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過去最大のガンマ線バースト=超新星の9000倍、衛星で観測-日米欧

2009年03月11日 | ◆Weblog
過去最大のガンマ線バースト=超新星の9000倍、衛星で観測-日米欧

 昨年6月に打ち上げた天文衛星「フェルミ・ガンマ線宇宙望遠鏡」で、過去最大のエネルギー放出を伴う「ガンマ線バースト(GRB)」を観測したと、日米欧の研究チームが21日までに米科学誌サイエンス電子版に発表した。観測成果はGRBの発生メカニズムの解明に役立つと期待される。
 GRBは、太陽よりはるかに質量が大きい恒星が寿命を迎えて超新星爆発を起こした後、残ったブラックホールや中性子星の周囲から、高エネルギーの電磁波であるガンマ線が爆発的に放出される現象。
 観測されたのは昨年9月16日(世界時)、南半球で見える「りゅうこつ(竜骨)座」の方向に約122億光年離れた場所。エネルギーの規模は、通常の超新星爆発の約9000倍と推定された。また、ガンマ線の中でもエネルギーが高いものが、低いものより遅れて届く珍しい現象が起きた。
 研究チームには、日本からは東京工業大、東京大、宇宙航空研究開発機構、広島大の研究者が参加している。(2009/02/21-15:17)

時事ドットコム:指定記事

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原生代末の大量絶滅

V-C境界と呼ばれ、最近の研究で大量絶滅があったことが判明しつつある。下に述べる古生代末の大量絶滅(P-T境界)と同じく、超大陸の形成と分裂が原因と推定されている事件。ゴンドワナと呼ばれている超大陸が形成・分裂した時期に相当する。超大陸の分裂に際してはスーパープルームが地上まで上昇してきて非常に大規模な火山活動が起こり、地球表面の環境が激変するため、大量絶滅が起こると考えられている。

原生代のベンド紀にはエディアカラ生物群が存在していた。この生物群はオーストラリアのエディアカラで多数の化石が発見されたことから命名されたが、生物体は全て軟組織で出来ており体表を保護する硬い骨格を有していなかった。エディアカラ生物群は約5億4500万年前のV-C境界を境に殆ど見つからなくなるが、以後三葉虫のような硬骨格を有する生物が出現する。

オルドビス紀末の大量絶滅

古生代のオルドビス紀末(約4億3500万年前)に大量絶滅が発生し、それまで大いに繁栄していた三葉虫の種が半減してしまった。当時生息していた全ての生物種の85%が絶滅したと考えられている[2]。

2005年、NASAとカンザス大学の研究者により、近く(6000光年以内)で起こった超新星爆発によるガンマ線バーストを地球が受けたことが大量絶滅の引き金となった、という説が出されている[3]。

デボン紀後期の大量絶滅

古生代のデボン紀後期(約3億6000万年前)には、甲冑魚をはじめとした多くの海生生物が絶滅している。全ての生物種の82%が絶滅したと考えられている。

ペルム紀末の大量絶滅

古生代後期のペルム紀末、P-T境界(約2億5千万年前)に地球の歴史上最大の大量絶滅がおこった。海生生物のうち最大96%、全ての生物種で見ても90%から95%が絶滅した。古生代に繁栄した三葉虫もこのときに絶滅した。

この大量絶滅は化石生物の変化から実証されているが、絶滅の原因には幾つかの仮説がある。

1. 全世界規模で海岸線が後退した痕跡がみられ、これにより食物連鎖のバランスが崩れ、大量絶滅を引き起こしたという説がある。
2. 巨大なマントルの上昇流である「スーパープルーム」によって発生した大規模な火山活動が、大量絶滅の原因になったという説もある。超大陸であるパンゲア大陸の形成が、スーパープルームを引き起こしたとされる。

実際、シベリアにはシベリア洪水玄武岩と呼ばれる火山岩が広い範囲に残されており、これが当時の火山活動の痕跡と考えられている。火山活動で発生した大量の二酸化炭素は温室効果による気温の上昇を引き起こした。これによって深海のメタンハイドレートが大量に気化し、さらに温室効果が促進されるという悪循環が発生し、環境が激変したと考えられる。

