台湾治郎

自分の生涯・現在の生活

ブログ131あの「鉄」と呼ばれた生徒は今?

2013-01-12 00:03:37 | 台湾
 私が初めて就職したのは、1975年。昭和50年4月1日。
私は、初めて「辞令」というものを貰いました。
私の故郷は、与野東中学校。私は、11年間この学校に勤めていました。
この学校でたくさんの想い出を作りました。一年、一年重ねる内に、
忘れてしまった生徒もあるが・・・。私は、鉄君と呼ばれた生徒の事は、一生忘れられません。かれは、与野東中のテニスコートの裏に住んでいました。
 もちろん、私は、担任ではありません。
私は、有る事情で二年間担任できませんでした。
 けど、鉄君の事は、大変心配していました。もちろん、扇くんの家も同じ。
子だくさん貧乏寺。
 子だくさんで、とても、貧乏な家を知ると・・・。
つい家庭訪問したくなる。
 私は、鉄君が卒業してから、鉄君の家へ・・・・。
家庭訪問は、俺の担任した白塚君の家だが・・・。その帰り道つい、気になり・・・。
 鉄君は、いつも・いつもみんなから、「馬鹿にされていました。」なぜ?
彼が勉強できない。家が貧しい。漢字が全部読めない。
 私は、そんなことより、彼がいつも・いつも掃除を一生懸命している姿。
私は、いつも彼を褒めました。だって、学校に来て「働く」生徒少ない。
勉強さえできれば、掃除しなくても良いと思っている生徒が多い中で、かれは、いつも掃除を一生懸命してくれます。
 彼の家を訪ねるのは、初めて・・・。やはり、俺の家と同じ臭いがしました。彼の家も相当狭い。私が、「今日は?」声をかけると、お母さんが出て、「誰ですか?」「与野東中の松木です。鉄君は、いますか?}{せんせいですか?そりゃ、どうも・・彼は、仕事に行っています。」「いいんですよ。」 「後、1時間もすれば・・・。帰ってくると思うけど・・・・」そんなことを話をしていると、鉄君が現れて・・・。『オー鉄久しぶり。』
『先生こそどうしたの?』{え?今そこまで来たついでに・・・}「おまえ成長したな。」{今、何しているんだ?}{俺今新聞配達}「すごい。働いているんだ。」
 嬉しかった。俺が勉強を教えなくても・・・。こんなに成長する。
「大丈夫だ。此奴は・・・」
もう此奴は、弱虫で泣き虫でみんなにいじめられていた「鉄」ではない。
彼は、立派に「鋼」に変わっていた。
 「鉄は、熱いうちに打て 」
小さい頃から、苦労している人間は、そう簡単に死んだりしない。
 三万人も・・・・・・・。
どこで日本の教育が間違えたのか?
 豊かな時代の病理。
俺の生きていた<昭和30年代、40年代には、・・・・・。>こんなにたくさんの人は、自殺を選ばない。
けど、現代は、安易に「楽」な道・・・・・・。る選びすぎではないか?
俺も一度だけ死にたいと思ったことは、あるけど・・・・。
俺は、死んでいない。強かにいつも・妄想と、現実をさまよいながら生き抜いていく。
 加油! 加油! 加油! 加油! 加油! 加油! 加油! 加油!
再見。