遠野郷中世城館録

奥州陸奥国遠野(岩手県遠野市及び周辺地域)の城館跡の探訪調査記録のご紹介

鐘衝場の館・大楢館

2011-01-26 18:20:05 | 土淵

 

 

概要

 国道340号線、小烏瀬川西岸の山野内に館は残されている。

 館跡の南麓には大楢集落が佇む。

 館は上画像の中央の山野であるが、尾根続きの北側山野は一本の堀切で切断し、堀跡はそれぞれ東西斜面へ下っている。

 東側は崖状の急斜面となっており、斜面下は小烏瀬川、東側は雑木の斜面となって谷状となっている。

 南側は段丘5段が確認でき、西~北、頂部の平場を囲むように一段の帯郭的平場が形成されている。

 

 山頂は東西約10m、南北30mで、館の造りは単純で北側尾根に堀切、南面斜面に5段の腰郭を配したのみである。

 

西側から山頂

 

北側から山頂

 

堀切

 

南斜面段丘(腰郭)

 

歴史等

 館主、築年代等不明。

 地域伝承として、見張場的な館で鐘衝場があったと語られている。

 小烏瀬川沿い、さらに北側約2キロにこの地域最大規模の山城、角城館があり、その出城では?或いは見張場として有事の際に鐘を衝いて異変を知らせる館であったとも言われますが、その詳細については不明である。

 なお、小烏瀬川沿いの土淵町の館跡は僅か5キロ程の間に北から、栃内館、角城館、大楢館、本宿館、八幡館(松崎町)が残されている。


五日市館

2010-01-26 18:33:09 | 土淵

 

 

 

概要

 遠野市土淵町、五日市集落南西側山野、国道340号線沿いに位置している。

 山頂には愛宕社が祀られ、山麓の国道脇の鳥居が目印である。

 

 山頂平場は低い段差の二段となっており、ほぼ南北に長くなっており、山頂周囲は3~4段の帯郭的平場が斜面に配置されている。

 土塁や空堀といった防御性工作物は残されていないが山頂の直ぐ下部を取り巻く段差は、かつて空堀であった形跡も感じられる。

 しかし、全体的にはコンパクトにまとめられ、斜面に残される階段状の平場の配置等は見応えがあり、阿曽沼氏の主城、横田城や松崎方面、小烏瀬川沿いの土淵方面が見渡せるロケーションとなっている。

 

山頂

 

北東側の段差

 

東側の段差

 

南側

 

西側斜面

 

歴史等

 館主は地域伝承によると立花 縫と語られている。

 立花氏は主家阿曽沼広長が没落と同時に共に館主の座を失い、遠野を離れたともいわれ後に遠野に再び至ると修験者となったとも語られている。

 また別説では館主を五日市又左衛門或いは又五郎ともいわれますが、遠野旧事記等の史料では五日市又五郎の名も散見でき、五日市館に大きく関わった人物と推測される。

 立花氏と五日市氏が同一人物、同系統なのかは不明であるが、五日市氏は八戸根城の八戸直義が遠野へ入部する寛永4年までは阿曽沼旧臣として南部太守の南部利直配下とし遠野にあったことは、ほぼ間違いないものと思われる。

 

 五日市はその名の通り、5日に市が立っていた地域で、阿曽沼時代に市で賑わっていた地域とも伝承されている。

 先にも記しているが、見晴らしがよく主家の居城横田城や松崎、そして小烏瀬川沿いの土淵地域の一部、すなわち遠野盆地の主たる地域を見渡せる絶好の位置付けであり、市で賑わう集落のみならず横田城へ至る平野部の監視といった意味合いもあったのだろうと想像できる館であったと思われる。


本宿館・遠野から盛岡南部家臣へ

2009-11-27 16:25:41 | 土淵

 

 

 

 

 

概要

 高楢山から南へ伸びる尾根の末端、小烏瀬川沿いの山野に位置している。

 土淵町本宿地区の西北の山野となりますが、東側は隣接山野との谷、南は急傾斜地を形成、西側は隣接山野との浅い谷となっている。

 北側は高楢山から伸びる尾根となっており、二つの堀切で尾根を断ち切っている。

 奥の尾根は東西の山野とつながっている。

 南部分の斜面には階段状の小さな平場5~7段が展開されており、内側の堀切から流れる空堀が西側斜面を巻くように駆け下り、斜面上部から現れる空堀と合流して南斜面に下っている。

