方丈記 3
原文
また治承四年卯月廿九日のころ、中の御門京極のほどより、大なるつじかぜ起りて、六條わたりまで、いかめしく吹きけること侍りき。三四町をかけて吹きまくるに、その中にこもれる家ども、大なるも小さきも一つとして破れざるはなし。さながら平に倒れたるもあり。桁(けた)、柱(はしら)ばかり殘れるもあり。又門(かど)を吹き放ちて、四五町が外(ほか)に置き、又垣を吹き拂ひて、隣と一つになせり。いはむや家の内のたから、數をつくして空にあがり、檜皮(ひはだ)、葺板(ふきいた)のたぐひ、冬の木の葉の風に亂るゝがごとし。塵を煙のごとく吹き立てたれば、すべて目も見えず。おびたゞしくなりどよむ音に、物いふ聲も聞えず。かの地獄の業風なりとも、かばかりにとぞ覺ゆる。家の損亡するのみならず、これをとり繕ふ間に、身をそこなひて、片輪(かたは)づけるもの數を知らず。この風、未(ひつじ)のかたに移り行きて、多くの人のなげきをなせり。辻風(つじかぜ)はつねに吹くものなれど、かゝることやはある。たゞごとにあらず、さるべき物のさとしかなとぞ疑ひ侍りし。
現代語訳
また治承四年四月二九日の頃、中の御門京極の辺りから大きな辻風が起り、六条付近まで強く吹いたことがある。三、四町通り抜け吹いたのでその通りにある家々は大きな家も小さな家も一つとして壊れなかった家はない。すべて家が平らに倒れた状態だった。桁や柱だけが倒れている家があった。また門を四、五町先に吹き飛ばし、また垣が吹き払われて隣といくっ付いてしまった。言うまでもなく家財などすべての物が舞い上がり、檜皮や葺板の類まで冬の木の葉が風に乱れ飛ぶようだった。塵を煙のように吹き立てるならすべての物が見えなくなる。おびただしく鳴りたてる音に物をいう声も聞こえない。かの地獄の豪風であるかとこのように思った次第だ。家が損壊、無くなるだけでなく、これを繕っている間に身を傷つけ、手足を失う者が数知らず出た。この風は未の方角に吹き抜けて多くの人を困らせた。辻風は常に吹くものではあるが、このような事もある。ただ事ではなく、神仏のお告げかと疑ったことである。
毛沢東の大飢饉 フランク・ディケーター著 大躍進の失敗による悲劇抉り出す
「一九五八年から六二年にかけて、中国は地獄へと落ちていった」で始まる本書は、大飢饉(ききん)の中の中国の悲劇を余すところなく抉(えぐ)り出す。文中の人肉食カニバリズムに悲劇が凝集されている。
タブーではなくなったのだろう、最近では中国の有力な研究者も大躍進による「非正常な死」について堂々と発言し出した。リベラルな経済学者、茅于軾(北京天則経済研究所)は、自分のブログで毛沢東の誤りを徹底的に批判、1959~60年の飢饉による人口損耗は出生減が1624万人、餓死者が3635万人だと暴露した。茅はまた、反革命鎮圧70万人、三反五反運動の犠牲者200万人弱という毛沢東の「政治的殺人」を摘発する。
「(4年間で)4500万人が本来避けられたはずの死を遂げた」というのが本書の結論だが、著者が各地の公文書館で丹念に集めた資料は、趙紫陽総書記のブレインだった陳一諮などの作業グループの報告書が信頼に足ることを示しているという。陳は89年の天安門事件で亡命、ジャズパー・ベッカーは陳へのインタビューを使って『餓鬼(ハングリー・ゴースト)』(96年)を書いた。
大躍進失敗の初歩的な総括をした62年1月の中央工作会議(七千人大会)で劉少奇国家主席は「三分の天災、七分の人災」と表現して大躍進を批判し、毛沢東は、「中央が犯した誤りはすべからく直接的には私の責任に帰する。間接的にも私に責任のいったんがある」と、生涯を通じてただ一度、自己批判した。これまで現代史最大の悲劇である大飢饉を描いた本は少なくない。だが本書が類書と決定的に違うのは、各地の公文書館にある公的文書をいま可能な限り使い切っていること、毛沢東を文化大革命に追い込んだ心の闇に迫っていることだろう。毛の猜疑(さいぎ)心の底には、劉少奇こそ、独裁者スターリンを引きずり下ろしたフルシチョフのように、自分亡き後自分の罪状の数々を糾弾する秘密演説をするにちがいないとの暗い思い込みがあった、との分析には説得力がある。大飢饉は文革の序曲だったのである。(早稲田大学名誉教授 毛里和子)
[日本経済新聞朝刊2011年10月2日付]より