また、大気中に放出されたメタンと酸素が化学反応を起こし酸素濃度が著しく低下した。このことも大量絶滅の重要な要因となった。古生代に繁栄した単弓類(哺乳類型爬虫類)はこの際に多くが死に絶え、この時代を生き延びて三畳紀に繁栄した主竜類の中で、気嚢により低酸素環境への適応度を先に身に付けていた恐竜が後の時代に繁栄していく基礎となったとされる。

なお、単弓類の中で横隔膜を生じて腹式呼吸を身につけたグループは低酸素時代の危機を乗り越え、哺乳類の先祖となった。

三畳紀末の大量絶滅 [編集]

中生代の三畳紀末(約2億1200万年前)の大量絶滅でアンモナイトの多くの種が絶滅してしまった。また、爬虫類や単弓類も大型動物を中心に多くの系統が絶え、当時はまだ比較的小型だった恐竜が以降、急速に発展していく。全ての生物種の76%が絶滅したと考えられている。

白亜紀末の大量絶滅 [編集]

三畳紀からジュラ紀~白亜紀に繁栄していた恐竜は約6500万年前に突如として絶滅してしまった。アンモナイトが完全に絶滅したのもこの時期である。全ての生物種の70%が絶滅したと考えられている。

その原因については諸説あるが、巨大隕石が地球に衝突、発生した火災と衝突時に巻き上げられた塵埃が太陽の光を遮ることで、全地球規模の気温低下を引き起こし、大量絶滅につながったという説(隕石説)が最も有力である。

白亜紀とそれにつづく第三紀の地層の境界は、全世界的に共通して分布する薄い粘土層によって規定される。この粘土層(K-T境界)からは、全世界的に高濃度のイリジウムが検出されている。イリジウムは地表では希少な元素である反面、隕石には多く含まれている。K-T境界のイリジウムは地球に衝突した隕石によって全世界にばら撒かれたと考えられ、これが隕石説の最初の有力な証拠とされた。後に、同じ層からは、衝撃に伴う高圧環境の発生を示す衝撃石英(Shocked Quartz)やダイヤモンド、大規模な火災が発生したことを示す「すす」も見つかっており、これらの証拠によって、隕石説は検証され補強された(イリジウムに関しては、衝突時の衝撃で捲り上げられた地殻深部由来であると考える説もある)。

この推論に疑問を呈する意見もあるが、有力な説とはなっていない。疑問の証拠として、恐竜について言えば、絶滅のはるか以前から種の数(個体数ではない)が急速に減少したとされていて、隕石のみに絶滅原因を求めると理由が説明できないことが挙げられていたが、現在では種の数の急速な減少を示す証拠は無い。また、ユカタン半島付近にある隕石落下跡はK-T境界線よりもかなり深く(つまり古い時代に)入り込んでおり、隕石が落下した後も恐竜は相当期間にわたって生きていたのではないかという説さえある。 

同じ白亜紀末にインド亜大陸に大量の溶岩が噴出した痕跡が残されている(デカンラップ)。この大規模な火山活動が大量絶滅につながったとの説(火山説)もある。その他、伝染病、超新星爆発による被曝、磁極の移動による気候変動、ネズミなど哺乳類による恐竜の卵乱獲説などが提示されたが、それらを支持する有力な証拠は見つかっていない。

現在は隕石説を中心にこれら複合的な要因が重なったことによる説が主張されている。

完新世の大量絶滅 [編集]

1998年のアメリカ自然史博物館による調査によると、70%の生物学者は、現在、大量絶滅が起こっていると見ている。

例えば、ハーバード大学のE. O. ウィルソンは、人類が引き起こしている生物圏の破壊によって、これから100年間の間に、地球上の半分の種が絶滅するのではないかと予想している。また、国際自然保護連合は「レッドリスト」として、毎年絶滅に瀕している種を発表しているが、こうした調査の多くは大量絶滅が進行していることを示している。

一部の調査には、種の絶滅はもっとゆっくりで、まだ破局的な状態にまで至るには長い時間がかかると予想しているものもある。また、氷河期の最後に多くの巨型動物類が絶滅したことも、完新世の絶滅の一部とも考えられることもある。

