遠野郷中世城館録

奥州陸奥国遠野(岩手県遠野市及び周辺地域)の城館跡の探訪調査記録のご紹介

火渡館・義の戦い、火渡館の変

2009-11-30 17:07:05 | 附馬牛

 

 

日本城郭大系掲載の縄張図

 

概要

 館跡は猿ヶ石川と荒川の合流点より北東に約500メートルに位置する山野にある。

 館跡山野下には県道土淵・達曽部線が通り、バス停「日渡」の直上の山野から東側のさらに小高い山野までが館域となっている。

 主郭は東側山野の山頂で、平場には愛宕社が鎮座している。

 社のある山頂から北西側の斜面に7段から成る帯郭が配置され、北側部分の斜面には3重の空堀が山頂下より下り、堀切は複雑に交差しており北側、東側の斜面をそれぞれ駆け下っている。

 西側は急斜面となっており上部に3段の平場が展開し、斜面沿いに北西側に至れば、主郭から続く帯郭の先端部には山野を区切る堀切が施され、バス停側上部の山野側となる。

 バス停側の山野には、3~4段程度の階段状の平場が構築され、こちら部分は二の郭と推測される。

 こちら部分の北側斜面にも空堀跡が見られ、かつての門跡と思われる土盛や窪みが見られる・・・裏門跡と考察されている。

 当地方では大規模な館跡に区分され、遺構の残存度も良好で見応えある館跡である。

 

主郭

 

主郭西側下の帯郭

 

主郭下、南側斜面の空堀(参道上部付近)

 

北側~東側の三重空堀

 

主郭背後の堀切

 

 

主郭つつぎの斜面の階段状平場

 

二の郭との間の堀切

 

北側の中腹の土塁跡(空堀合流付近)

 

火渡氏と火渡の変

 館主を火渡氏と伝えられ、伝承では火渡氏二代の居館と伝えられる。

 一説には、阿曽沼氏支族ともいわれ、東禅寺地区を除く附馬牛地域を知行したことから附馬牛殿とも呼ばれていた。

 火渡中務の子、火渡中務広家は、後に玄淨を名乗り、火渡玄淨広家として後の世の、地域に語られる武将として生きづいている。

 

 慶長5年(1600)、遠野惣領の阿曽沼広長は南部利直に従って南部勢の一員として兵を率いて最上の陣に赴く。

 この留守を狙って阿曽沼一族で重臣の鱒沢広勝、広長の叔父、上野広吉、阿曽沼家臣の平清水景頼が主となって、遠野横田城(鍋倉城)を制圧、各地の小領主達を集めて広長の追放、遠野制圧を宣言し、協力を求めたとされる。

 各館主、小領主達のほとんどが鱒沢氏に同意する中、火渡広家のみは、その非道を責め、節を曲げずに火渡館に家臣郎党を糾合して謀反勢を迎え撃つべく、籠城したといわれる。

 鱒沢広勝による再三の説得にも応じず、ついに遠野勢が附馬牛に侵攻、戦いの火蓋が切って落とされる。

 火渡館方は士気も旺盛で広家の重臣、大野源左衛門の奮闘もあり、よく持ちこたえていたが、多勢に無勢、火渡方の矢玉も遂に切れ、落城は時間の問題となり、大野等は広家を沿岸地方の大槌に逃し、大族大槌孫八郎を頼り再起を図ることとし、火渡玄淨広家は自刃したことにして、その亡骸を白布に包み、東禅寺へ葬ると称して館からの脱出を図るも、敵兵に見つかり、広家は白布ごと槍で突かれて落命と伝えられる。

 節を曲げず主家への義を貫いた火渡氏はここに敗れるも、広家の子、左助(12歳)は東禅寺に匿われていたため難を逃れ、閉伊郡山口村(現土淵町山口或いは宮古地方なのかは不明)に隠遁し、後に父玄浄の義ある死を賞賛した南部利直に見出されて、山口村に食禄50石にて南部家臣として召抱えられた。
 左助は山口内蔵助と名を改め、南部家臣山口氏は釜石氏等の分家も輩出してその後7系を数え存続した。

 

 

火渡館概略図 

 

