遠野郷中世城館録

奥州陸奥国遠野(岩手県遠野市及び周辺地域)の城館跡の探訪調査記録のご紹介

大館、小館・古刹門前の館跡

2009-11-19 18:29:01 | 附馬牛

 

 

 

概要

 附馬牛町東禅寺大萩集落南西端、大寺沢川を挟んだ山野に位置している。

 

○大館

 山野全体を2~3重の空堀で囲み、さらに中央部には東側から流れる空堀が横断、その上部に5段程度の帯郭的平場を設けている。

 主郭部は最上部で東西約35メートル、南北約15メートルの平場となっている。

 背面の南側は隣接山野との斜面を2重の堀切で断ち切っているが、東側へは3重に枝分かれして下り、複雑な造りとなっている。

 西側部は大寺沢川沿いに急傾斜地となっているが、館内部の斜面には3重の空堀跡がみられる。

 

○小館

 大館の北東に隣接の小山であるが大館とは山野がつながっており、先人史家達の見解では館主が日常住まいする屋敷があった館であるとし、大館は有事の際に籠る館としている。

 小館は東部に3段程度の平場を設け、北側部にも帯郭的な数段の平場を設けていたといわれるが近年、牛の放牧場として削平され、草地となってその痕跡を見出す事は叶わない状態である。

 

 

北東側下部の土塁跡

 

中央下部の空堀跡

 

主郭背面の東寄りの堀切跡

 

主郭背部の堀切、土塁跡

 

主郭背部の堀切跡

 

 

背面の空堀跡(西側へ下る)

 

小館の帯郭的平場跡

 

 

歴史考察及び館主について

 館主は言い伝えによる大萩円源といわれる。

 剃髪した武将というイメージであるが、この館から2キロほど先の山野には、かつて遠野地方随一と伝えられる臨済宗寺院、大宝山東禅寺があり、最盛期には僧200人、大伽藍を配した東北でも有数な寺院であったと伝えられる。

 その創始は14世紀ともいわれるが室町期には既に存在していただろうと発掘調査等含め研究では明らかになっている。

 その東禅寺は慶長5年(1600)の兵火で大半が失われたとも伝えられますが、後に江戸初期、盛岡南部家によって盛岡北山に遷され現在に至っている。

 遠野においては、今でもその末寺が健在で古の隆盛を物語っている。

 

 東禅寺があった場所は、当時、横田城下や同時代、山岳宗教、密教の拠点であった大出の早池峰山妙泉寺へ至るルートが開かれており、まさにそのルート沿いにあった寺院であったが、大萩の大館小館は妙泉寺、横田城下へ至る街道の分岐点辺りに位置しており、極めて重要な場所でもあった。

 大萩大館、小館は東禅寺に縁ある館であったのか、それとも大寺院勢力をけん制する狙いで遠野領主阿曽沼氏の息のかかった武将を配置していたのかは不明である。

 私的な考えでは、前者の寺院と関係が深い館であったような雰囲気が感じられます。