カボチャの部屋

お菓子をいっぱい貰うためだよ(trick or treat!)

いじめについて

2013年12月14日 | 社会
大阪出身のろくさん氏によるいじめ問題についての考察3。

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いじめの原因を考えるかさらに根治まで考えるか、いじめられる側のダメージの軽減を考えるかなど切り口はいろいろあるわけなんだけれど、思いついたことを思いついた順番で書いていこうと思う。
整然とした順番で書いていくには、すでに脳内に考えがまとまっている必要があるわけだけれど、そもそもわからないことを考えるためには、この方法をとることは難しいからね。
さて。いじめについて、あんまり誰も指摘しないことで問題だと思うのは、「いじめられるのは恥ずかしいこと」だっていう感覚があることね。特にいじめられている方にあるのかな。
過去の記憶を紐解いてみると、いじめられてしかもそれを他人の力で解決してもらうというのはとってもみっともないことだと思っていた。
だから、親にも先生にもできるだけそれがばれないようにしたいと思ってしまうんだよね。
親にしても先生にしても、「なんとかしてほしい」って言われればその解決に乗り出すことはしやすいんだけれど、勝手に出張って言って「いじめているんじゃない、遊んでいるだけだ」って場合によってはいじめられっ子に突っ張られてしまったら、引き下がらざるを得ないしね。
そんなことにならないよう、見て見ぬふりをするのが常態化してしまうわけだけれど。

いじめられっ子がその事実を隠したいと考えれば、いじめが表面化しないのもまあ当然で、いじめっ子は怒られたくないからそれを問題化させないし、先生については先の理由。
親は学校の様子を見ることはできないし、傍観者はそれをするメリットも必要性もない。

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田中慎弥さんの本みたいだな。

ゲーム理論的いじめの考察

2013年10月16日 | 社会
大阪出身のろくさん氏によるいじめ問題についての考察2。

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いじめられっ子が、いじめっ子を打倒することによっていじめから脱却を図ることは有効なのだろうか?
このような話がある。
男が3人いて、殺し合いを始める。
それぞれ拳銃と1発ずつの銃弾を持っており、
男1は30%、男2は60%、男3は100%の命中率で誰かを殺すことができる。
男1が一番初めに引き金を引き、その後60%の男、100%の男と続くとき、男1にとっての最良の選択肢は何であるか。
100%の命中率を誇る人間にむけて、銃を打つことなのだろうか。
いじめの場合は、それが善悪の話に終始してしまっていて、実際におこっているいじめを論ずるにはかけ離れているように思うしなにより話していて面白くないw
戦略論的いじめの研究をもう少し掘り進めたいなぁ。

上の問題は、30%の男は天に向けて引き金を引くことが答えだったと思う。
そうすることで、60%の男は100%の男に向かって引き金を引くことが合理的な選択になるという話。
さてさて。環境は大きく違うし、また合理的に割り切れないところもあるわけだけれど、いじめられっ子君は、いじめっ子君にたいして引き金を引くことが正解なのだろうか?

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いじめは無くならないだろうなぁ。
アリの法則と同じで平和な男が100人集まったら何人かがいじめる側になるような気がする。