全てを網羅しているものではありません。


鮎貝館・遠野の伊達御一家鮎貝氏

2009-11-29 16:45:51 | 小友

 

 

概要

 鱒沢~小友間の糠森峠から西側へ続く山野の末端、小友川沿いの小友町鮎貝地区に館跡は残されている。

 館は西斜面に展開しているが、はっきりと確認できる遺構等はほとんど残されていない。

 一部、斜面の南西側に3段程度の階段状の平場、中央部分は南北100メートル程、東西約30メートル~40メートル幅の平地となっている。

 しかし、館跡が廃された後の時代に農地として削平された雰囲気も感じられ、館が機能していた当時の遺構かどうかは判断が難しい。

 西側には県道、そして小友川が流れ、江刺郡(奥州市江刺区)との境である五輪峠が至近にあり、中世当時は阿曽沼領の遠野、葛西領の江刺郡、後に南部家と伊達家という国境の地域であった。

 

西側斜面

 

中央部平地

 

 

 

西側斜面の段差

 

前景

 

遠野の鮎貝氏

  遠野阿曾沼時代の末期、阿曾沼広郷(遠野孫次郎)広長(孫三郎)に仕えた鮎貝志摩守が館主であると伝承されている。
 後に慶長5年(1600)に阿曾沼広長が鱒沢広勝、上野広吉の謀反によって気仙落ちした際に広長に附き従って共に気仙へ落ちていったと語られる。

 また、先人郷土史家と地元伝承を取り入れた形の考察では、伊達政宗家臣の鮎貝志摩守を密かに遠野領に侵入させ、鮎貝館を占拠、これは遠野惣領の阿曽沼広郷も承知のことで、広郷が伊達政宗と通じ密かに招へいしたとも語られる。

 奥州仕置きで阿曽沼氏は改易は免れたものの南部信直の傘下に組み入れられ、遠野は南部家影響下となった。

 しかし、阿曽沼氏は南部家の影響を嫌ったといわれ、伊達家と気脈を通じ、これがもとで伊達家の武将が鮎貝に入ったものとの考え方でもある。

 

 鮎貝氏とは・・・
 
 藤原北家流山蔭中納言の孫藤原安親は、置賜郡下長井荘の荘官となった。子孫は土着して武士化し、置賜郡横越郷に居住して横越氏を称した。
 応永三年、成宗は横越から下長井荘鮎貝に移り鮎貝城を築き、鮎貝氏を称し、以後、宗盛-定宗と続いたという。また一家の家譜では鮎貝定宗が鮎貝に住んで鮎貝を称したともいう。
 
 鮎貝氏は伊達晴宗(政宗の祖父)時代、「守護不入」(国主といえどもその領地統治に関して干渉しない)の特権を与えられ、伊達家からかなり優遇されていたことが伺われる。

 天正15年(1587)、伊達政宗と対立する最上太守、最上義光の支援で伊達家に謀反を企てたが、伊達政宗によって鮎貝氏は攻められ鮎貝城は落城。
 鮎貝氏当主宗信は最上家に逃れたが、伊達政宗は当主の弟宗定を粗略に扱わず、祖父の代より格式高き家である鮎貝氏を御一家(伊達氏親族等)に据えて優遇した。

 鮎貝兵庫宗定は、天正15年、兄宗信が伊達政宗に謀反し最上へ逃れると、鮎貝氏の後継となったが、文禄、慶長、寛永初期に至る30年の足取りが不明とされる。
 この間の所領は柴田郡堤村(宮城県柴田郡大河原町)でこの地に居を構えていたと僅かに伝えられますが、伊達家が激動を重ねていた時代に鮎貝氏が無為な歳月を送っていたとは考えられない・・・気仙沼市史

 記録にはその関りが示されながらも、その痕跡が不明といわれた柴田郡堤村での鮎貝氏、しかし、近年、大河原町の持明院の無縁墓地にて鮎貝宗重(日傾斉)の墓石が発見され、先代である宗重が柴田郡堤村に関りがあったことが証明されたようです。