大量絶滅 - Wikipedia

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SN 1006

SN 1006すなわち超新星1006は、西暦1006年に出現した超新星。記録に残されている限り、歴史上で最も視等級が明るくなった天体であった(太陽と月を除く、-9等星)。1006年4月30日から5月1日の夜におおかみ座領域に初めて出現したこの「客星」は、スイス、エジプト、イラク、中国、日本、そして恐らくは北アメリカの観察者たちにより記録されている。

歴史上の記述 [編集]

中国の歴史書にはこの超新星に関する最も完全な記述が残されている。『宋史』志第9・天文九・巻56によると、この星は1006年5月1日(景徳3年4月戊寅)に氐(テイ、氏の下に一)官(てんびん座の一部、氐宿を構成する)の南側にある騎官(おおかみ座の東部とケンタウルス座西部の一部分、同じく氐宿を構成)の西側に見えた。その明るさは月の半分程度で、地面にあるものが見えるほど明るく輝いていた。9月の間はこの星は地平線の下に隠れており、12月までには再び氐宮に見えるようになったという。特筆すべき点として、官僚の周克明(天文を司る職掌の司天監丞などを歴任した)が嶺南(広東)での職務を終えて開封へ戻る途中の5月30日に、黄色い色で強く光り輝くこの星を、国に繁栄をもたらす吉兆星であると皇帝に説明したと記されている(『宋史』列伝第220・方技上・巻561)。

プトレマイオスの『テトラビブロス』の注釈書を書いたエジプトの占星術師、アリ・イブン・リドワンが、この超新星に関する別の歴史的記述を残している。彼は、この天体は金星の直径の2.5~3倍の大きさを持ち、明るさは月の4分の1ほどであったと言い、他の観測者達と同じく、その星は南の地平線近くの低い位置にあったと述べている。また、スイスのザンクト・ガレン修道院に勤めるベネディクト会の修道士たちは、光度や空における位置などについてリドワンの観察をほぼ裏付ける記録を残しており、加えて次のようなことを記している:「驚くべきことに、この星は時に収縮し、時に拡散し、そのうえ時には消えてしまうこともあった」。この最後の描写はしばしば、この超新星がIa型であることの証拠とされる。いくつかの資料では、この星は影が落ちるほど明るく、時には昼間でも確かに見ることができたと述べられており、現代の天文学者フランク・ウィンクラーは、「1006年の春には、人々はおそらくこの星の光で深夜でもものを読むことが出来たであろう」と述べている。

この超新星の観測記録には二つの異なる時期が存在したと見られている。最初に、この星が最も明るく輝いた時期が3ヶ月間続いた。この時期の後、この超新星は暗くなり、その後約18ヶ月にわたって再び明るくなった。当時のほとんどの占星術師は、この現象を戦争や飢饉の前触れだと解釈した。

また、この超新星に関する北アメリカで最初の記録であるかもしれないホホカム人の岩面陰刻も発見されている。

日本では陰陽師・安倍吉昌が観測している。その200年後の1230年(寛喜二年)、藤原定家は『明月記』第五十二巻(寛喜二年冬記)で客星(超新星)の出現について書いたが、あわせて過去の客星の例として1054年の超新星(SN 1054、かに星雲)や、1006年のSN 1006と思われる超新星などについて言及している。

現代天文学で観測される残骸 [編集]

この超新星の残骸は淡い球殻状の歪んだ星雲として残っているが、この超新星残骸が発見されたのは電波天文学の時代に入ってからであった。1965年、ダグラス・K・ミルンとF・F・ガードナーは、おおかみ座β星付近の電波観測で直径30分角の円形の膨張球殻を発見し、1976年までにはX線および可視光の成分も発見された。最新の観測では、この超新星残骸は地球から2.2キロパーセク(約7175光年)の距離にあって約20パーセク(約65光年)の直径を持ち、速度2,800km/sで膨張していることが分かっており、全ての波長域で PKS 1459-41 と呼ばれるようになっている。Ia型超新星の残骸として予想された通り、星雲の中心部にはパルサーやブラックホールは見つかっていない。

2006年には、SN 1006の出現から1000年になることにちなんで、日本のX線天文衛星「すざく」による残骸の観測が行われた。

SN 1006 - Wikipedia

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来る時はいきなり来そうだ 勘弁してくれ (一見楽しそうな原始人の生活 ズデニエック・ブリアンの絵)


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