R氏の寄稿・いじめについての考察

2013年10月14日 | 社会
大阪出身のR氏によるいじめ問題についての考察。

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記憶の残滓から導くいじめについての考察

いじめの問題は、いじめそのものと正面切って戦おうという人間が存在しないことである。
いじめから脱出する方法は、いじめそのものを根絶することに限らない。
いじめられっ子にとっては、いじめっ子を成敗していじめを根治することも、身代わりを見つけ出してきて自らもまたいじめに加担することも、等しい価値を持っている。
ええっ!?って思うかもしれないけれど。。。
自分さえいじめられなければなんて思考は自分勝手ではあるけれど、人間というのは自分勝手なもので、だからこそ傍観者はいじめを見過ごし消極的にいじめの存在を肯定している。
誰だって、いじめが悪かと聞かれれば、悪と答えるに決まっている。
けれど、自らの身を担保にしてまで悪と戦いたくなんかない。
いじめられっ子だってそこはおんなじなんだよね。
とくに小学生のときには社会一般の道徳とか常識よりも、弱肉強食の論理が優先しやすい。
スポーツができて、喧嘩が強ければそれだけでヒーロー。
強者が弱者を虐げ食物にするというのは極めて当たり前の摂理であって、自分がいじめられるのは自分に力がないから。
憎しみはむしろ、不甲斐ない自分自身に向けられる。
強者が弱者を虐げる体制に同意するという点で、いじめられっ子はいじめっ子と一致をみせる。
精神的にも肉体的にも逼迫した状況のなかで、いじめられっ子の世界には不条理が存在していた。
いじめがあること?
違う。
自分より弱い人間がいるのに、自分がいじめられていることである。
いじめられっ子にとっての喫緊の問題は、いじめそのものを撲滅するか、身代わりを見つけてくるか。
どっちの方が難しいか、ということだね。
自分より力も体格も大きい人間たちに孤軍奮闘で決戦に挑み勝利を収めるか、あるいは周囲に漂っている傍観者の誰かをぶちのめし、食物連鎖のピラミッドの最下層に貶めるか。
どちらの方が、より成功率が高いかですな。
よく、いじめられている人間はいじめを働く人間に抗うべきだって主張を見るけれど、いじめを傍観していただけのくせに、いじめられて切羽詰っている当事者に正義の執行まで押し付けようなんていうのはなんとも厚かましい。
正義の執行なんか余裕のある傍観者がやってくれよ、こちとら今日を生きのびるのに必死やねん。
ってとこですわw
こうして見ると、いじめの問題を考えるときに、いじめっ子といじめられっ子という二極対立で考えるのは間違いなんじゃないかと思うね。
こうしていじめそのものと正面切って戦おうという人間がどこにもいないことを発見する。
道理でいじめがなくならないわけですな。

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なんというか、いじめはよくないだとか、いじめられる人間にも原因があるだとか、いじめを道義で語っている人間は多いんだけれど、現実的に問題を捉えている人がちょっと少ないんじゃないかなぁ、と感じる。
世界は平和であるべき、っていうのと一緒だな。
どこの国の統治者だって、平和を望んでいる(一部例外がありそうだけれど)。
そう考えてみると、国同士の争いというのは、小学生同士の争いに似ている。
親も先生もいない世界で、強国が小国を政治的に収奪する。
他の国は、その現状に不満を感じつつも傍観を決め込む。
傍観している国の中には、将来の保険のために強国に擦り寄る国も少なくない。
虐げられる国は、なんとか他の国を巻き込んで(場合によっては身代わりにして)苦境から脱しようとする。
国際政治というと陰謀渦巻くいかにも高級なイメージだけれど、やってることは小学生の喧嘩みたいなものですな。
大人が全力でやるあたりタチが悪いとも言えるけれど。

教育について

2013年09月21日 | 社会
道徳の教科化:どう進める--下村博文・文科相インタビュー
http://mainichi.jp/feature/news/20130422ddm013100029000c.html

いじめについていえば、道徳教育によっていじめを防げるかといえば、それはちょっと違うんじゃないかなぁ、と思う。
なぜかっていうと、いじめをしている人間は、その行為が悪であることを知っていると思うんだよね。
いじめは悪だなんて初耳だ、という人がいるかもしれないけれど、小学生であってもほとんどすべての子供はいじめが悪だということを知っているんじゃないかと思う。
だから、道徳教育によって防げるとするのは違うんじゃないかと思うのよね。
問題は、いじめを悪だと認識しつつなぜそれが蔓延してしまうのか、ってこと。
小学生の時に習った道徳の授業は、対して活かされていない気がするんだよなぁ・・・・・・。
まあ人によりけりなんだろうけど。

詭弁術

2013年08月29日 | 社会
なんかの記事だったと思うけれど、
「日本は海外からモノを輸入し、加工し、国内に売ることによる加工貿易によって経済成長を遂げてきた」
っていうような文章を見たんだけれど、加工貿易ってそんな意味で使われてたっけ・・・?
って思ったわけですな。
一般的には、海外からモノを買ってきて、加工して海外に売るっていうのを加工貿易として使われていた気がするんだけれど。。。
それまで加工貿易日本!加工貿易日本!って繰り返し言ってきたから言葉の中身を変えてごまかそうということなのかなぁ。。。

