概要
青笹町糠前地内、赤羽根と呼ばれる集落内の北側丘陵地に位置する。
丘陵は東から西に続き、南側は水路を挟んで赤羽根集落、北側はなだらかな傾斜となっている。
館跡は東側は八坂神社境内部分から西側は丘陵止りまでと推測され、南側にはかつては水掘跡と考察される水路、斜面には水路へ落ち込む空掘跡が4本が確認でき、頂部の平坦地は現在は草地、畑の農地となっており、その背部(北側)には一重の空掘が東から西へ展開されている。
北~南に展開される空掘跡4本によって館は区切られている形跡も確認できるがその全容は掴んでいない現状である。
なお、中央の郭と思しき丘陵頂部の平坦地には館主の中舘一族の墓所と伝えられる墓石複数が残されている。
主郭と推測される丘陵頂部の平坦地
東側、八坂神社側斜面の空掘
中央、東~西へ展開の空掘跡
中央部分南斜面の空掘
水路(水掘跡?)
館の歴史等
館主を八戸氏(遠野南部氏)一族、家老の中舘勘兵衛と伝えられる。
八戸氏は八戸根城から太守の三戸南部、南部利直から遠野への村替を命ぜられ、寛永4年(1627)に遠野へ入部、家老の中舘氏は主家と共に遠野に至り、細越村、佐比内村(共に上郷町)、糠前村(青笹町)の5百石を知行していた。
何故に館方式の屋敷を構えていたかは不明であるが、知行地は南部領遠野の東端部分がほとんどであり、その警備の任も備えてのものと推測もされる。
中舘氏が遠野へ至ってから館を構築したのではなく、かつての中世城館跡を改築して整備したものか?・・・・いずれ中舘と呼ばれた館跡であるので中舘氏縁の地であったのは確かであろう・・・。
なお、俗説ながら、地域で若干語られる菊池一族の隆盛にて、かつての鳥小屋砦と称される館に中下菊池氏惣領が戦国末期に主館臼館(青笹町中妻)を放棄して移り住んだといわれる・・・・その鳥小屋砦だったのだろうか?
江戸期の中舘氏は鍋倉城三の丸に同じく家老の福田氏と共に屋敷があったといわれるので、中館が機能していたのは短い期間だったものと思われる。