醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1329号   白井一道

2020-02-14 12:25:38 | 随筆・小説



   徒然草第154段 この人、東寺の門に



原文
 この人、東寺の門に雨宿りせられたりけるに、かたは者どもの集りゐたるが、手も足も捩(ね)ぢ歪(ゆが)み、うち反りて、いづくも不具に異様(ことやう)なるを見て、とりどりに類(たぐひ)なき曲物(くせもの)なり、尤(もつと)も愛するに足れりと思ひて、目守(まも)り給ひけるほどに、やがてその興尽きて、見にくゝ、いぶせく覚えければ、たゞ素直に珍らしからぬ物には如かずと思ひて、帰りて後、この間、植木を好みて、異様(ことやう)に曲折あるを求めて、目を喜ばしめつるは、かのかたはを愛するなりけりと、興なく覚えければ、鉢に植ゑられける木ども、皆掘り捨てられにけり。
さもありぬべき事なり。

現代語訳
 この人が東寺の門に雨宿りをさせていただいた折、かた者どもが集まっていた。手も足もねじれ歪み、うち反りてどこを見ても不具合で異様な状況を見て、それぞれが類稀な曲者である。もっとも愛するに充分だと思い、見守っていると、やがてその興味も失せて、醜く不快に思われたので、ただそのまま珍しくもない物にも及ばないと思って、家に帰った後、しばらくの間、植木が好きになり、異様に曲がりくねったものを探し求めて、目を楽しませることは、かのかたわ者を愛することになると、面白くないと思ったので、鉢に植えられている木を皆掘り上げて捨ててしまった。
 さもありそうなことだ。

醸楽庵だより   1328号   白井一道

2020-02-14 12:25:38 | 随筆・小説



   徒然草第153段 為兼大納言入道



原文
 為兼大納言入道(ためかねのだいなごんにふどう)、召し捕(と)られて、武士どもうち囲みて、六波羅(ろくはら)へ率(ゐ)て行(ゆ)きければ、資朝卿(すけとものきやう)、一条わたりにてこれを見て、「あな羨まし。世にあらん思い出、かくこそあらまほしけれ」とぞ言はれける。

現代語訳
 為兼大納言入道(ためかねのだいなごんにふどう)は、召し捕らえられて、武士どもが囲んで六波羅(ろくはら)へ引き連れて行くのを資朝卿(すけとものきやう)が一条大路の辺りで見て、「なんと羨ましい。世に生きた証はこのようにあってほしいものだ」と言われたという。

 兼好法師は何を表現したのか、分からない。
                 白井一道
 為兼大納言入道(ためかねのだいなごんにふどう)は鎌倉幕府側の武士たちに召し捕らえられ、六波羅探題に引っ立てられていく姿を見た日野資朝卿はそこに人間の生きた証を発見した。
 時代状況が分からなければ、兼好法師が日野資朝卿の言葉に共感した理由が伝わらない。兼好法師は古代天皇制権力が武家政権に奪われていく時代に生きていた。六波羅探題が京都に設置されるようになったのは、1221年に起きた「承久の乱」後のことである。「承久の乱」とは、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対し討伐の兵を挙げた戦争である。結果的に上皇は敗れ、隠岐島に配流となる。
「六波羅探題」は、朝廷が二度とこのような乱を起こさぬよう監視する目的で、鎌倉幕府により京都に置かれた機関である。それまでの「京都守護」を廃止し、その代わりに京都六波羅の北と南に設置された。
兼好法師と後醍醐天皇は同時代を生きていた。後醍醐天皇は天皇による政治体制復活を図ったが失敗している。古代的な天皇権力の復活をもくろむ勢力が時代の大勢になぎ倒されていく時代に生きたのが後醍醐天皇であり、吉田兼好法師であった。そうした仲間の一人が日野資朝卿である。為兼大納言入道(ためかねのだいなごんにふどう)もまたそのような者の一人であった。