遠野郷中世城館録

奥州陸奥国遠野(岩手県遠野市及び周辺地域)の城館跡の探訪調査記録のご紹介

上有住城・葛西領、北の大型城館

2009-12-03 16:37:59 | 気仙郡

 

 

概要

 城跡は気仙郡住田町上有住、八日町の西、玉泉寺裏の山野にある。

 中世期における葛西氏領の北端を守る拠点の城で、北で隣接の遠野郷、対南部氏に備える中心的な城であると考察されている。

 しかも大がかりな山城で連郭式縄張法で正確に造られた気仙郡世田米から遠野境に至る城館では最大規模、東西500メートル、南北250メートルの超大型の城跡といわれる。

 山頂は削平され、2段のかなり広い平場があり、 現在は公園風に整備されているが、玉泉寺側の南斜面には4段の帯郭が配され、北西側は大きめの帯郭一段、さらに斜面となって小さな土塁、空堀等が確認できる。

 北東側は2~3段の平場、その下は川へ落ち込む急斜面となり、東部分の突端は現在八幡社が祀られており、その部分も数段の帯郭が残されている。

 本丸の西部分は空堀で区切られ、さらに西の山野斜面にも空堀が確認でき、この空堀の奥の山野は二の丸といわれている。

 空堀は西部分山頂から南へ下り、逆側は北へ下っている。

 

 2度の探訪を実施したが2009年現在、まだまだ把握していない箇所も多く、今後の探訪等で随時記事や画像を追加予定です。

 

 

本丸

 

 

本丸西端の堀切

 

 

堀切よりさらに奥の空堀

 

本丸下、北西部の切岸、堀跡

 

歴史等

 城主は、葛西氏配下の気仙郡、千葉一族の千葉内膳成行(盛行)が築城と語られている。

 築年代は不明であるが、「仙台領古城書上」や「気仙郡古記」にみえる。

 気仙郡千葉一族惣領、浜田安房守広綱の居城、米ヶ崎城の支城という位置付けにもとれますが、いずれ葛西領の北端の中心的拠点であるのは、地理的位置等で十分感じることができる。

 千葉内膳の他に有住下野守、浜田喜六が城主であったことが伝えられている。

 

 慶長6年(1601)春、浜田喜六は先に遠野を追放され世田米城の世田米広久に庇護されていた遠野旧主、阿曽沼広長が伊達政宗の後援を受けて気仙勢を以て遠野奪還の兵を繰り出す際に気仙勢の大将格として名が登場する。

 遠野市史や釜石市史で記された平田の戦い(へいた)(釜石市平田)は実は気仙郡内、現住田町下有住外根岸の平田砦(ひらた)周辺で行われた大合戦であったと明らかになっている。

 平田砦は上有住城から西方、直線で1キロ足らずの場所で、上有住城の支城であったといわれている。

 南部利直に支援された鱒沢広勝率いる遠野勢が遠野奪還を目指す阿曽沼広長に機先を制すべく、気仙郡内へ攻め入った戦いでこの際、迎撃に出た浜田喜六は討ち死にしたと伝えられる。

 平田の戦いについては、平田砦(城)を取り上げる際に詳細を掲載したいと思います。

 浜田喜六は浜田安房守広綱の弟といわれている。