遠野郷中世城館録

奥州陸奥国遠野(岩手県遠野市及び周辺地域)の城館跡の探訪調査記録のご紹介

刃金館・赤羽根合戦

2009-12-26 18:17:47 | 上郷

 

略図

 

概要

 遠野市上郷町板沢地区と平倉地区との間の独立した山野内に館跡は残されている。

 遠野七観音のひとつ、平倉観音堂北西側山野に展開され、前面は早瀬川を天然の堀となし、斜面には幾重にも施された階段状の帯郭的平場が展開され、山頂部分には二重の堀切で尾根を断ち切って後方の守りとしている。

 主郭は山頂部で頂部平場はやや西側に傾斜しており、北側部分に土塁後がみられる。

 館は西側、南側斜面に展開され、先に記したように斜面には5段~7段の階段状の平場がびっしりと張り付き、中央部には竪堀跡が確認でき、館への出入口も兼ねていたものと推測される。

 なお、東側隣接山野には同時代に使用されていたと思われる大寺館(本姓菊池・切懸氏)の居館跡があり、さらに市道、旧国道340号線切り通しを挟んだ山野には細越氏の林崎館跡がある。(約1キロ)

 また、北西側約1.5キロの山野には本姓菊池、板沢氏の居館板沢館も残されており、気仙郡からの侵入を遠野城下への入口である、浜峠手前で防ぐ第一級の防御地帯であったことがうかがわれる。

 

 

堀切跡

 

 

空堀跡と土塁跡

 

山頂・主郭

 

山頂から西斜面

 

階段状平場

 

 

竪堀跡

 

歴史・・・赤羽根合戦

 館主を本姓菊池・平倉新兵衛(盛任)と伝えられる。

 菊池一族平倉氏は、他にも名が幾人か確認でき刃金館の向かい側の山野に平倉館(宇南林館)もあり、平倉長門盛清が館主であったと語られている。

 平倉新兵衛との関係は不明であるが親近者であったことは間違いないものと思われ、新兵衛に関わる縁者には平倉刑部、平倉新八の名も伝えられている。

 遠野阿曽沼氏関連では平倉新兵衛は平倉村に200石を食む足軽頭であったとも伝えられますが、平倉地区も含む板沢地区は本姓菊池氏が繁華なところで、菊池一族が分族していたものか、上郷菊池氏惣領との位置付けの板沢氏が把握するその指揮下だったのか、いずれこちらも不明ではあるが後者である可能性が高いと推測しております。

 

○赤羽根合戦

 慶長5年(1600)、南部勢の一員として最上の陣に参陣していた遠野横田城主(盟主)阿曽沼広長は、関ヶ原の戦いが終わり体制が決した後にようやく太守南部利直に帰国を許されて帰国の途にあったが、その間、横田城は南部氏に支援された鱒沢広勝、上野広吉、平清水景頼によって制圧され、クーデターが成功する。

 阿曽沼広長は、江刺郡境の五輪峠で伏兵を察知するも一戦を避け、軍勢を解散して僅かな供を従えただけで気仙郡世田米の世田米広久(阿曽沼広久)(広長の舅)を頼り亡命した。

 慶長6年春、遠野盟主となった鱒沢広勝は気仙郡世田米で遠野奪還の準備をしている阿曽沼広長に機先を制すべく、遠野勢を率いて気仙郡内へ攻め込んだ。(平田の戦い)

 寄せ手の大将、鱒沢広勝は討死、迎撃に出た気仙側の大将格、浜田喜六も討ち取られ、双方痛み分けとなり遠野勢は撤退する。

 その年の秋、広長は遠野奪還の準備も整い、伊達政宗の後援を得て遠野境の赤羽根峠へ気仙勢を率いて出陣する。

 迎えるは鱒沢広勝に代わって遠野盟主となった上野広吉、この時、赤羽根峠を控える平倉地区の館主達が先鋒として迎撃したと思われ、平倉新兵衛、板沢平蔵等が気仙勢を迎え討った。

 阿曽沼広長はかつて世田米へ落ちる際に五輪峠で解散した将兵に過日、遠野奪還に赴く際は我に見方せよと約束させての解兵だったので、迎撃に出た遠野勢のほとんどが戦意がなく、寝返るものとばかり思っていたところ、逆に必死の反撃にあい、思わぬ激戦となったと伝えられる。

 気仙勢は峠を下り平倉の平地まで攻め寄せたが広長に寝返る者は誰ひとりなく、案外楽に横田城下まで攻め入りことができると信じていた気仙勢はやがて士気が衰え後退し始める。

 しかし、広長に従い遠野奪還を夢見る松崎監物、興光寺負靭の両侍大将は踏みとどまり、なおも戦い続けたといわれている。

 遠野方の平倉新兵衛は討死、板沢平蔵は広長臣の西風館大学と一騎打ちとなるも深手を負い戦線離脱(後日死亡)、広長方では松崎、興光寺共に討死。

 上野広吉の遠野本隊からも広吉の娘婿である和賀郡の土豪、十二ヶ所弾正(現花巻市東和町土沢)も討死という凄まじい戦いであったと伝えられる。

 かつては同僚といった者同士、武士として名を惜しんで戦ったともいわれますが、遠野勢が気仙勢を追い返し勝利した戦いであった。


駒込館・天空の砦

2009-12-02 14:34:54 | 上郷

 