 さらに宮城県大崎市(古川)の城代として鮎貝氏が一時期居たとする資料も発見されたということで、空白の30年も少しずつ紐解かれているようでもある。

 気仙沼市史では、鮎貝宗定が小友の鮎貝館に在館していたことは、史実であろうと結論付けている。
 また実際に気仙沼の煙雲館の鮎貝家ご末裔を訪ねた際に簡単な資料と共に、お話を伺うことができ、おそらく史実で遠野に関わりがあったものだうとしている。

 

 気仙沼には鮎貝氏家臣であった梅田家のご末裔も健在で、祖先は阿曽沼広長の弟で阿曽沼広重といわれている。

 「奥南落穂集」には阿曽沼主計広重の名も確かに確認され、阿曽沼一族であったのは間違いないものと思われ、遠野鮎貝館の鮎貝氏の存在、謎もまだまだ解明されておりませんが、道筋は見えてきたような雰囲気でもあります。

 

 小友川


 ただし、館跡を見ると明らかに五輪峠側の伊達領江刺郡を考えての構えであり、こちらも実は疑問でもある。


本宿館・遠野から盛岡南部家臣へ

2009-11-27 16:25:41 | 土淵

 

 

 

 

 

概要

 高楢山から南へ伸びる尾根の末端、小烏瀬川沿いの山野に位置している。

 土淵町本宿地区の西北の山野となりますが、東側は隣接山野との谷、南は急傾斜地を形成、西側は隣接山野との浅い谷となっている。

 北側は高楢山から伸びる尾根となっており、二つの堀切で尾根を断ち切っている。

 奥の尾根は東西の山野とつながっている。

 南部分の斜面には階段状の小さな平場5~7段が展開されており、内側の堀切から流れる空堀が西側斜面を巻くように駆け下り、斜面上部から現れる空堀と合流して南斜面に下っている。

 主郭は山頂の平場で東西約10メートル、南北約25メートルで北端は土塁がみられる。

 西側から下る空堀跡の下部にもさらに細かな階段状の平場が確認できるが、館は急斜面をうまく利用した構造となっている。

 

※なお、2007年に二度の探訪を実施したが、使用の画像は二度の探訪の際のものを混合したものとなっております。

 また、簡略図を掲載してますが、全てを網羅した内容ではないことをご了承願います。

 

北側尾根

 

内側の堀切

 

頂部平場(主郭)

 

西側斜面で合流する空堀

 

南側斜面の階段状平場

 

歴史等

 館主を本宿老之亟家久と伝えられる。

 家久は気仙郡内に住し本姓鈴木氏といわれるが天正の頃、遠野に流浪し、時の遠野領主、阿曽沼広郷に仕えたといわれる。

 本宿村を知行し、広郷の娘を妻として在名での本宿を名乗ったと伝えられる。

 後に阿曽沼氏が没落すると太守、南部利直から厚遇で迎えられ800石で仕えたといわれるが、仔細は不明である。

 ただし、南部家に仕えたの事実で、子の家重の時に150石、さらに家治の代、寛永4年(1627)八戸弥六郎直義の遠野入部時に岩手郡内(滝沢村大釜)に150石を賜り転封、遠野を去った。

 本宿老之丞家久→因幡家重→弥兵衛家治~・・・・

 盛岡南部藩士と命脈を伝え家禄120石9斗8升3合の家柄とある。


興光寺館・主家に殉じた忠義の一族

2009-11-25 15:54:29 | 松崎

 

 

概要

 高清水山から南東に延びる尾根の先端部、猿ヶ石川及び国道283号線遠野バイパス沿いにある山野に位置している。

 東、西、南側は急な斜面となっており、西側は隣接山野との谷、南側は上部に5、6段の平場が展開しており、下部付近は急傾斜地となっている。

 東側は上部斜面に空堀跡がみられ東斜面を下っている。

 主郭は山頂部分を削平して平場と成した場所であるが背後の北側には山野続きの尾根を二重の堀切で断ち切っている。

 堀跡は西側の谷に一本は落ち込み、内側の堀は西斜面を巻くように南側へ下っている。

 途中から帯郭的平場と思われる狭い平場に形状変化しているが、かつては空堀だったものと思われる。

 全体的にこじんまりとまとまった館跡であるが、伝えによればさらに奥部の高い山野は見張台として活用され、また西側の隣接山野も館の一部であったといわれるが確認等はできなかった。

