遠野郷中世城館録

奥州陸奥国遠野(岩手県遠野市及び周辺地域)の城館跡の探訪調査記録のご紹介

宮守館・本姓菊池、遠野西の大族

2009-11-17 14:13:58 | 宮守

 

 

 

館の概要

 宮守館は、笠通山から北西に延びる尾根の先端に位置し、北西側に鹿込小沢集落、反対側南東山麓には鹿込地区熊の洞集落が控えている。

 この隣接の集落から別名小沢館或いは熊の洞館とも地元では呼称される。

 遠野において比高170メートルということで高所に位置する山城で、山頂は東西に拓けており、東西約100メートル、南北(幅)30メートルの平場が展開されているが、堀切を挟んで東郭と西郭の二つの郭を持つ館であると確認でき、主郭部は西郭と思われ、東西約70メートル、幅約30メートルで中央には一段高い土盛があってこの部分が主郭であったと推測される。

 土盛部分の斜面には明らかに人工的に工作された石垣状の石積跡が確認でき、一部ではあるがその名残として僅かに残されている。

 また西郭の南部分には二つの土塁が残されている。

 

 東郭最奥部には堀切が施され、山野の尾根を断ち切っている。

 

 北側は小沢集落が眼下に控え、斜面上部全域にわたって5段程度の帯郭的平場が展開されている。

 また南側の熊の洞集落側の斜面は不規則ながらも3~5段の帯郭的平場があり、かつての館への通用口跡と思しき窪みとその周囲に小さめの段差が残され、虎口跡と推測される。

 

 空堀等は土砂等の堆積で浅く風化激しい状態ではあるが、それでも見応えのある館跡である。

 

 

主郭部・・石積跡

 

堀切跡

 

 

土塁跡

 

北側帯郭

 

 

南側帯郭

 

虎口部分?

 

館主概要(歴史)

 館主を宮森氏歴代と伝えられ、宮森氏は他に宮盛、宮杜と記述されることがある。

 宮森氏は本姓を菊池と称し、上宮守、下宮守を領して1千石ともいわれる。

 その系譜含み事績は、はっきりとしないが、文治5年(1189)阿曽沼氏が遠野郷の地頭職となるや代官として下向した宇夫方氏による遠野郷統治では、遠野西側の大土豪といわれ、宇夫方氏による統治完成の最大の障害だったとも語られる。

 はじめ上宮守の西風集落北西の神成館に居館を構えていたと伝承され、後に宮守館を築いて下宮守地区に浸透ととれる内容も語られますが、この当時の当主を宮森左近といわれ、宇夫方氏の女を室として迎えて、宇夫方氏と平和的な同盟関係を結び、その家名は慶長年間まで続くことになります。

 慶長5年(1600)、遠野騒動といわれるクーデターが勃発、遠野盟主であった阿曽沼広長が気仙郡へ追われると、謀反勢の上野広吉勢に宮守館は攻められ、館は落城、宮森一族は歴史の舞台から消え去った如く山麓の説明板には記されているが、史実としては、時の当主、宮森主水は太守南部利直より旧領500石を安堵され宮守代官として南部家臣となったのが真相である。

 しかし、後の元和年間から寛永4年までの間に役職等の任を解かれ禄を失い、宮守の宮森氏の足跡は忽然とみえなくなる。

 その後、太守南部重直の時に宮森主水の後継者、宮森祐光の代に南部家へ召し出されて花巻御給人50石の南部藩士であったことが記録されている。

 

 

 なお、俗説として、宮森氏は九州熊本、菊池一族の系譜といわれ、菊池武時の子、菊池九郎武敏の末裔と伝えられる。

 菊池武敏は南北朝時代初頭、南朝方貴種の警護で奥州に至り、鎮守府将軍北畠顕信配下として南朝方拠点を遠野に求め、宇夫方氏との折衝で宮守を得て宮守館を築いたと伝承されている。

 間もなく武敏は赤星党を率いて南進してこの地を離れるも、嫡子の菊池武世を宮守に残し、またその弟は小友長野にて金山開発等で在地勢力となり平清水氏となったと伝えられている。

 俗説ながらも本姓菊池とされる所以がこの辺りから紐解ける雰囲気も感じます。

 

 

 いずれ、同町の上宮守には戦国期に使用されたと推測される石倉館も存在し、ふたつの宮守氏の系統がいた可能性もあって、このこと含み今後の調査研究課題といえそうです。

 

