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論理的思考と直感的思考①

2013年08月19日 | 社会
人間は直感的生き物である。
多くのものを考えるとき、人間は直感から入る。
そして、その直感によって導き出された結論を保証する理屈を見つけ出し安心する。
人間の思考は概して直感的である。
直感的な人間の思考を、論理的な思考へと昇華させるためには、二つの問に答える必要がある。
一つには、どういう条件ならばその結論を変じさせることが可能となるか。
もう一つには、その条件に至るためには、どのようか過程が必要であるか。
具体例を挙げよう。
例えば、「死刑に賛成か反対か」を問われて、たやすくその結論を答えられる人間は少なくないはずだ。
「死刑に賛成する。死刑をやめたら犯罪が増える。」
しかし、もし、死刑が犯罪の抑止に効果がないという客観的データを示された場合、その人間は自分の主張を反転させることができるだろうか?
このようなケースに直面した場合、多くの人間がとる方法は結論はそのままに別の理由を持ってくることだ。
「被害者の気持ちを思えば、犯人を極刑にしなければならないのはあたり前だ。」・・・・・・・。
論理的思考のもとに、現状に対する問題の認識から結論へ向かって導き出された結論であるならば、結論は現状の変化に依存する。
導き出された結論が、存在する問題に対する手段であるならば、状況の変化に対してその手段は変化するはずだ。
万病の薬、万事に対する解決策などは存在しないからだ。
したがって、その結論を下すための条件が明確ならば、それは理論的思考に基づいた結論ではないか、と考えられる。
しかし、これには例外がある。
それは、その条件自体が現実には存在し得ない稀有な例、無理難題である場合だ。
同一の例えを持ち出すならば、「世界に犯罪が存在しなくなれば、意見を変えてもいい」というものだ。
世界に犯罪が存在しなくなるには、そもそも法律がなくなるか、人類が死滅することでもなければありえないであろう。
それはすなわち、半永久的に自分の意見は変わることはないということを意味する。
どのような環境の変化に対しても、自分が下した結論は変わらない。
一見芯の通った考え方のようにも思えるが、このような人間とは対話が成り立たない。
一方的に自分の主張を押し付けるのみであり、他人の意見を取り入れる気はさらさらないのである。
結論が環境に依存しないということから、これは直感的思考による判断とみなしてよい。
ここで、もう一つの条件を迫る必要性が生ずる。
その条件に至るためには、どのようか過程が必要であるか。
もし、自分の主張を展示させるような環境は、どのような条件下で発生するか。
これが空白であるならば、その意見は直感的思考の元に導き出された結論だと断じてよいのでないだろうか。
それは、直感的思考から脱し論理的思考へと思考の段階を繰り上げるための方法も、ここに存することを意味する。
どういう条件ならばその結論を変じさせることが可能となるか。
その条件に至るためには、どのようか過程が必要であるか。
その問いを、常に自分にぶつけることである。
それに答えられるようになって初めて、人間は自分と異なる意見を取り入れることが可能となり、自らの思考の精度を高めていくことが可能となるのである。



聞いたような話だなぁ、と思うだろうけど、論理的思考と直感的思考と題して論文っぽいのを書いてみた。
断っておくけど、死刑についての話は、論理的思考と直感的思考の違いを表す好例として取り上げただけで他意はない。
死刑反対派も結論ありきで話しているのがほとんどだしね。

論理的思考というのは現状認識から結果が導き出される。
直観的思考というのは本来結論を導出するための論理が、結論に対して従属している状態を指す。
もっと砕けた例でいけば、「江頭はどうにも受け付けない。なぜなら~」
っていう、なぜなら以下の論理をすべて論破したところで、その人が江頭さんを好きになるわけではないw
当然ではあるけど。
問題は、直観的思考そのものではなくて、直観的思考によって導き出された結論を論理的思考によって導かれた結論だと錯覚すること。
江頭さんの例でいえば、まずはじめに結論が出てきて、それに従属する形で理由が手繰られているわけだけれど、「理由があって結論が導き出される」という先入観が、論理的な思考の結果、江頭さんが嫌いだ、というように勘違いをさせる。
まあ、この例だと論理的に好き嫌いを考えるってことがおかしいのかもしれないけれど。

死刑反対論でも例を挙げると「冤罪の可能性があった場合、取り返しがつかない」とかっていうのがあるけれど、そっちについても分が悪くなると別の理由を持ち出すわけだな。
理由が否定されても結論には影響ないっておかしくないか?
その結論は一体どこから導かれたんだ?
と思うわけだが。
自分もつい結論ありきで考えてしまうことはあるはずだけれどね。
人間にはプライドがあるし、今まで頼ってきたイデオロギーを否定するのは少なくない苦痛を伴うからなぁ。。。