醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1447号   白井一道

2020-06-23 12:20:30 | 随筆・小説


   
   方丈記 15



原文
  おほかた、この所に住みはじめし時は、あからさまと思ひしかども、今すでに五年を経たり。仮のいほりも、やゝふるさととなりて、軒に朽葉ふかく、土居に苔むせり。おのづから、ことの便りに都を聞けば、この山にこもり居てのち、やむごとなき人のかくれ給へるもあまた聞こゆ。まして、その数ならぬたぐひ、尽くしてこれを知るべからず。たびたび炎上にほろびたる家、またいくそばくぞ。たゞ仮りのいほりのみ、のどけくしておそれなし。ほどせばしといへども、夜臥す床あり、昼居る座あり。一身をやどすに不足なし。かむなは小さき貝を好む。これ事しれるによりてなり。みさごは荒磯に居る。すなはち、人をおそるゝがゆゑなり。われまたかくのごとし。事をしり、世をしれれば、願はず、わしらず、たゞしづかなるを望とし、うれへ無きをたのしみとす。惣て、世の人のすみかをつくるならひ、必ずしも、事のためにせず。或は妻子・眷属の為につくり、或は親昵(しんぢつ)・朋友の為につくる。或は主君・師匠、および財宝・牛馬の為にさへ、これをつくる。
 われ、今、身の為にむすべり。人の為につくらず。ゆゑいかんとなれば、今の世のならひ、この身のありさま、ともなふべき人もなく、たのむべき奴もなし。縦、ひろくつくれりとも、誰を宿し、誰を据ゑん。

現代語訳
 おおよそ、ここに住み始めたころは、ほんの少しの間と思っていたけれども、今すでに五年もたってしまった。仮の庵もやや住み慣れた住まいになり、軒には落ち葉が降り積り、土台には苔が生えてきた。何気に風の便りに都のことを聞くと、この山に籠って後に高貴な方が亡くなられたという。なおのこと、数にも入らぬ方は数えることもできないほどだ。度々の火事で亡びた家はまたどのくらいになるものかわからいほどだ。ただ仮の庵のみ長閑に暮らし心配がない。確かに狭い庵ではあるが夜休む床もあり、昼いる場所もある。私一人が暮らすのに不足はない。やどかりは小さい貝を好む。これは危険なことがある事を知っているからだ。ミサゴは荒磯にいる。これは人が恐ろしいからなのだ。私もまた同じことだ。恐ろしいことが起きることを知り、世の中を知るなら、大きな家など願うことはないし、あくせくすることもないし、ただ静かに暮らすことを望み、愁うことのないことを楽しみとしている。すべて世の人の住まいを作る慣習は必ずしも恐ろしいことを予定してはいない。或いは妻子・従僕のためにつくり、或いは親しい人や友人のために造る。或いは主君や師匠、および財宝・牛馬にさえ、宿を造る。
 私も今自分のために庵を造った。他人のために造ることはない。どうしてかといえば、今の世の習い、この我が身の有様は一緒に住む人もなく、助けてくれる人もない。ただ広く造ったとしても誰を宿し、誰を据えようと言うのか。


 アッシジの聖フランチェスコ  白井一道
 
 1210年、早春のある日のことである。中世ローマ法王権の歴史にかつてない権勢の一時代を画した法王イノセント3世は、ラテラノ宮の奥深い一室で、みなれぬ一人の訪問者と話し合っていた。この訪問者は、やせぎすの中背、やや中高の細面、平たく低い前額の下には一重の黒目がのぞき、鼻と唇はうすく、耳は小さくとがり、頭髪もひげもうすい。変哲がないというより、むしろ貧相なこの訪問者を特徴づけていたのは、しかし、そのやわらかな物腰と、歌うようなこころよい声音であった。だが、その風態は少なからず変わっている。長い灰色の隠修士風のマントは、腰のあたりで荒縄でしばられており、裾からとびだしている足は裸足であった。
                                            堀米庸三『正統と異端』より
 
 フランチェスコは1182年、中部イタリア、アッシジで、富裕な織物商人の子として生まれた。しかし不肖の子で、南イタリアのおもむき、ドイツの神聖ローマ帝国を二分したホーエンシュタウフェン家とゲルフ家の戦争に参加。捕虜になり、熱病にかかり、肉体の苦痛から回心を経験、20歳で修道士になった。アッシジの近郊で祈祷と廃寺の修復、癩患者の看病を続けるうち、「主の家」を再建せよという神の声を聞き、マタイによる福音書にある三カ条だけを会則とした修道会を発足。はじめはフランシスの説教を聞いた二人だけが会員だった。これがフランチェスコ会の始まりである。その後、フランチェスコ会が托鉢修道会として認められ1226年にはフランチェスコは死を迎える。『世界史の窓』より