければ、「極めて桃尻にして、沛艾(はいがい)の馬を好みしかば、この相を負せ侍りき。何時かは申し誤りたる」とぞ言ひける。

現代語訳
 警護役秦重躬(はだのしげみ)は、上皇の御所の警護役の下野入道信願(しもつけのにゆふどうしんぐわん)を「落馬の相がある。よくよく気を付けたまえ」と言ったことをとても本当の事とは思えなかったのに、信願は馬より落ちて亡くなった。仏教の教えに長じた一言、神様のようだと人は思った。
 さて、「如何なる相が出ているか」と、人が問うと「極めて乗馬には不向きなお尻をしていて、躍り上がる癖のある馬を好んでいたので、落馬の相があると申した。いつかは申し誤ることがある」と言っている。

 落馬が死因 ブログ「酪農と歴史のお話し」から
 「落馬が死因」という日本の偉人が3名いる。因みに、この3名のお歴々のご職業は、時代は違えども、「武士」であり、その内の1人は、日本人なら誰でもが知る、一時代の構築者であると当時に、学校の歴史の教科書に必ず載っている程の有名人ですが、寧ろテレビドラマなど創作の世界では、彼自身からしてみれば、極めて不名誉ですが、悪役として描かれる事でも有名な偉人であります。兎に角にも、武士でありながら、はからずも落馬事故死してしまった上記の3人物については、少し後述させて頂きます。
 世間一般のイメージでは、「馬は武士のみが騎乗していた」と思われる事がありますが、実は、小難しい歌を詠んだり、牛車ばかり乗って、ゆっくりと都を練り歩くイメージが強い公家(貴族)も、馬に乗っており、彼らの中にも、馬を愛し、現在で言う「名騎手」と呼ばれる人物も存在しました。
 他の記事でも何度か紹介させて頂いた「流鏑馬(騎射術)」や「鷹狩(狩猟)」、騎手の乗馬技術や作法を競う「競馬(きそいうま・駒競(こまくらべ)とも言う)」など武術は、武士のみが行っていたと思われがちですが、先述の武術は全て、朝廷、それに連なる高級貴族(摂関家など)が行っていた宮中イベントの一種でした。因みに、上記の競馬では、貴族たちが未去勢・未調教の荒々しい馬を乗りこなし、足の速さを競ったりしていたと言うので、脆弱なイメージを持たれがちの貴族の皆様も、中々勇敢でありますね。
 摂関政治の代表格で、歴史の教科書に載るほど有名な貴族・藤原道長も、国政の中枢に就く前の若年の頃より、弓術や馬術を好み、私的に競馬をよく行っていたと伝わり、絶大な権勢を握った後は、自邸に天皇に行幸を賜って、競馬を開催し、自己の権威アピールをしています。
 道長の時代を下り、武家の源平が歴史の表舞台に台頭し始めた平安末期の公家・藤原忠隆という器量人も、馬術の名人として、当時より有名でした。彼の四男である信頼と対立関係となった信西(藤原通憲)も、忠隆の優れた馬術や器量を自著内で賞賛しています。
 武士と貴族の闘争期である南北朝争乱期(室町前期)でも、南朝(後醍醐天皇)側の中心人物である、戦う貴族(国司)の北畠親房・顕家親子は有名ですが、特に息子の顕家は、若年ながら後醍醐天皇から請われて、古代から馬の産地として有名な奥州(東北)地方を統括する鎮守府将軍に任命され、足利尊氏(北朝のリーダー・室町幕府初代将軍)が南朝に叛乱を起こした際は、強豪の奥州人馬を率いて、尊氏軍を撃破しました。この頃の顕家軍は、半月で、約600kmを超える道程(東北から滋賀)を行軍するという、神懸り的な記録を達成していますが、これには優れた奥州の軍馬の力が背景にあったに違いありません。また顕家自身も、先述の強行軍を行える程の馬術を持っていた事を窺わせます。
 織田信長が台頭した戦国期(室町後期)の馬術に通暁した貴族には、傑物・近衛前久います。彼は、公家の最高職である関白・太政大臣を歴任し、有職故実・和歌・書道などに通じる一流の教養人であると同時に、公家の権威をバックボーンとした名外交官としても活躍した。信長や上杉謙信、徳川家康など当時の戦国英傑と親交を持ち、特に同年代の信長とは、馬術・鷹狩りという共通の趣味を通して、仲が良かったと言われています。
 乗馬がお得意であったのは、貴族だけには留まりません。日本のシンボルでもある歴代の天皇家にも名馬術家はおられました。
近代では、明治天皇・昭和天皇の両陛下も旧日本陸海軍を統括する大元帥として、特に乗馬の修練を積まれ、御腕前は優れておられた事も有名ですが、武士が東国に武士政権(鎌倉幕府)が誕生し暫く後、その武士たちに戦い(承久の乱)を臨んだ豪胆な後鳥羽上皇も、和歌・武芸に秀でていたことは有名ですが、その中でも乗馬・弓術の腕前は超一級であったと言われています。
 以上、ほんの一部の天皇家や公家の乗馬に関する逸話を紹介させて頂きました。牛車ばかり乗り、歌を詠うなど、従来の大人しいイメージとは違う、荒々しい馬に果敢に乗り回す様な人々がいた事がわかります。彼もまた武家と同様に、馬と共に生きた人々なのです。