 

 

 

西側の平場(空堀跡)

 

主郭背部(北側)の堀切跡

 

主郭側の空堀と土塁跡

 

奥部の堀切跡

 

北側尾根から主郭側

 

館主・興光寺氏

 館主を興光寺靭負(こうこうじゆきいえ)と伝えられ、天正~慶長年間はじめに活躍した人物とみられる。

 館の歴史を調べた先人郷土史家の資料によると、興光寺氏は安部時代からこの地にあった安倍一族の家臣で産鉄に関わりある一族であったと考察されますが、出典は東日流外三郡誌とあるので、信ぴょう性は問われそうでもある。

 ただ、光興寺地区には産鉄に関わったと思われる鉄穴流の跡や金ヶ沢の地名もあり、何かしら関係はあったものかもしれません。

 いずれその出目については不明である。

 

 慶長5年、主家である阿曽沼広長は太守、南部利直の命で上杉景勝攻めの為、南部勢旗下として最上に出陣する。

 この時、興光寺靭負は松崎館の松崎監物と共に一方の侍大将として出陣したと伝えられる。

 阿曽沼広長が遠野を留守にした間、阿曽沼一族で重臣の鱒沢左馬介広勝(鱒沢館主)と広長の叔父である上野右近広吉、同じく家臣の平清水駿河景頼が謀反し横田城(鍋倉城)を制圧したとされる。(遠野騒動)

 最上の陣から遠野へ帰参する阿曽沼広長は江刺郡境の五輪峠で伏兵のため、遠野入りが叶わず、気仙郡世田米の舅、世田米修理広久(阿曽沼広久)の許へ亡命する。

 この時、興光寺靭負も広長と行動を共にして世田米へ落ちたといわれる。

 この後、気仙郡を領する伊達政宗の後援を受けて阿曽沼広長は3度の遠野奪還戦を挑んだが、その2回目の戦い、赤羽根峠の戦いで興光寺靭負は奮戦及ばす、松崎監物と共に討死と伝えられる。

 結局、阿曽沼氏の遠野奪還は成らなかった。

 興光寺館に居た興光寺靭負の家族や一族がその後どのような運命を辿ったかは全く伝えられていない。

 

 いずれ、勝者によって敗者の歴史は葬られただろうと思いますが、それでも阿曽沼氏の忠臣、興光寺靭負の名のみは後世に伝えられている。

 


狐崎館・戦慄の釜石の陣

2009-11-24 15:23:28 | 釜石

 

 

概要

 館跡は釜石湾に突き出た北方からの延びた丘陵上にあり、眼下には釜石湾を望み、西側は釜石市街地を望むロケーションとなっている。

 北側は山続きとなっており頂部の平場が主郭であり、北側の尾根を一重の堀切で断ち切り、主郭には2段の狭幅な帯郭的平場が周囲を取り囲んでいる。

 西側は急傾斜地となっているが3段程度の階段状の平場が確認できこの方面は搦手と思われる。

 下部には寶樹寺があり、寺回りにも数段の平場が確認できる。

 東側は主郭側から延びる尾根と山野下部付近から延びる尾根があるが、どちらも南斜面に2段~3段の平場が残されている。

 東端の斜面及び南側は断崖となっているが、釜石湾に面した南東部に大手があったといわれている。

 狐崎館はふたつの郭からなる館と考察され、北側山頂の主郭、二の郭は下部の東尾根部分と推察される。

 

 二の郭部分から釜石湾を望む

 

寶樹寺南側の平場

 

主郭背部(北側部)の堀切跡

 

 

 

主郭周りの段差

 

西側斜面の段差(空堀跡と思われる)

 

釜石の陣

 遠野史等によると、中世当時の釜石は遠野阿曽沼氏の領域で、狐崎館には狐崎玄蕃という家臣を配してしたと伝えられている。

 後に玄蕃は遠野附馬牛へ移封となったと伝えられ、またの名を荒谷玄蕃ともいわれも詳細等は不明である。

 ただ、館の西側麓はかつて荒谷屋敷と呼ばれていたとかで、遠野の附馬牛町にも荒屋の地名があり、玄蕃は附馬牛町の荒屋に移封されたものか?後の時代の慶長初めの守将が新谷氏(荒谷)ともいわれますが、いずれその関連も不明である。