 


山口館・交通の要衝の抑え

2009-11-16 13:02:08 | 土淵

標高450m・比高70m

 

 

概要

 土淵町山口集落の東、現薬師堂が祀られる山野一帯が館跡である。

 遠野地域でも比較的大型城館跡に属し、薬師堂と隣接の山野は2本の空堀で仕切られ、一本はそのまま東斜面に下り、もう一本は東部分斜面を巻くように上部より流れ、反対側は2本共に下部中央部分を駆け下って西北部分に至っている。

 2本の空堀の内側の斜面上には尾根沿いに平場が展開されており、下部は3段程度の帯郭的な平場が確認でき、尾根沿いの高い場所の平場が主郭と思われ、背後は一重の堀切、空堀跡が確認できる。

 北側は隣接山野との谷となっており、館側の斜面には二重の空堀が残されている。

 さらに斜面上の林道はかつては堀跡の痕跡を残し、主郭背面の空堀からの流れと判明している。

 下部は土塁や簡略的な平場が林道沿いに展開されており、虎口跡と推測される。

 

 近年、館山で杉木の伐採作業が行われ、木出し用の林道が空堀跡を拡張させて林道と化し、主郭背面の空堀跡も林道となっている。

 地元城館跡資料にはさらに上方の山野も館の一部で若干の段差が見られるとしているが、伐採作業等で山肌は荒れ、その確認はできなかった。

 遺構の配置等から、防御上よく設計施工された館跡である。

 

 薬師堂境の空堀跡

 

 

堀切

 

 

主郭部平場

 

薬師堂境の空堀2重目

 

歴史等

 館主を山口修理と伝えられる。

 山口館を築く以前は同町内の柏崎館を居館としていたと伝えられるも仔細は不明である。

 山口地区は、沿岸部とを結ぶ遠野側峠道の山麓に位置し、遠野と三陸沿岸を結ぶ交通の要衝としての位置付けが強かった地域との認識である。

 この地域を治める山口一族が何者であったかは語られていないが、交通の要衝を抑える重要拠点でもあり、その勢力も決して弱いものではなかったと推測される。

 しかし、その事績はほとんど語られず残されていない。

 

 遠野物語18話、座敷童子の話の中で登場の山口孫左衛門は山口館主であった山口一族の末裔と語られている。

 土淵町山口集落は遠野物語での主たる舞台でもあり、現風景に原風景が残される希少な雰囲気が漂う場所でもある。

 かつて館が隆盛を極めていた時代を思い起こすことは叶わないが、相当な戸数を従えた館主であっただろうと思うのみである。


中沢館・伝承無き大型館跡

2009-11-14 14:32:14 | 青笹

 

 

概要

 青笹町中沢地区、六神石神社より西方向に位置する山野に残され、瀬内という集落にあり、沢の中に突き出た山脈に築かれた館である。

 西側は急な谷へ落ち込む急斜面を形成し、東部分も隣接山野との谷を利用して境となしている。

 北側山頂が主郭であり、背面は三重の堀切で背後のさらに高い山との尾根を切断しており、その堀は東側谷へ下り、西側は内側2本は山野を巻くように下り、ひとつは途中から主郭下部の中央を横断して東側へ落ち込み、さらにもう一本は館内最下部の中央部分を横断して東側へ至っている。

 堀切は高さもあり、見応えがあります。

 主郭は中央、北側部分の山頂部であるが、3段程確認できる段差の東部分が最も広く、現在は稲荷社が祀られている。

 また稲荷社が鎮座する東側の斜面はL字型の地形をしており、下部に向って3~5段の比較的大型の帯郭が配されている。

 主郭部斜面から始まる空堀二重が取り巻くように東端部分を駆け下り、境を成す谷へ落ち込みながら下っている。

 主郭と東部分のL字型を形成する郭、ふたつの郭を持つ館跡と思われる。

 遠野においての山城跡としては比較的大型館跡で、かなり大がかりな土木工事が施され、遺構もよく残されている館跡でもあるが、館跡に関しての伝承は皆無であり、その事績は全く以て不明である。

 

最下部の空堀跡

 

中央部分の土塁跡

 

主郭部分頂部

 

頂部東側下の平場に鎮座する社

 

社の東斜面帯郭

 

上記画像の下部

 

堀切

 

