概要
高楢山から南へ伸びる尾根の末端、小烏瀬川沿いの山野に位置している。
土淵町本宿地区の西北の山野となりますが、東側は隣接山野との谷、南は急傾斜地を形成、西側は隣接山野との浅い谷となっている。
北側は高楢山から伸びる尾根となっており、二つの堀切で尾根を断ち切っている。
奥の尾根は東西の山野とつながっている。
南部分の斜面には階段状の小さな平場5~7段が展開されており、内側の堀切から流れる空堀が西側斜面を巻くように駆け下り、斜面上部から現れる空堀と合流して南斜面に下っている。
主郭は山頂の平場で東西約10メートル、南北約25メートルで北端は土塁がみられる。
西側から下る空堀跡の下部にもさらに細かな階段状の平場が確認できるが、館は急斜面をうまく利用した構造となっている。
※なお、2007年に二度の探訪を実施したが、使用の画像は二度の探訪の際のものを混合したものとなっております。
また、簡略図を掲載してますが、全てを網羅した内容ではないことをご了承願います。
北側尾根
内側の堀切
頂部平場(主郭)
西側斜面で合流する空堀
南側斜面の階段状平場
歴史等
館主を本宿老之亟家久と伝えられる。
家久は気仙郡内に住し本姓鈴木氏といわれるが天正の頃、遠野に流浪し、時の遠野領主、阿曽沼広郷に仕えたといわれる。
本宿村を知行し、広郷の娘を妻として在名での本宿を名乗ったと伝えられる。
後に阿曽沼氏が没落すると太守、南部利直から厚遇で迎えられ800石で仕えたといわれるが、仔細は不明である。
ただし、南部家に仕えたの事実で、子の家重の時に150石、さらに家治の代、寛永4年(1627)八戸弥六郎直義の遠野入部時に岩手郡内(滝沢村大釜)に150石を賜り転封、遠野を去った。
本宿老之丞家久→因幡家重→弥兵衛家治~・・・・
盛岡南部藩士と命脈を伝え家禄120石9斗8升3合の家柄とある。
800石を知行されたというのが事実だとしたら、結構有力な人だったんでしょうね。
広長の遠野奪回戦のときの動きが気になります。
本宿家久が阿曽沼広郷の女婿であったかの仔細は不明です。
広長の遠野奪還戦の際は上野広吉方だったようです。
資料には南部利直より800石を与えられ閉伊郡の惣事とありますが、こちらもわかりません。
本宿村近辺に150石前後が妥当かとは思いますが、他の資料等を見てませんのでわからずです。