論理的思考と直感的思考③~思考力を鍛える~

2013年08月23日 | 社会
死刑とは別の題材で考えてみる。
今はほとぼりも冷めてきた原子力発電の是非を題材にしたいと思う。
さて。
原発賛成派は、主に以下のような主張を持っている。
・低線量の放射線は人体に影響がない
・原子力発電は火力にも勝るコストのよい発電方法である
・核物質を保有していることは、安全保障に貢献する
一方原発反対派の主な主張は以下の通り。
・低線量の放射線であっても人体に影響がないとは言い切れない
・原子力発電は、事故が起こった今となってはコストの高い発電方法である
・原子力発電所がテロの対象となる場合がある。それを考えればむしろ安全保障を脅かすものだ
このように、賛成反対両陣営で、その主張の理由も分断されているケースが少なくない。
けれど、これって実は奇妙な事なんだよね。
なぜなら、上記の理由は相互に関係がないから。
原子力のコストと、低線量の放射線が人体に影響を与えるかどうかはなんの関係もない。
このことは、自分の主張を補強してくれるものならなんでも採用してしまう人が少なくないことを示している。
もっとも、おおっぴらに聞いたら頷く人は希だろうけどねw
彼らの無意識の思考パターンは、原発に賛成/反対だから、~の理由が挙げられて、そして一層原発に賛成/反対の姿勢を強める。
こういうのは知性の劣化と思うんだけれど、今の日本だからそういう人が多いのか、昔っからこうなのか、世界中見渡してもこんなもんなのか気になるところではあるな。

しつこく死刑賛成反対を例に出すと、この賛否は大体の人が一瞬で結論を出せる話なんだよね。
例えばアメリカが金融緩和を続けることに賛成ですか?
って質問を受けた場合、多くの人間は即座に答えを出せず、その状態から結論を導こうと思ったら、メリットデメリットを勘案して「~のところでデメリットがあるけれど~のところでそれを補ってあまりあるメリットがあるから賛成」というような意見になるはず(ならない場合もあるだろうけど)。
価値観に関わるような問題においては、全面的に良いとか全面的に悪いとか極端な意見が生じやすいのよな。
全面的に、っていうのは、
極端な原発賛成派の主張を例にとると
・低線量の放射線は人体に影響がない
・原子力発電は火力にも勝るコストのよい発電方法である
・核物質を保有していることは、安全保障に貢献する
という感じでどの理由をとっても原発を肯定するものばかりということね。

絶対に自分の主張が変わってはいけない、それを揺らがすものは全て排除しなければならない、っていうなんとも強迫的なものを感じるなぁ。
議論の場においては特に、論破されたら違う論理を持ち出してくる、っていうことを延々と続ける人が散見されるけれど、自分の主張に筋が通らなくなった時のための保険として担ぎ出してくる感がある。
間違ってるんじゃないかと思ったら、素直に考え直せばいいのになぁ。。。
落ち着いて、いろいろ新しい条件を付加して考えれば、物事の見え方は全然違って見えることがあるわけで、以前だったらありえないと思っていたようなことだって当然のものとして受け入れられるようになる。
自分の思考の妥当さを検証しなおすのがめんどうなのかな。

論理的思考と直感的思考②~死刑にまつわる考え方~

2013年08月22日 | 社会
死刑について賛成反対っていうのは、自分としてはそこまで興味のあることではないんだけれど、これにまつわる考え方について考えるのが面白い。
死刑という問題については、多くの人間にとってセンシティブな問題で、そんなことはどうでもいいよっ、って人は少ないしね。
意見は尽きない。
まあ見たような意見だなぁ、っていうのはいつものことなんだけれど。
さてさて。
ここで考えたいのは、死刑そのものの議論じゃなくて、死刑の議論をするときに行われる人間の思考である。
具体的には、例えば「税金で犯罪者を養うのは馬鹿げている、だから死刑に賛成だ」という意見があったとする。
ならば問いたい。死刑に処す方がコストが高かったら、あなたは死刑に反対するのか?
あるいは「冤罪があるから死刑には反対だ」という意見があったとする。
それならば、どこまで冤罪の可能性が下がれば死刑に賛成できるのか?
多くの人間は、論理的に考えてなどいないのではないか?
直感的に選択を下し、それを支えるために適当な理屈を持ち出しているのではないか?