 また、釜石近在は阿曽沼支族、大槌氏の範疇でもあったとも語られますが、やはり仔細は不明である。

 

 さて、狐崎館に関わる歴史的事件として釜石の陣の事が伝えられている。

 

 慶長6年(1601)7月、釜石狐崎館の新谷肥後は、葛西旧臣の鹿折信濃(本吉郡鹿折村忍城主・現気仙沼市浪枝)とその配下、金堀衆、その他葛西氏に縁ある武士達を狐崎館に集め、伊達政宗に対して武装蜂起をしたというものであった。

 伊達政宗は気仙郡代官、中島大蔵信貞に狐崎館攻めを命じ、その旗下には磐井郡東山の大肝入、白石豊後、大原の大肝入熊谷元重、気仙の大肝入臼井因獄他野武士、足軽、総勢3百人余をかき集め、さらに政宗の旗本たる岩出山の直臣達も加わって、海路と陸路にて釜石へ進撃したと伝えられる。

 対する狐崎篭城軍は160名余といわれ、壮絶な戦いが繰り広げられるも、海路から上陸した伊達勢が攻撃に加わると、狐崎館側は敗色濃厚となり、160名余のほとんどが討ち取られたり、捕縛されて首を刎ねられたと伝えられる。

 館跡の東側には首切沢という地名が残され、さらになんとか逃れた葛西氏の旧臣葛西六郎は水海海岸辺りまで逃げたが、共に逃れた自らの郎党によって毒殺されたと伝えられる。

 伊達勢の敗者に対する措置は凄惨を極め、打首はもとより全員の鼻を削いで塩漬けにして江戸表へ移送したとか・・・・。

 (貞山公尊伝・巻21・慶長6年條)一部参照

  この時、伊達政宗は西は和賀、稗貫の遺臣達を支援して南部領の和賀、稗貫各郡へ侵攻、西では釜石へ侵攻、中央部の遠野でも阿曽沼広長を擁して遠野侵攻を企て、まさに北侵の野望ととれる内容でもある。

 三方向とも南部領であり、何故に南部領である釜石狐崎館に一揆鎮撫とはいえ侵攻して来たのか?狐崎館は先に気仙落ちした阿曽沼広長が遠野奪還を目指しての進撃ルートとして仮定しての守りを強化する為に南部利直、さらに遠野方が新谷肥後を守将としたものと思われる。

 また新谷肥後は兵力を補うために旧葛西氏遺臣等を館内に入れての防備強化だったのではと推察しております。

 

 翌慶長7年春、和賀、稗貫一揆が鎮圧され花巻駐留の南部勢が遠野勢と共に狐崎館攻撃に進発するが、伊達勢は戦う前に狐崎館を放棄して引き揚げたと伝えられる。

 以後、釜石地域は南部利直が把握する地域となり、大槌孫八郎政貞に与えられた。

 間もなくその大槌氏も絶家となり南部家の完全支配となった。

 

 狐崎館の新谷氏(荒谷)・・・

 一説には本姓菊池の平清水氏の一族ともいわれる。

 


西門館・謎の一族みさ崎氏

2009-11-22 16:41:45 | 綾織

 

 

 

概要

 西門館は別名みさ崎館とも呼ばれ、北東の高清水山からの尾根の南西突端に築かれた山城である。

 国道396号線沿いに位置し、主郭、二の郭のふたつの郭をもち、主郭側は二重の空堀で周囲を囲み、主郭背部の堀切は三重堀で、堀と堀の間には土塁がみられ、堀は複雑に交差している。

 主郭下は3段の帯郭的平場が展開され、さらにその下部にも3段程度の平場が確認できる。

 主郭部と二の郭は一重の堀切で区切られ、二の郭の平場には八幡社が祀られている。

 さらに南西側に平場は伸びており、その先端部には3段の平場が階段状に残されている。

 見張場的な郭だと推測されますが、猿ヶ石川沿いの綾織町や宮守町上鱒沢地区が遠望できるロケーションとなっている。

 

