遠野郷中世城館録

奥州陸奥国遠野(岩手県遠野市及び周辺地域)の城館跡の探訪調査記録のご紹介

中 館

2010-05-17 16:47:51 | 青笹

 

概要

 青笹町糠前地内、赤羽根と呼ばれる集落内の北側丘陵地に位置する。

 丘陵は東から西に続き、南側は水路を挟んで赤羽根集落、北側はなだらかな傾斜となっている。

 館跡は東側は八坂神社境内部分から西側は丘陵止りまでと推測され、南側にはかつては水掘跡と考察される水路、斜面には水路へ落ち込む空掘跡が4本が確認でき、頂部の平坦地は現在は草地、畑の農地となっており、その背部(北側)には一重の空掘が東から西へ展開されている。

 北~南に展開される空掘跡4本によって館は区切られている形跡も確認できるがその全容は掴んでいない現状である。

 なお、中央の郭と思しき丘陵頂部の平坦地には館主の中舘一族の墓所と伝えられる墓石複数が残されている。

 

主郭と推測される丘陵頂部の平坦地

 

東側、八坂神社側斜面の空掘

 

中央、東~西へ展開の空掘跡

 

中央部分南斜面の空掘

 

水路(水掘跡?)

 

 

館の歴史等

 館主を八戸氏(遠野南部氏)一族、家老の中舘勘兵衛と伝えられる。

 八戸氏は八戸根城から太守の三戸南部、南部利直から遠野への村替を命ぜられ、寛永4年(1627)に遠野へ入部、家老の中舘氏は主家と共に遠野に至り、細越村、佐比内村(共に上郷町)、糠前村(青笹町)の5百石を知行していた。

 何故に館方式の屋敷を構えていたかは不明であるが、知行地は南部領遠野の東端部分がほとんどであり、その警備の任も備えてのものと推測もされる。

 中舘氏が遠野へ至ってから館を構築したのではなく、かつての中世城館跡を改築して整備したものか?・・・・いずれ中舘と呼ばれた館跡であるので中舘氏縁の地であったのは確かであろう・・・。

 

 なお、俗説ながら、地域で若干語られる菊池一族の隆盛にて、かつての鳥小屋砦と称される館に中下菊池氏惣領が戦国末期に主館臼館(青笹町中妻)を放棄して移り住んだといわれる・・・・その鳥小屋砦だったのだろうか?

 

 江戸期の中舘氏は鍋倉城三の丸に同じく家老の福田氏と共に屋敷があったといわれるので、中館が機能していたのは短い期間だったものと思われる。

 

 


臼館・戦場伝承の城館跡

2009-12-10 19:42:53 | 青笹

 

 

 

概要

 国道283バイパス青笹地内、西側の山野、早瀬川沿いの西岸の山野にある。

 東、南は崖状の斜面、北側は山野続き、西側は隣接山野とを隔てる谷となっている。

 北側に主郭、南東側山野に二の郭を持つ構造となっている。

 

 南西側の谷沿いの林道(登り)を進むと、左右両側に尾根の狭間の広めの窪地にでる。

 細い道が付けられており、その登り道を進むと、右側(東)斜面に3段の階段状の平場が確認できる。

 上りの行き当たりには虎口と思しき形状の場所に行きつく、その場所の東側、北を向いた斜面には空堀があり、その上部は削平された南北約35メートル、東西約25メートルの平場がある。

 この部分は二の郭(東郭)で東斜面は断崖で一部竪堀と思しき形状が認められるも崖崩れ等の跡の可能性もある。

 東郭の西側斜面はL字型の形状で3段の平場が敷設されている。

 

 東郭から北方向は一段高く、斜面には空堀跡、西側には2段の帯郭が北側まで続いている。

 この部分で一番高い場所は塚と考察されており、こんもりとした土盛といった雰囲気である。

 一番上の帯郭は、そのまま道として利用され北側山野に続いている。

 北側のさらに一番高い場所には高圧線の鉄塔が立てられ、山頂は正方形状に削平されている。

 かつての主郭をさらに削平したものと思われる。

 下部には2段程度の平場が展開されている。

 主郭、北西側は堀切一重が確認され、西方向へ下り、途中で帯郭と合流している。

 帯郭が林道と利用されたり、鉄塔敷設により山野が削平されたりと一部工事による破壊も見られますが、よく原型をとどめた館跡でもあります。

 

 

大手口・・・虎口方向

 

 東部分の空堀跡

 

東郭、西斜面の階段状平場

 

山野中央部の塚・・・北側から

 

中央部西側の帯郭

 

主郭

 

北側の堀切

 

北側の空堀

 

伝承と中下菊池一族

 館主を菊池兵庫介成景といわれる。

 菊池成景は遠野阿曽沼氏関連や遠野市史でも若干記述があり、かつては阿曽沼氏の横田城、宇夫方氏の綾織谷地館、そして菊池成景の青笹臼館が相呼応して遠野郷の平野部分に君臨し、臼館に関しては気仙郡から遠野城下へ至る道筋の浜峠部分に関連する重要拠点で、臼館は隆盛を極めたと考察されている。