歴史等

 館主は一説によれば中沢外記と伝えられるがその事績含み館との関連等の謂れは語られていない。

 ただし、中沢外記という武士については、阿曽沼氏遺臣の中に名がみえ、実在の人物であったと思われる。

 寛永4年(1627)八戸氏(遠野南部氏)が八戸根城から村替えとなって遠野へ入部した際に旧主、阿曽沼家臣の中に中沢外記(遠野旧事記)50石の名がみえる。

 その後の中沢氏に関しては調査等はしていないので不明。

 

 いずれ、中沢地区を治めていた一族であるのは間違いないものと推測されますが、館規模やその威容と勢力が必ずしも一致しないこともありますが、館跡の威容や大規模な土木工事をみると比較的中世遠野においては大きな勢力をもった館主一族だったものと推測されます。

 

 なお、遠野三山のひとつ、六角牛山近隣の地域でもあって六角牛山信仰等に関わる地域であること、また俗説ながらも長慶天皇伝説が残される地でもあり、今後の中沢館跡研究等も含めて興味ある土地でもある。

 

    添付画像は2007年12月撮影

    3度の探訪ながらも複雑すぎる残存遺構により図面は描けず・・・

 


新谷館・遠野菊池党嫡家の系譜

2009-11-12 17:00:33 | 小友

 

 

概要

 新谷館は、小友町長野地区、国道107号線沿い新谷(荒屋)番所の西向いの山野にあり、種山から続く北東、長野川に至る山野に位置している。

 館が機能していた当時は、葛西家、後に伊達家が領有する気仙郡と隣接した地域でかつ金山地帯であったので、特に重要地域であったと推察でき、軍事、交通の要衝という位置付けであった。

 館跡は、東部分は長野川を天然の堀となし、背後の西側及び南側は山脈を形成し、北は隣接山野との谷となっており館山は一重の空堀で館山を囲み、背後の西部分は二重の堀切で山野を断ち切っている。

 他に南に2段程度の段丘、北側、東側に2段の帯郭が確認できる。

 比較的小規模な館跡と認識できるが、比高が100mを超える高所に位置し、東部分は急傾斜となっており、要所部分に防御性工事が施された整った形の館である。

 また、主郭部分は山頂部の平場2段で、奥は東西5~7m、南北15m、一段低い平場は東西6m、南北21m (数値は約) で、2段目平場の先端部には庭石風の工作物が配置されている。(糠森といわれるらしい)

 

北側の帯郭

 

北側の空堀跡

 

 

背面の山野を切断する堀切跡

 

主郭先端部分の糠森

 

館跡山麓下部の状況

かつての大手口等、通用口跡を林道とした形跡が感じられる。

 

菊池姓・平清水、新谷氏

 館主の新谷禅門景光は、最初、菊池平十郎景光と称し、後に小友長野地区平清水地域を領したことから在名での平清水氏を名乗り、平清水平十郎景光と名乗ったとされる。

 後に剃髪して禅門を名乗り、平清水は嫡子、平清水平右衛門景頼(後に駿河)に譲り、自らは同地区新谷に住したことから新谷氏を名乗ったとされる。(新谷と名乗ったのは子の出雲ともいわれる)

 小友は気仙郡から続く金鉱脈地帯で、特に長野地区は産金で栄え、平清水氏は知行高以上の遥かな潤いがあったものと推測でき、また平清水氏は産金関連に精通した一族であったのだろうと思われる。

 慶長5年、時の遠野盟主であった阿曽沼広長は一族で重臣の鱒沢広勝、上野広吉の謀反により気仙郡へ亡命、この時、禅門嫡子の平清水景頼も謀反に加担し、新谷禅門はその非道を嘆き、景頼以外の子を引き連れ、新谷館に籠ったと伝承される。

 景頼はその功により南部利直から大封を得て駿河と名乗り、遠野で重きを成す武将となったが後に南部家による策謀で切腹、断絶の憂き目となり、新谷一族もまた不遇の時代となったといわれる。

 しかし、禅門の子、駿河の弟、新谷新右衛門出雲は南部家に召し出され、気仙郡との境目勤番に召抱えられ、以後、遠野にあって新谷氏の系譜は続くことになる。

 新谷氏には新谷菊池系図なる遠野における菊池姓研究に必須の系図が残されておりますが、系図には新谷禅門景光の父は葛西家臣で江刺郡主、江刺氏執政の江刺角懸城主であり江刺菊池氏惣領といわれる菊池右近恒邦とあり、そのことを裏付ける内容として天正末期、江刺氏の内訌で菊池右近は江刺氏により郡内を追われる事件があり、その際に遠野へ逃れ、平清水氏と何やら接触する場面があったものと推測でき、後に書かれた菊池系図は、江刺角懸菊池氏と遠野新谷菊池氏の合作系図との識者等研究者の指摘がされている。

