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遠野郷中世城館録

奥州陸奥国遠野(岩手県遠野市及び周辺地域)の城館跡の探訪調査記録のご紹介

桑原館・物見場の館跡

2010-01-06 18:20:47 | 附馬牛

 

 

 

概要

 桑原館は附馬牛町桑原地区内に残されており、県道土淵~達曽部線沿いの北側山野に位置しており北東から南西にかけて展開された館跡である。

 北側から延びる尾根を一重の堀切で区切り、空堀一重は山頂を包むような形状であるも、土砂の堆積や風化が著しくその形状をようやく保つ程度となっている。

 山頂平場には土塁跡か?土盛のようなこんもりとした形状がみられますが先人郷土史家によると塚ではないのか?と考察されている。

 南側斜面に5~6段の階段状平場が配置され、南東側先端は物見場と解されている。

 南西側にも段階的に小さな平場が展開されている。

 

 東、南部分は急斜面、西部分も隣接山野とを隔つ谷状となっているものの北側は尾根でつながっている。

 

山頂平場(主郭)

 

空堀跡

 

南西側へ落ち込む空堀跡

 

南側斜面の階段状の形状

 

歴史等

 館主を桑原左近と伝えられ、この山城は以前の館で隣接に新館たる平山城形式の屋敷があったともいわれますが、詳細は不明である。

 後に附馬牛火渡館の火渡広家の家臣、大野源左衛門の名も語られるも、大野館は北方約2キロ、大野集落近在に屋敷を構えていたと伝えられ、桑原館は物見的な役割であったと推測される。

 桑原地区は中世当時、山岳信仰の聖地的意義があったと推測される大出の早池峰山妙泉寺への道すがらであり、また火渡氏の知行地である附馬牛中心部への北の入り口でもあった。

 また遠野三山のひとつ石上山を真っ向に望む場所でもあり、東禅寺から遠野城下に至る街道を監視する好位置でもある。

 

 火渡氏が附馬牛に入る前から、遠野地方の文化、宗教的な中心は附馬牛にあっただろうと思われ、早くから開発されていた土地でもあったと推測される。

 


火渡館・義の戦い、火渡館の変

2009-11-30 17:07:05 | 附馬牛

 

 

日本城郭大系掲載の縄張図

 

概要

 館跡は猿ヶ石川と荒川の合流点より北東に約500メートルに位置する山野にある。

 館跡山野下には県道土淵・達曽部線が通り、バス停「日渡」の直上の山野から東側のさらに小高い山野までが館域となっている。

 主郭は東側山野の山頂で、平場には愛宕社が鎮座している。

 社のある山頂から北西側の斜面に7段から成る帯郭が配置され、北側部分の斜面には3重の空堀が山頂下より下り、堀切は複雑に交差しており北側、東側の斜面をそれぞれ駆け下っている。

 西側は急斜面となっており上部に3段の平場が展開し、斜面沿いに北西側に至れば、主郭から続く帯郭の先端部には山野を区切る堀切が施され、バス停側上部の山野側となる。

 バス停側の山野には、3~4段程度の階段状の平場が構築され、こちら部分は二の郭と推測される。

 こちら部分の北側斜面にも空堀跡が見られ、かつての門跡と思われる土盛や窪みが見られる・・・裏門跡と考察されている。

 当地方では大規模な館跡に区分され、遺構の残存度も良好で見応えある館跡である。

 

主郭

 

主郭西側下の帯郭

 

主郭下、南側斜面の空堀(参道上部付近)

 

北側~東側の三重空堀

 

主郭背後の堀切

 

 

主郭つつぎの斜面の階段状平場

 

二の郭との間の堀切

 

北側の中腹の土塁跡(空堀合流付近)

 

火渡氏と火渡の変

 館主を火渡氏と伝えられ、伝承では火渡氏二代の居館と伝えられる。

 一説には、阿曽沼氏支族ともいわれ、東禅寺地区を除く附馬牛地域を知行したことから附馬牛殿とも呼ばれていた。

 火渡中務の子、火渡中務広家は、後に玄淨を名乗り、火渡玄淨広家として後の世の、地域に語られる武将として生きづいている。

 

 慶長5年(1600)、遠野惣領の阿曽沼広長は南部利直に従って南部勢の一員として兵を率いて最上の陣に赴く。

 この留守を狙って阿曽沼一族で重臣の鱒沢広勝、広長の叔父、上野広吉、阿曽沼家臣の平清水景頼が主となって、遠野横田城(鍋倉城)を制圧、各地の小領主達を集めて広長の追放、遠野制圧を宣言し、協力を求めたとされる。