北側尾根の空堀跡

 

堀切と土塁跡

 

主郭下の帯郭的平場

 

主郭と二の郭を区切る堀切跡

 

二の郭南西突端の段差

 

八幡社

 

歴史等

 館主をみさ崎(みさは身鳥)氏と伝えられ、みさ崎右京という館主名が語られる。

 遠野郷地頭となった下野国佐野の阿曽沼氏は、当初、重臣の宇夫方氏を地頭代として派遣しての遠隔統治だったと伝えられる。

 直接統治を任された宇夫方氏にとって、遠野西方の土豪としてまずはみさ崎氏を服従させる必要があったといわれ、遠野入部初期の課題といえそうでもある。

 伝えでは、宇夫方氏の娘をみさ崎右京に嫁がせ、婚姻による同盟で平和的に関係を解消させたといわれますが、鎌倉時代末期には宇夫方氏は綾織町の西方面に勢力浸透を行い谷地館を築いて居館としたといわれますので、早い段階でみさ崎氏を勢力下へ取り込んだものと思われます。

 しかし、みさ崎氏の西門館は極めて戦国的な構えの館跡と感じられ、宇夫方氏入部当初の西側強豪勢力のひとつという考え方が成り立つかは不明な点も多くあってよくわからないが現状でもある。


長洞館・伝承無き館跡

2009-11-21 16:18:29 | 遠野

 

 

 

概要

 遠野市街地から上郷町来内に至る遠野町〆田地内、来内川西岸斜面に築かれた館である。

 南側斜面上部から2本の空堀が下り、北東側斜面を駆け下って中央部に至り、西側から下る空堀と合流して谷へ落ち込んでいる。

 斜面中央部より北側の斜面にも同様の空堀跡がみられ、川側の北東斜面には2~3段の平場が確認できる。

 近年、山野中腹の頂部背面部分の伐採作業が行われ、木出しのための林道が敷設され、どうやら一部空堀跡を拡張しての工事が行われた模様でもある。

 この為、背面の堀切等が破壊された可能性もあり、主郭部の山頂上部に関してはその遺構等の把握はできなかった。

 

 

 

川側、北東斜面の帯郭

 

斜面中央部で合流する空堀跡

 

北端の空堀跡

 

南側上部の空堀跡

 

 

主郭部

 

 

歴史等

 近隣地域で古に館があったというのみであり、築年代、館主含み、ほとんど伝承されておらず不明。

 その昔、気仙郡への道に通じる場所でもあり、また近くの来内地区は、産鉄、産金の盛んな時代もあったといわれ、その関係で築かれた館なのかもしれない。

 小規模ながらも防御性をよく吟味した館跡でもあり、館に関わる伝承がないということ残念でもあります。

 


林崎館・遠野細越一族

2009-11-20 17:16:22 | 上郷

 

 

概要

 遠野市上郷町細越地内、山野の中央が切り取られた切り通し部分の東側に位置している。

 道路が通る切り通し部分はかつては館の空堀跡とされ、現在遺構等が若干残る山野も含む広大な館域を誇る当地方でも有数な城館だったと考察されている。

 しかし、近年、道路及び農地に転用となり、大部分が削り取られて往時の姿を望むことはできない。

 東側の山野は側のみ残し山野としての形状は保ってはいるが上部の中央部は、畑として耕作され、重機等によって削平され、こちらも遺構等を見ることはできない。

 道路側からみる山野斜面には、3段~4段の平場が確認でき、西から南部分の斜面全域にわたっている。

 館内中央部への通路があるが、かつての堀跡と確認できるも、これ以上その全容を把握することは難しい・・・。

 

道として利用される空堀跡

 

西側内部の段差

 

西側斜面の帯郭的平場

 

館跡内部、中央部

 

 

