醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だり   1429号   白井一道

2020-06-04 11:02:00 | 随筆・小説



  方丈記 4



 又治承四年水無月の頃、にはかに都うつり侍りき。いと思ひの外なりし事なり。おほかたこの京のはじめを聞けば、嵯峨の天皇の御時、都とさだまりにけるより後、既に四百歳を經たり。ことなるゆゑなくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人、やすからず憂(うれ)へあへる、実(げ)にことわりにも過ぎたり。されどとかくいふかひなくて、みかどよりはじめ奉りて、大臣公卿ことごとくうつろひ給ひぬ。世に仕(つか)ふるほどの人、誰かひとりふるさとに殘りをらむ。官位(つかさくらゐ)に思ひをかけ、主君のかげを頼むほどの人は、一日なりとも、とくうつらむと励(はげ)み、時を失ひ世にあまされて、期(ご)する所なき者は、憂へながらとまりをり。軒を爭ひし人のすまひ、日を經つゝあれ行く。家はこぼたれて淀川に浮び、地は目の前に畠となる。人の心皆あらたまりて、たゞ馬鞍をのみ重くす。牛車を用とする人なし。西南海の所領をのみ願ひ、東北國の庄園をば好まず。

現代語訳
 1180年6月2日、突然遷都があった。とても意外なことである。そもそもこの京の都の始まりを聞くと、嵯峨天皇の御時、都として定まってからと言うもの、既に四〇〇年を経ている。これといった理由もなく、たやすく改めるべきものでもないので、この事を世間の人が不安に思いブツブツ言い合ったのは実に当然なことであった。しかしながら何を言ってもしかたなく、陛下を初め移られたので、大臣公卿皆悉く移られた。朝廷に仕えるほどの人の中で誰か一人でも京に残る人はいないのだろうか。自分の官位を思い、主君からの恩顧を願う人は一日も早く移ろうと励み、時勢に後れ世間から忘れられ、将来に望みを持たない者は憂いながら京に留まっている。軒を競った人の住まいは日がたつにつれ荒れて行く。家を解体した木材は淀川に流し、宅地は見る間に畑になる。人心は皆改まり、ただ馬の鞍に荷物を積む。牛車を用いる人はいない。紀伊・淡路・四国の所領を望み、東北の荘園を望む者はいない。

 平清盛と福原遷都   白井一道
 清盛が遷都によってめざしたものは、古い制法の束縛からの解放であった。制法とは、貴族一般に染みついている古い慣習や考え方のことである。京都では何をするにも旧来の慣例や偏見が大きな障害になる。平安京は法皇をはじめとする貴族と寺社勢力が団結して、新しい独裁者である平氏を閉め出すための制法の砦であった。新しい政治を始めるには、制法を生み出し、院政の基盤となる古代的貴族社会そのものを否定する必要があったのである。つまり、平安京を捨てることが前年のクーデターの総仕上げであり、それによって平家のめざす真の意味での武家政権の樹立が成るのである。
 しかし、この福原遷都は半年で終わりを告げる。周囲の貴族たちばかりではなく、宗盛をはじめ一門の多くが、京都への帰還を希望していたのである。特に宗盛とは口論になるほどであった。一門のうち還都に反対したのは平大納言時忠一人だけだったという。またちょうどこの頃、干ばつと疫病の難が人々を襲った。七月下旬には九条兼実や摂政基通など多くの人が病気になり、特に高倉上皇の病気は重かった。さらに延暦寺の衆徒が、遷都を止めなければ山城・近江を占領するとまで言い出したのである。さすがの清盛も、還都を認めざるを得ない状況になっていた。こうして平家の威信は地に墜ち、武士の平家離れは一挙に進み、比叡山も源氏に与力するようになった。また、公卿の間でも後白河法皇の院政を復活させようという意見がでるなど、清盛のクーデターを真っ向から非難する姿勢も見えだした。
 結局、「平家最大の悪行」といわれる福原遷都は失敗に終わった。しかし、一体これはだれにとっての“悪行”だったのだろうか。晩年の清盛が尽力した政策が公家政権のためではなく、あくまで平家政権の存続という利己的な理由によるところが“悪”だというのなら、それも間違いではない。たしかに公家にとって平家の政策の数々は“悪”である。中でも福原遷都は伝統的な公家政治を否定し、新たな軍事独裁政権の樹立を目指すものだったからだ。一般に、平家が源氏に負けたのは、平家が藤原氏のまねをして貴族化し柔弱になったためだという捉え方が浸透しているが、必ずしもそうではないということがこの「福原遷都」からわかる。遷都こそ、武家政権樹立に対する清盛の熱意の現れであり、清盛が天皇の外祖父になったことだけで満足していたのではないことがわかる。手段と目的を取り違える清盛ではなかった。 「平家資料館」より