悲しいかな、死刑について、賛成派も反対派もそのほとんどがどのような環境に変化しても、未来永劫死刑に賛成/反対を主張しているように見える。
正直これじゃあ話にならんよな。
なにせ、どちらも永久に自分の意見を変える気がないんだから。
条件が変われば、条件に依存している結論が変わりうるのは当然だと思うんだけどなぁ。

論理的思考と直感的思考①

2013年08月19日 | 社会
人間は直感的生き物である。
多くのものを考えるとき、人間は直感から入る。
そして、その直感によって導き出された結論を保証する理屈を見つけ出し安心する。
人間の思考は概して直感的である。
直感的な人間の思考を、論理的な思考へと昇華させるためには、二つの問に答える必要がある。
一つには、どういう条件ならばその結論を変じさせることが可能となるか。
もう一つには、その条件に至るためには、どのようか過程が必要であるか。
具体例を挙げよう。
例えば、「死刑に賛成か反対か」を問われて、たやすくその結論を答えられる人間は少なくないはずだ。
「死刑に賛成する。死刑をやめたら犯罪が増える。」
しかし、もし、死刑が犯罪の抑止に効果がないという客観的データを示された場合、その人間は自分の主張を反転させることができるだろうか?
このようなケースに直面した場合、多くの人間がとる方法は結論はそのままに別の理由を持ってくることだ。
「被害者の気持ちを思えば、犯人を極刑にしなければならないのはあたり前だ。」・・・・・・・。
論理的思考のもとに、現状に対する問題の認識から結論へ向かって導き出された結論であるならば、結論は現状の変化に依存する。
導き出された結論が、存在する問題に対する手段であるならば、状況の変化に対してその手段は変化するはずだ。
万病の薬、万事に対する解決策などは存在しないからだ。
したがって、その結論を下すための条件が明確ならば、それは理論的思考に基づいた結論ではないか、と考えられる。
しかし、これには例外がある。
それは、その条件自体が現実には存在し得ない稀有な例、無理難題である場合だ。
同一の例えを持ち出すならば、「世界に犯罪が存在しなくなれば、意見を変えてもいい」というものだ。
世界に犯罪が存在しなくなるには、そもそも法律がなくなるか、人類が死滅することでもなければありえないであろう。
それはすなわち、半永久的に自分の意見は変わることはないということを意味する。
どのような環境の変化に対しても、自分が下した結論は変わらない。
一見芯の通った考え方のようにも思えるが、このような人間とは対話が成り立たない。
一方的に自分の主張を押し付けるのみであり、他人の意見を取り入れる気はさらさらないのである。
結論が環境に依存しないということから、これは直感的思考による判断とみなしてよい。
ここで、もう一つの条件を迫る必要性が生ずる。
その条件に至るためには、どのようか過程が必要であるか。
もし、自分の主張を展示させるような環境は、どのような条件下で発生するか。
これが空白であるならば、その意見は直感的思考の元に導き出された結論だと断じてよいのでないだろうか。
それは、直感的思考から脱し論理的思考へと思考の段階を繰り上げるための方法も、ここに存することを意味する。
どういう条件ならばその結論を変じさせることが可能となるか。
その条件に至るためには、どのようか過程が必要であるか。
その問いを、常に自分にぶつけることである。
それに答えられるようになって初めて、人間は自分と異なる意見を取り入れることが可能となり、自らの思考の精度を高めていくことが可能となるのである。



聞いたような話だなぁ、と思うだろうけど、論理的思考と直感的思考と題して論文っぽいのを書いてみた。
断っておくけど、死刑についての話は、論理的思考と直感的思考の違いを表す好例として取り上げただけで他意はない。
死刑反対派も結論ありきで話しているのがほとんどだしね。