 各館主、小領主達のほとんどが鱒沢氏に同意する中、火渡広家のみは、その非道を責め、節を曲げずに火渡館に家臣郎党を糾合して謀反勢を迎え撃つべく、籠城したといわれる。

 鱒沢広勝による再三の説得にも応じず、ついに遠野勢が附馬牛に侵攻、戦いの火蓋が切って落とされる。

 火渡館方は士気も旺盛で広家の重臣、大野源左衛門の奮闘もあり、よく持ちこたえていたが、多勢に無勢、火渡方の矢玉も遂に切れ、落城は時間の問題となり、大野等は広家を沿岸地方の大槌に逃し、大族大槌孫八郎を頼り再起を図ることとし、火渡玄淨広家は自刃したことにして、その亡骸を白布に包み、東禅寺へ葬ると称して館からの脱出を図るも、敵兵に見つかり、広家は白布ごと槍で突かれて落命と伝えられる。

 節を曲げず主家への義を貫いた火渡氏はここに敗れるも、広家の子、左助(12歳)は東禅寺に匿われていたため難を逃れ、閉伊郡山口村(現土淵町山口或いは宮古地方なのかは不明)に隠遁し、後に父玄浄の義ある死を賞賛した南部利直に見出されて、山口村に食禄50石にて南部家臣として召抱えられた。
 左助は山口内蔵助と名を改め、南部家臣山口氏は釜石氏等の分家も輩出してその後7系を数え存続した。

 

 

火渡館概略図 

 

全てを網羅しているものではありません。


大館、小館・古刹門前の館跡

2009-11-19 18:29:01 | 附馬牛

 

 

 

概要

 附馬牛町東禅寺大萩集落南西端、大寺沢川を挟んだ山野に位置している。

 

○大館

 山野全体を2~3重の空堀で囲み、さらに中央部には東側から流れる空堀が横断、その上部に5段程度の帯郭的平場を設けている。

 主郭部は最上部で東西約35メートル、南北約15メートルの平場となっている。

 背面の南側は隣接山野との斜面を2重の堀切で断ち切っているが、東側へは3重に枝分かれして下り、複雑な造りとなっている。

 西側部は大寺沢川沿いに急傾斜地となっているが、館内部の斜面には3重の空堀跡がみられる。

 

○小館

 大館の北東に隣接の小山であるが大館とは山野がつながっており、先人史家達の見解では館主が日常住まいする屋敷があった館であるとし、大館は有事の際に籠る館としている。

 小館は東部に3段程度の平場を設け、北側部にも帯郭的な数段の平場を設けていたといわれるが近年、牛の放牧場として削平され、草地となってその痕跡を見出す事は叶わない状態である。

 

 

北東側下部の土塁跡

 

中央下部の空堀跡

 

主郭背面の東寄りの堀切跡

 

主郭背部の堀切、土塁跡

 

主郭背部の堀切跡

 

 

背面の空堀跡(西側へ下る)

 

小館の帯郭的平場跡

 

 

歴史考察及び館主について

 館主は言い伝えによる大萩円源といわれる。

 剃髪した武将というイメージであるが、この館から2キロほど先の山野には、かつて遠野地方随一と伝えられる臨済宗寺院、大宝山東禅寺があり、最盛期には僧200人、大伽藍を配した東北でも有数な寺院であったと伝えられる。

 その創始は14世紀ともいわれるが室町期には既に存在していただろうと発掘調査等含め研究では明らかになっている。

 その東禅寺は慶長5年(1600)の兵火で大半が失われたとも伝えられますが、後に江戸初期、盛岡南部家によって盛岡北山に遷され現在に至っている。

 遠野においては、今でもその末寺が健在で古の隆盛を物語っている。

 

 東禅寺があった場所は、当時、横田城下や同時代、山岳宗教、密教の拠点であった大出の早池峰山妙泉寺へ至るルートが開かれており、まさにそのルート沿いにあった寺院であったが、大萩の大館小館は妙泉寺、横田城下へ至る街道の分岐点辺りに位置しており、極めて重要な場所でもあった。

 大萩大館、小館は東禅寺に縁ある館であったのか、それとも大寺院勢力をけん制する狙いで遠野領主阿曽沼氏の息のかかった武将を配置していたのかは不明である。

 私的な考えでは、前者の寺院と関係が深い館であったような雰囲気が感じられます。