 やがて南側の上郷板沢方面へ開拓の触手を広げたといった内容でもある。

 

 さて、近年、遠野菊池氏に関するひとつの系図が取り上げられ、少しですが脚光を浴びている。

 中下菊池家系図である。

 遠野菊池氏に関しては小友の新谷菊池系図が有名であるが、この中下菊池家系図は青笹の菊池氏に関わる内容でもある。

 臼館は中下菊池惣領家の居館であったと伝えられ、気仙郡から4代目菊池重隆が遠野青笹に来住したと伝えられる。

 その後、15代までの居館で約百数十年続いたとされる。(~天正5年)1577

 菊池成景は十代菊池盛隆時代の陣代(後見役)として登場、叔父ともいわれ37年間にわたって陣代として力を振るったと記されている。

 しかし、寛正5、6年(1464・1465)二度にわたって青笹の統帥権と惣領権をめぐる戦いとなり最後は兵庫介成景は敗れ、討死にと記されている。

 

 遠野物語拾遺(戦場・267話)では、臼館と飯豊の館との戦いのことが語られているが、地元伝承では、花館と臼館の戦いが語られ、花館は現青笹町の北東、糠前地区の安戸(沢田)という集落後方の山野に残される山城で飯豊は隣接の現土淵町飯豊であり、花館は飯豊の館であったと思われる。

 最後は花館側が勝利したと伝えられるも、菊池家系図では、菊池惣領家15代菊池長元の時代、菊池成景の末裔、大弥太成武(菊池成武)の謀略と攻撃で臼館を放棄、鳥越砦に居を移すも、ここも放棄して統帥権を失ったとされる。

 遠野領主阿曽沼氏も巻き込んだ菊池一族同士の争乱、おそらく臼館は菊池成景に始まる一族の居館で惣領家は花館が居館であったと推測してますが、遠野でも菊池姓が繁華な青笹地域にあって臼館近辺の集落での菊池姓は極少ない。

 糠前地区、飯豊地区は菊池姓が繁華な地域でもあり、古の菊池一族の攻防に何かしら関連もありそうな思いがいたします。

 


中沢館・伝承無き大型館跡

2009-11-14 14:32:14 | 青笹

 

 

概要

 青笹町中沢地区、六神石神社より西方向に位置する山野に残され、瀬内という集落にあり、沢の中に突き出た山脈に築かれた館である。

 西側は急な谷へ落ち込む急斜面を形成し、東部分も隣接山野との谷を利用して境となしている。

 北側山頂が主郭であり、背面は三重の堀切で背後のさらに高い山との尾根を切断しており、その堀は東側谷へ下り、西側は内側2本は山野を巻くように下り、ひとつは途中から主郭下部の中央を横断して東側へ落ち込み、さらにもう一本は館内最下部の中央部分を横断して東側へ至っている。

 堀切は高さもあり、見応えがあります。

 主郭は中央、北側部分の山頂部であるが、3段程確認できる段差の東部分が最も広く、現在は稲荷社が祀られている。

 また稲荷社が鎮座する東側の斜面はL字型の地形をしており、下部に向って3~5段の比較的大型の帯郭が配されている。

 主郭部斜面から始まる空堀二重が取り巻くように東端部分を駆け下り、境を成す谷へ落ち込みながら下っている。

 主郭と東部分のL字型を形成する郭、ふたつの郭を持つ館跡と思われる。

 遠野においての山城跡としては比較的大型館跡で、かなり大がかりな土木工事が施され、遺構もよく残されている館跡でもあるが、館跡に関しての伝承は皆無であり、その事績は全く以て不明である。

 

最下部の空堀跡

 

中央部分の土塁跡

 

主郭部分頂部

 

頂部東側下の平場に鎮座する社

 

社の東斜面帯郭

 

上記画像の下部

 

堀切

 

歴史等

 館主は一説によれば中沢外記と伝えられるがその事績含み館との関連等の謂れは語られていない。

 ただし、中沢外記という武士については、阿曽沼氏遺臣の中に名がみえ、実在の人物であったと思われる。

 寛永4年(1627)八戸氏(遠野南部氏)が八戸根城から村替えとなって遠野へ入部した際に旧主、阿曽沼家臣の中に中沢外記(遠野旧事記)50石の名がみえる。

 その後の中沢氏に関しては調査等はしていないので不明。

 

 いずれ、中沢地区を治めていた一族であるのは間違いないものと推測されますが、館規模やその威容と勢力が必ずしも一致しないこともありますが、館跡の威容や大規模な土木工事をみると比較的中世遠野においては大きな勢力をもった館主一族だったものと推測されます。

 

 なお、遠野三山のひとつ、六角牛山近隣の地域でもあって六角牛山信仰等に関わる地域であること、また俗説ながらも長慶天皇伝説が残される地でもあり、今後の中沢館跡研究等も含めて興味ある土地でもある。

 

    添付画像は2007年12月撮影

    3度の探訪ながらも複雑すぎる残存遺構により図面は描けず・・・