カボチャの部屋

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R氏の寄稿・いじめについての考察

2013年10月14日 | 社会
大阪出身のR氏によるいじめ問題についての考察。

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記憶の残滓から導くいじめについての考察

いじめの問題は、いじめそのものと正面切って戦おうという人間が存在しないことである。
いじめから脱出する方法は、いじめそのものを根絶することに限らない。
いじめられっ子にとっては、いじめっ子を成敗していじめを根治することも、身代わりを見つけ出してきて自らもまたいじめに加担することも、等しい価値を持っている。
ええっ!?って思うかもしれないけれど。。。
自分さえいじめられなければなんて思考は自分勝手ではあるけれど、人間というのは自分勝手なもので、だからこそ傍観者はいじめを見過ごし消極的にいじめの存在を肯定している。
誰だって、いじめが悪かと聞かれれば、悪と答えるに決まっている。
けれど、自らの身を担保にしてまで悪と戦いたくなんかない。
いじめられっ子だってそこはおんなじなんだよね。
とくに小学生のときには社会一般の道徳とか常識よりも、弱肉強食の論理が優先しやすい。
スポーツができて、喧嘩が強ければそれだけでヒーロー。
強者が弱者を虐げ食物にするというのは極めて当たり前の摂理であって、自分がいじめられるのは自分に力がないから。
憎しみはむしろ、不甲斐ない自分自身に向けられる。
強者が弱者を虐げる体制に同意するという点で、いじめられっ子はいじめっ子と一致をみせる。
精神的にも肉体的にも逼迫した状況のなかで、いじめられっ子の世界には不条理が存在していた。
いじめがあること?
違う。
自分より弱い人間がいるのに、自分がいじめられていることである。
いじめられっ子にとっての喫緊の問題は、いじめそのものを撲滅するか、身代わりを見つけてくるか。
どっちの方が難しいか、ということだね。
自分より力も体格も大きい人間たちに孤軍奮闘で決戦に挑み勝利を収めるか、あるいは周囲に漂っている傍観者の誰かをぶちのめし、食物連鎖のピラミッドの最下層に貶めるか。
どちらの方が、より成功率が高いかですな。
よく、いじめられている人間はいじめを働く人間に抗うべきだって主張を見るけれど、いじめを傍観していただけのくせに、いじめられて切羽詰っている当事者に正義の執行まで押し付けようなんていうのはなんとも厚かましい。
正義の執行なんか余裕のある傍観者がやってくれよ、こちとら今日を生きのびるのに必死やねん。
ってとこですわw
こうして見ると、いじめの問題を考えるときに、いじめっ子といじめられっ子という二極対立で考えるのは間違いなんじゃないかと思うね。
こうしていじめそのものと正面切って戦おうという人間がどこにもいないことを発見する。
道理でいじめがなくならないわけですな。

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なんというか、いじめはよくないだとか、いじめられる人間にも原因があるだとか、いじめを道義で語っている人間は多いんだけれど、現実的に問題を捉えている人がちょっと少ないんじゃないかなぁ、と感じる。
世界は平和であるべき、っていうのと一緒だな。
どこの国の統治者だって、平和を望んでいる(一部例外がありそうだけれど)。
そう考えてみると、国同士の争いというのは、小学生同士の争いに似ている。
親も先生もいない世界で、強国が小国を政治的に収奪する。
他の国は、その現状に不満を感じつつも傍観を決め込む。
傍観している国の中には、将来の保険のために強国に擦り寄る国も少なくない。
虐げられる国は、なんとか他の国を巻き込んで(場合によっては身代わりにして)苦境から脱しようとする。
国際政治というと陰謀渦巻くいかにも高級なイメージだけれど、やってることは小学生の喧嘩みたいなものですな。
大人が全力でやるあたりタチが悪いとも言えるけれど。