 主郭は山頂の平場で東西約10メートル、南北約25メートルで北端は土塁がみられる。

 西側から下る空堀跡の下部にもさらに細かな階段状の平場が確認できるが、館は急斜面をうまく利用した構造となっている。

 

※なお、2007年に二度の探訪を実施したが、使用の画像は二度の探訪の際のものを混合したものとなっております。

 また、簡略図を掲載してますが、全てを網羅した内容ではないことをご了承願います。

 

北側尾根

 

内側の堀切

 

頂部平場(主郭)

 

西側斜面で合流する空堀

 

南側斜面の階段状平場

 

歴史等

 館主を本宿老之亟家久と伝えられる。

 家久は気仙郡内に住し本姓鈴木氏といわれるが天正の頃、遠野に流浪し、時の遠野領主、阿曽沼広郷に仕えたといわれる。

 本宿村を知行し、広郷の娘を妻として在名での本宿を名乗ったと伝えられる。

 後に阿曽沼氏が没落すると太守、南部利直から厚遇で迎えられ800石で仕えたといわれるが、仔細は不明である。

 ただし、南部家に仕えたの事実で、子の家重の時に150石、さらに家治の代、寛永4年(1627)八戸弥六郎直義の遠野入部時に岩手郡内(滝沢村大釜)に150石を賜り転封、遠野を去った。

 本宿老之丞家久→因幡家重→弥兵衛家治~・・・・

 盛岡南部藩士と命脈を伝え家禄120石9斗8升3合の家柄とある。


山口館・交通の要衝の抑え

2009-11-16 13:02:08 | 土淵

標高450m・比高70m

 

 

概要

 土淵町山口集落の東、現薬師堂が祀られる山野一帯が館跡である。

 遠野地域でも比較的大型城館跡に属し、薬師堂と隣接の山野は2本の空堀で仕切られ、一本はそのまま東斜面に下り、もう一本は東部分斜面を巻くように上部より流れ、反対側は2本共に下部中央部分を駆け下って西北部分に至っている。

 2本の空堀の内側の斜面上には尾根沿いに平場が展開されており、下部は3段程度の帯郭的な平場が確認でき、尾根沿いの高い場所の平場が主郭と思われ、背後は一重の堀切、空堀跡が確認できる。

 北側は隣接山野との谷となっており、館側の斜面には二重の空堀が残されている。

 さらに斜面上の林道はかつては堀跡の痕跡を残し、主郭背面の空堀からの流れと判明している。

 下部は土塁や簡略的な平場が林道沿いに展開されており、虎口跡と推測される。

 

 近年、館山で杉木の伐採作業が行われ、木出し用の林道が空堀跡を拡張させて林道と化し、主郭背面の空堀跡も林道となっている。

 地元城館跡資料にはさらに上方の山野も館の一部で若干の段差が見られるとしているが、伐採作業等で山肌は荒れ、その確認はできなかった。

 遺構の配置等から、防御上よく設計施工された館跡である。

 

 薬師堂境の空堀跡

 

 

堀切

 

 

主郭部平場

 

薬師堂境の空堀2重目

 

歴史等

 館主を山口修理と伝えられる。

 山口館を築く以前は同町内の柏崎館を居館としていたと伝えられるも仔細は不明である。

 山口地区は、沿岸部とを結ぶ遠野側峠道の山麓に位置し、遠野と三陸沿岸を結ぶ交通の要衝としての位置付けが強かった地域との認識である。

 この地域を治める山口一族が何者であったかは語られていないが、交通の要衝を抑える重要拠点でもあり、その勢力も決して弱いものではなかったと推測される。

 しかし、その事績はほとんど語られず残されていない。

 

 遠野物語18話、座敷童子の話の中で登場の山口孫左衛門は山口館主であった山口一族の末裔と語られている。

 土淵町山口集落は遠野物語での主たる舞台でもあり、現風景に原風景が残される希少な雰囲気が漂う場所でもある。

 かつて館が隆盛を極めていた時代を思い起こすことは叶わないが、相当な戸数を従えた館主であっただろうと思うのみである。