 

 

概要

 遠野市上郷町細越、駒込地区、国道283号線(旧道)沿いの北側山野に館跡は残されている。

 北側以外からの方向からは独立した山野に見えるが、実は北東側部分中腹より尾根で隣接山野とつながっている。

 全方向共、急斜面となっており険しい山でもある。

 比高は122メートルと遠野の城館跡としては高所に位置しており、標高も500メートルを越え、山頂はかなり高い位置にあることが実感できる。

 甲信越地方の比高200~300メートルクラスの山城とは比較にならないかもしれませんが、それでも天空の館跡という雰囲気でもある。

 

 山頂全体は削平された平場となっており、小規模な一段高い平場が北端と東端にみられる。

 北東斜面には2段の大きめの平場が残され、下部は隣接山野へとつながる尾根となっている。

 西側は上部斜面に4段~5段の平場が展開され、北側突端までカバーしている。

 東、南側は確認できる遺構は残されていない、また堀切や空堀といった防御上必要な工作物は確認できず、周囲が急傾斜でまた高所にあるため必要なかったかもしれない。

 

山頂平場

 

北東側斜面の平場(隣接山野との尾根)

 

西側斜面の平場

 

 

北西側麓から

 

歴史等

 館主を平清水某と伝えられるも詳細は伝承されていない。

 一説には鱒沢氏の家臣、平清水氏の居館という内容も伝えられますが、麓には平清水という湧水が流れ、今もなお枯れずに湧き出ている。

 また湧水近くには平清水社が祀られ、平清水氏との縁等が若干伝えられているという。

 推測ですが、慶長5年の政変で遠野を追われた旧主阿曽沼広長が気仙から遠野奪還の為に遠野入りするルート上の要所のひとつに平清水一族の誰かが守将として派遣されていたのではないのか?

 釜石からの仙人峠ルート、気仙からの秋丸峠ルートを意識しての館が駒込館であったと思えてならない。

 向かいの山野には、釜石道建設の為、消滅しましたが、赤羽根ルートも加えての要所、篠館があって、こちらはやはり阿曽沼広長率いる気仙勢の侵入に対応した館と考察されており、駒込館もその役割の一端を担っていたのではと思います。

 駒込館は水等の便を考えると普段は物見的な館で有事の際に使用される館といった雰囲気でもある。

 

 平清水某とは小友平清水を本拠としていた本姓菊池の平清水氏の一族なのか?詳しくは伝えられておりませんが、何かしら無関係ではないように思えます。

 

平清水社


林崎館・遠野細越一族

2009-11-20 17:16:22 | 上郷

 

 

概要

 遠野市上郷町細越地内、山野の中央が切り取られた切り通し部分の東側に位置している。

 道路が通る切り通し部分はかつては館の空堀跡とされ、現在遺構等が若干残る山野も含む広大な館域を誇る当地方でも有数な城館だったと考察されている。

 しかし、近年、道路及び農地に転用となり、大部分が削り取られて往時の姿を望むことはできない。

 東側の山野は側のみ残し山野としての形状は保ってはいるが上部の中央部は、畑として耕作され、重機等によって削平され、こちらも遺構等を見ることはできない。

 道路側からみる山野斜面には、3段~4段の平場が確認でき、西から南部分の斜面全域にわたっている。

 館内中央部への通路があるが、かつての堀跡と確認できるも、これ以上その全容を把握することは難しい・・・。

 

道として利用される空堀跡

 

西側内部の段差

 

西側斜面の帯郭的平場

 

館跡内部、中央部

 

 

館主、細越氏

 館主を細越惣兵衛と伝えられる。

 細越氏は一説によると多田氏系の一族ともいわれ、気仙郡から来住との考察がされるも、どのような過程で遠野に至ったかは不明である。

 天正末期の頃、葛西領江刺郡の郡主、江刺氏の内訌があり、郡内の乱れに乗じて遠野領主、阿曽沼広郷は軍勢を整えて江刺郡へ侵攻したと伝えられる。

 遠野勢は郡主江刺重恒の居城、岩谷堂城近くまで進撃するも、江刺氏を見限ったと思われた郡内の小領主達が遠野勢を攻撃、四面楚歌に陥りかけた阿曽沼広郷は軍勢を撤退させたが、この時、遠野勢の殿を務めたのが細越与惣(惣兵衛か?)で、撤退戦で討ち死にと伝えられる。

 細越氏には本姓菊池、平清水平十郎景光の三男、与三郎が養子となり細越氏を継承したとされるが、林崎館は至近に菊池一族切懸氏の大寺館、平倉氏の刃金館があり、与三郎が細越氏を継いだ頃に、菊池一族にその知行地の一部が割譲されたのではないのか?

 林崎館は停廃され、さらに東の山野に森下館が築かれ、細越氏は移動したものと推測される。

 森下館の細越氏当主は、細越与三郎敏広とも語られ、後に阿曽沼氏没落後は一時浪人となるも南部利直に仕え、南部家臣となり遠野の地を去りながらもその命脈を伝える。