論理的思考というのは現状認識から結果が導き出される。
直観的思考というのは本来結論を導出するための論理が、結論に対して従属している状態を指す。
もっと砕けた例でいけば、「江頭はどうにも受け付けない。なぜなら~」
っていう、なぜなら以下の論理をすべて論破したところで、その人が江頭さんを好きになるわけではないw
当然ではあるけど。
問題は、直観的思考そのものではなくて、直観的思考によって導き出された結論を論理的思考によって導かれた結論だと錯覚すること。
江頭さんの例でいえば、まずはじめに結論が出てきて、それに従属する形で理由が手繰られているわけだけれど、「理由があって結論が導き出される」という先入観が、論理的な思考の結果、江頭さんが嫌いだ、というように勘違いをさせる。
まあ、この例だと論理的に好き嫌いを考えるってことがおかしいのかもしれないけれど。

死刑反対論でも例を挙げると「冤罪の可能性があった場合、取り返しがつかない」とかっていうのがあるけれど、そっちについても分が悪くなると別の理由を持ち出すわけだな。
理由が否定されても結論には影響ないっておかしくないか?
その結論は一体どこから導かれたんだ?
と思うわけだが。
自分もつい結論ありきで考えてしまうことはあるはずだけれどね。
人間にはプライドがあるし、今まで頼ってきたイデオロギーを否定するのは少なくない苦痛を伴うからなぁ。。。

国という共同体

2013年03月20日 | 社会
ありきたりなフレーズだけど、人間は一人では生きられない。
家族という共同体、会社という共同体、日本国民という共同体。
なんらかの共同体に人間は属している。
例外はあるにしてもね。
で、国っていうのはその共同体のなかで最大のものなんだな。
それより規模の大きいものはないか、あっても機能していない。
たとえばユーロなんかにしても、ギリシャを助けるためにドイツの税金が使われるのはけしからん、と言う声が大きい。
そして、ギリシャを助けるためじゃなくて、ギリシャを助けることがドイツを助けることになるんだ、っていう主張と争っている。
ユーロは、ユーロに属する国民を等しく守り、その負担を共同体に属する人間で分担しあうための組織じゃないのな。
日本という「国」だったら、震災が起こった時に、被災者を共同体の人間が分担する税金を用いて助けようするのだけれど。

国より大きいものとして挙げられるのは宗教かな。どれだけ相互扶助の機能をはたしているかは疑わしいけどね。
同じ宗教でも宗派の違いで争ってることが多々あるし、信者同士で助け合おうというスタンスじゃなかったりするからなー。

安全保障について、西部邁先生が、集団安全保障による勢力均衡も国同士の勢力均衡も両方大事だって言ってたと思うんだけど、ライフラインとなる共同体は多いに越したことないんじゃないかって思うのよね。
家族同士で助け合う、っていうのは大事だけれど、それだけだと助けられないかもしれない。
ここに国が加わると、家族だけだと助けられなかった人達を助けられるかもしれない。
たくさんの共同体を持っている人にとっては不要かもしれないけれどね。
んで。
共同体が多ければいいっていうのは上に書いたけれど、共同体が共同体としてあるためには条件がある。
共同体に属するということは、全体のために負担を強いられることがあるということだからね。
地方の施設を都会の住人の税金でまかなったりね。
そういう負担を、構成員が許容できること。
これが条件。
現状でそれが満たせるのがぎりぎり国であるということ。
それができない国も多いけれどね。
世界を統一した共同体もいいと思うけれど、人間はそれができるほど進化してはいない。
その中で全世界の民を救おうと考えるなら、日本が世界全体を救えるまで強力になり、かつそのことに国民的同意を成立させるか(これも無理臭いなw)、あるいは日本は日本国民を、アメリカはアメリカ国民を救うことに全力を尽くせ、って言う風に、個別のコミュニティーで対応させるかになると思うのよね。

富裕層と所得税の最高税率引き上げ

2013年01月19日 | 社会
所得税の最高税率引き上げで富裕層が出ていくって論法多いけど、これ自体どうかと思うよのよな。 んじゃあ、一般市民は? 家族がいるから、ってんじゃあ富裕層が家庭を持っていないみたいだな。 金のある人間は国外へ移住したがる?それなら税金をできるだけかけて金持ちにならないようにしないとw

金持ちは税金が一番低い所に住みたがるのなら日本より低いところはあるんだから、とっくに移り住んでる。 結局つまらない結論に落ち着くわけだけど、富裕層であったところで他の日本人と大差ないというのが実情だろうね。 わりと当前の話だと思うんだけど、この前提で話してる人は少ない気がするな。