館主、細越氏

 館主を細越惣兵衛と伝えられる。

 細越氏は一説によると多田氏系の一族ともいわれ、気仙郡から来住との考察がされるも、どのような過程で遠野に至ったかは不明である。

 天正末期の頃、葛西領江刺郡の郡主、江刺氏の内訌があり、郡内の乱れに乗じて遠野領主、阿曽沼広郷は軍勢を整えて江刺郡へ侵攻したと伝えられる。

 遠野勢は郡主江刺重恒の居城、岩谷堂城近くまで進撃するも、江刺氏を見限ったと思われた郡内の小領主達が遠野勢を攻撃、四面楚歌に陥りかけた阿曽沼広郷は軍勢を撤退させたが、この時、遠野勢の殿を務めたのが細越与惣(惣兵衛か?)で、撤退戦で討ち死にと伝えられる。

 細越氏には本姓菊池、平清水平十郎景光の三男、与三郎が養子となり細越氏を継承したとされるが、林崎館は至近に菊池一族切懸氏の大寺館、平倉氏の刃金館があり、与三郎が細越氏を継いだ頃に、菊池一族にその知行地の一部が割譲されたのではないのか?

 林崎館は停廃され、さらに東の山野に森下館が築かれ、細越氏は移動したものと推測される。

 森下館の細越氏当主は、細越与三郎敏広とも語られ、後に阿曽沼氏没落後は一時浪人となるも南部利直に仕え、南部家臣となり遠野の地を去りながらもその命脈を伝える。


大館、小館・古刹門前の館跡

2009-11-19 18:29:01 | 附馬牛

 

 

 

概要

 附馬牛町東禅寺大萩集落南西端、大寺沢川を挟んだ山野に位置している。

 

○大館

 山野全体を2~3重の空堀で囲み、さらに中央部には東側から流れる空堀が横断、その上部に5段程度の帯郭的平場を設けている。

 主郭部は最上部で東西約35メートル、南北約15メートルの平場となっている。

 背面の南側は隣接山野との斜面を2重の堀切で断ち切っているが、東側へは3重に枝分かれして下り、複雑な造りとなっている。

 西側部は大寺沢川沿いに急傾斜地となっているが、館内部の斜面には3重の空堀跡がみられる。

 

○小館

 大館の北東に隣接の小山であるが大館とは山野がつながっており、先人史家達の見解では館主が日常住まいする屋敷があった館であるとし、大館は有事の際に籠る館としている。

 小館は東部に3段程度の平場を設け、北側部にも帯郭的な数段の平場を設けていたといわれるが近年、牛の放牧場として削平され、草地となってその痕跡を見出す事は叶わない状態である。

 

 

北東側下部の土塁跡

 

中央下部の空堀跡

 

主郭背面の東寄りの堀切跡

 

主郭背部の堀切、土塁跡

 

主郭背部の堀切跡

 

 

背面の空堀跡(西側へ下る)

 

小館の帯郭的平場跡

 

 

歴史考察及び館主について

 館主は言い伝えによる大萩円源といわれる。

 剃髪した武将というイメージであるが、この館から2キロほど先の山野には、かつて遠野地方随一と伝えられる臨済宗寺院、大宝山東禅寺があり、最盛期には僧200人、大伽藍を配した東北でも有数な寺院であったと伝えられる。

 その創始は14世紀ともいわれるが室町期には既に存在していただろうと発掘調査等含め研究では明らかになっている。

 その東禅寺は慶長5年(1600)の兵火で大半が失われたとも伝えられますが、後に江戸初期、盛岡南部家によって盛岡北山に遷され現在に至っている。

 遠野においては、今でもその末寺が健在で古の隆盛を物語っている。

 

 東禅寺があった場所は、当時、横田城下や同時代、山岳宗教、密教の拠点であった大出の早池峰山妙泉寺へ至るルートが開かれており、まさにそのルート沿いにあった寺院であったが、大萩の大館小館は妙泉寺、横田城下へ至る街道の分岐点辺りに位置しており、極めて重要な場所でもあった。

 大萩大館、小館は東禅寺に縁ある館であったのか、それとも大寺院勢力をけん制する狙いで遠野領主阿曽沼氏の息のかかった武将を配置していたのかは不明である。

 私的な考えでは、前者の寺院と関係が深い館であったような雰囲気が感じられます。