遠野郷中世城館録

奥州陸奥国遠野(岩手県遠野市及び周辺地域)の城館跡の探訪調査記録のご紹介

新谷館・遠野菊池党嫡家の系譜

2009-11-12 17:00:33 | 小友

 

 

概要

 新谷館は、小友町長野地区、国道107号線沿い新谷(荒屋)番所の西向いの山野にあり、種山から続く北東、長野川に至る山野に位置している。

 館が機能していた当時は、葛西家、後に伊達家が領有する気仙郡と隣接した地域でかつ金山地帯であったので、特に重要地域であったと推察でき、軍事、交通の要衝という位置付けであった。

 館跡は、東部分は長野川を天然の堀となし、背後の西側及び南側は山脈を形成し、北は隣接山野との谷となっており館山は一重の空堀で館山を囲み、背後の西部分は二重の堀切で山野を断ち切っている。

 他に南に2段程度の段丘、北側、東側に2段の帯郭が確認できる。

 比較的小規模な館跡と認識できるが、比高が100mを超える高所に位置し、東部分は急傾斜となっており、要所部分に防御性工事が施された整った形の館である。

 また、主郭部分は山頂部の平場2段で、奥は東西5~7m、南北15m、一段低い平場は東西6m、南北21m (数値は約) で、2段目平場の先端部には庭石風の工作物が配置されている。(糠森といわれるらしい)

 

北側の帯郭

 

北側の空堀跡

 

 

背面の山野を切断する堀切跡

 

主郭先端部分の糠森

 

館跡山麓下部の状況

かつての大手口等、通用口跡を林道とした形跡が感じられる。

 

菊池姓・平清水、新谷氏

 館主の新谷禅門景光は、最初、菊池平十郎景光と称し、後に小友長野地区平清水地域を領したことから在名での平清水氏を名乗り、平清水平十郎景光と名乗ったとされる。

 後に剃髪して禅門を名乗り、平清水は嫡子、平清水平右衛門景頼(後に駿河)に譲り、自らは同地区新谷に住したことから新谷氏を名乗ったとされる。(新谷と名乗ったのは子の出雲ともいわれる)

 小友は気仙郡から続く金鉱脈地帯で、特に長野地区は産金で栄え、平清水氏は知行高以上の遥かな潤いがあったものと推測でき、また平清水氏は産金関連に精通した一族であったのだろうと思われる。

 慶長5年、時の遠野盟主であった阿曽沼広長は一族で重臣の鱒沢広勝、上野広吉の謀反により気仙郡へ亡命、この時、禅門嫡子の平清水景頼も謀反に加担し、新谷禅門はその非道を嘆き、景頼以外の子を引き連れ、新谷館に籠ったと伝承される。

 景頼はその功により南部利直から大封を得て駿河と名乗り、遠野で重きを成す武将となったが後に南部家による策謀で切腹、断絶の憂き目となり、新谷一族もまた不遇の時代となったといわれる。

 しかし、禅門の子、駿河の弟、新谷新右衛門出雲は南部家に召し出され、気仙郡との境目勤番に召抱えられ、以後、遠野にあって新谷氏の系譜は続くことになる。

 新谷氏には新谷菊池系図なる遠野における菊池姓研究に必須の系図が残されておりますが、系図には新谷禅門景光の父は葛西家臣で江刺郡主、江刺氏執政の江刺角懸城主であり江刺菊池氏惣領といわれる菊池右近恒邦とあり、そのことを裏付ける内容として天正末期、江刺氏の内訌で菊池右近は江刺氏により郡内を追われる事件があり、その際に遠野へ逃れ、平清水氏と何やら接触する場面があったものと推測でき、後に書かれた菊池系図は、江刺角懸菊池氏と遠野新谷菊池氏の合作系図との識者等研究者の指摘がされている。

 

 いずれ遠野においては代表的な菊池一族、俗説では九州肥後(熊本)の菊池一族の奥州下向に伴う内容も語られ浪漫あふれる内容でもあって、今後の研究の成果を期待したいところですし、小生も及ばすながら、研究調査ができたらと思うところでもある。

 

 なお、本家ブログ、ブックマークにリンクの「じぇんごたれ遠野徒然草」に遠野の菊池姓関連の記載を若干しておりますので、参考までにご参照願えればと思います。

 本家ブログ内検索バーで遠野の菊池氏関連で出てくるものと思います。