カボチャの部屋

お菓子をいっぱい貰うためだよ(trick or treat!)

塗り替えられる特攻の意義

2015年01月05日 | 国防
特攻は、家族を守るための行動だったというように言われるけれど、これは一種の建前なんじゃないかなぁと。

暇があればどうぞ、永遠のゼロから見る特攻の解釈
http://shooota.blog.fc2.com/blog-entry-215.html#cm

つまるところ、
国家を守るために戦うことは正しい、といえないから、家族のために戦った、というように話を矮小化させてお茶を濁すくらいにしか特攻隊員の名誉をまも方法がなかったというところだろうか。
現状においても、国を守るために命をかけて戦うということは正しい行いだ、ということはなんとなくはばかられる。
特攻は、(自国を守るという)正義のための行動だったと主張することは難しい。
特攻は、無駄死に、あるいは悪の行動だったと開き直ることもできない。
日本国民が特攻に殉じた意義を、現代の大衆が受け入れやすい形に塗り替えてごまかすというのが、永遠のゼロに限らず戦争を扱った作品に多く見られる傾向である。

軍医の言葉

2015年01月04日 | 国防
特攻隊員の話
http://news.nicovideo.jp/watch/nw1390237?news_ref=nicotop_topics_topic

この中で、興味深い言葉があった。
ミッドウェー海戦後の駆逐艦の中において、
『手のない人、足のない人。みんな苦しんでいる。でも軍医は苦しんでいる兵士を診てあげず、俺を治療するんです。「俺よりあっちの人を先に!」と言ったら「君のように少しの手当てで治る人が優先。戦えない兵隊は後。これが戦争なんだ」と。今でも忘れられない言葉ですよ。』
平時の論理と非常時の論理は逆転するという話があるけれど、これはまさしくその典型だね。
この事例から視野を広げてみると、多くの物語が非常事態に直面するわけだけれど、その時の行動は平時のそれそのものなのよな。
読者が平時の人間だから、っていうのがあるのかもしれないけれど。

されど敗戦は繰り返される

2015年01月01日 | 国防
「第二の敗戦」という言葉を聞いて、思い浮かべる事例とはなんであろうか。
多くの人は、3年前の3月11日に発生した東日本大震災を思い浮かべるに違いない。
しかしこの「第二の敗戦」、東日本大震災が初めて使われた事例ではない。
佐藤健志さんの『僕たちは戦後史を知らない』によると、日本の敗戦は四回繰り返された。
一度目は、言うまでもなく1945年の敗戦。
二度目は石油危機の影響もあり、高度成長に歯止めがかかったとき。このとき、「第二の敗戦」という表現が用いられる。
三度目は、1990年代にバブル崩壊が顕在化するとともに、阪神淡路大震災が発生したとき。ここでもまた、「第二の敗戦」という表現が使われる。
四度目は、上記した通り、東日本大震災時である。
こうも「第二の敗戦」という言葉が使われるのは、一度目の敗戦の事実を上書きしたいからではないか。
そう考えると、戦後の歴史というのは、戦後からの脱却を目指し、挫折し続けてきた歴史と言えるかもしれない。