 

 いずれ遠野においては代表的な菊池一族、俗説では九州肥後(熊本)の菊池一族の奥州下向に伴う内容も語られ浪漫あふれる内容でもあって、今後の研究の成果を期待したいところですし、小生も及ばすながら、研究調査ができたらと思うところでもある。

 

 なお、本家ブログ、ブックマークにリンクの「じぇんごたれ遠野徒然草」に遠野の菊池姓関連の記載を若干しておりますので、参考までにご参照願えればと思います。

 本家ブログ内検索バーで遠野の菊池氏関連で出てくるものと思います。


横田城(阿曽沼主家の牙城)

2009-11-11 12:51:58 | 松崎

標高315メートル・比高55メートル

東西約300メートル・南北約200メートル・・・山城

 

前景

 

城館の概要

 横田城は別名、護摩堂館とも呼ばれ、中世遠野領主であった阿曽沼氏歴代の居城であった。

 築年代は不明であるが、伝承によれば建保年間(1213~1219)の鎌倉時代と伝えられる。

 源頼朝により奥州平泉の藤原氏が征討され(文治5年・1189)この戦いで戦功があった下野国佐野の御家人、阿曽沼広綱がその恩賞として遠野郷を賜ったのが最初といわれますが、横田城は広綱の次男、阿曽沼親綱が築いたとされている。

 

 城は背後の高清水山から流れる鶴音山の山麓の台地に築かれ、前面は猿ケ石川を天然の堀となし、東西は沢に囲まれており、扇状の形である。

 北側の背面や沢に隣接した陸地続きの部分は幅広な空堀で区切られ、前面である南側斜面は3~4段の平場が展開されており、現在集落墓地、農地となっている場所も防御上必要な段差があった形跡が認められる。

 また東側の沢は深き自然の沢であるが、陸地続きの城側斜面には土塁が確認でき、西側の沢は、かつては水堀だった可能性を秘めている。

 主郭は現在薬師堂が祀られている場所とされている。

 背後の空堀には土橋も認められるも、城が機能していた時代のものか近年に作られたものかは不明である。

 天正年間(1573)遠野阿曽沼第13代と語られる阿曽沼広郷(遠野孫次郎)は、度重なる猿ヶ石川の氾濫等に苦慮し、鍋倉山に新城を普請し移り、遠野阿曽沼氏歴代の主城としての役目を終えたとしている。

 

主郭部分

 

主郭南東側の段差

 

北側の空堀(堀切)

空堀跡中央部分は土橋で区切られている。

 

 

 

東側沢方面の土塁跡

 

 

 

 

西側の沢・・・現農地

かつては水堀だった可能性がある(湿地による)

 

簡略図

 

作図・管理人

使用写真は2007年2月に撮影

 

 

歴史考察等

 阿曽沼広綱は伝承や先人郷土史家達の見解によると、本国下野国にあって遠野郷は重臣の宇夫方氏を派遣しての遠隔統治だったとしている。

 また、鎌倉時代に築かれたという横田城、複数回の探訪による印象では、残される遺構等の状況から少なくても鎌倉時代に築かれた城とは思えない。

 さらに伝承では、松崎町駒木には阿曽沼館と呼ばれる平城(館)が残され、遠野代官の宇夫方氏が当初の館として居たと考察されている。

 その後、宇夫方氏は綾織の谷地館に平城(館)を築き一族が移り住んだともいわれている。

 その間に横田城が築かれ主家の阿曽沼一族が下向して横田城に移り住んだかのような伝承されておりますが、大方の見解ではまだ下野本国から主家一族が本格下向していない見解が主流で、南北朝時代或いはその直後とする考察が一般化しております。

 

 駒木の阿曽沼館から綾織谷地館に居を移した宇夫方氏は、下野国本国から主家阿曽沼氏の庶流一族の誰かが遠野代官として下向したことにより、谷地館へ移動し、駒木の阿曽沼館は、そのまま代官職の阿曽沼庶流の者が政庁として使っていたと小生は考えております。

 横田城の築城は、本国から主家一族が本格的に下向した際に築かれた城ではないのかと推測しております。