遠野郷中世城館録

奥州陸奥国遠野(岩手県遠野市及び周辺地域)の城館跡の探訪調査記録のご紹介

愛宕神社

2010-02-11 18:34:42 | 綾織

 

 

概要

 遠野市綾織町新里地区ではあるが、遠野市街地下組町との境付近に位置し、旧国道283号線と猿ヶ石川沿いの山野にある愛宕神社が館跡である。

 遠野市内の城館跡を調査された先人郷土史家、お二人は、遠野市街地の西方外れ、しかも猿ヶ石川沿いの絶壁に近い神社の山野を以前から館跡ではないのかと気にしていたという。

 館跡探訪として調べ始めると、現地人から神社境内拡張や周囲の農地開墾によって若干手を加えたという証言を得たが、それでも不自然な土塁状の形状、川沿いの断崖に残る2段程度の階段状の平場、東南部分の農地境での段差等、館跡特有の形状は以前からのものと証言も得て、館跡と断定したとようでもある。

 

 

本殿裏に残される土塁(南側)

 

山頂部分

 

かつての腰郭を拡張したと思われる平地

 

愛宕橋

 

歴史等

 使用年代、館主等、一切不明である。

 館跡であった山野に江戸時代、愛宕神社を勧進したものである。

 

 東側山野奥には宮一族の程洞館、猿ヶ石川を挟んで、北側山野には角鼻館、さらに光興寺館、西側には寒風館(現道の駅風の丘)と古の館跡が点在しているが、愛宕神社の館跡は案外新しいものかもしれません。

 横田城から鍋倉山に主城を移した阿曽沼広郷時代、城普請の後は急ピッチに城下建設も進められたと想像もでき、その新城下西の入口の守り、監視といった位置付けがあったのではないのかと推測しております。


鳴沢館・鱒沢館支館

2010-02-08 19:38:20 | 宮守

 

 

概要

 鳴沢館は、宮守町上鱒沢地内猿ヶ石川沿い、舟渡と呼ばれる地区の山野に残されている。

 館跡がある地帯は通称鳴沢とも呼ばれるが、地域内を見渡せる小高い山野でもある。

 館の造りは単郭であるが、山頂は南東側のさらに高い隣接山野につながっており、広めの尾根となっている。

 南東側は主郭の背後となるが、尾根等を堀切等で切断といった工作は施されていない。

 南~西は急斜面を形成し、3~4段の階段状の腰郭が配置され、北西部分は館の前面となるが主郭から続く3段~4段の不規則で小規模な階段状広場が構築されている。

 また東部分は緩やかに斜面となっており、主郭下に3段の要郭及び空堀らしい形状も確認できる。

 

主郭(山頂)

 

南部分の腰郭

 

西側斜面

 

北西部分

 

北側部分

 

東部分の階段状の形状

 

 

釜石自動車道工事で前景部分が破壊されている。

以前の前景(2008年当時)

 

歴史等

 館主を鱒沢館主、鱒沢氏家臣の佐々木氏と語られ、鱒沢館の出城という説が主流である。

 築年代は室町時代中期頃~戦国時代末と推測されますが、中世遠野領主、阿曽沼氏の分家、鱒沢氏は上、下鱒沢と小友の半分、約1千石といわれ、遠野西方面の盟主的立場でもあったと伝えられ、主家をも凌ぐ勢力を誇っていたとも伝えられる。

 鳴沢館がどのような機能、役割を担っていたかは不明であるが、その昔、金山採掘も若干ではあるが盛んでもあったといわれる鱒沢地域、その関係も含み江刺郡、和賀郡への軍事、交通の要衝との位置付けでもある鱒沢地域のひとつの守りの要の役割も担っていたと推測される。


青篠館・江刺菊池惣領家

2010-02-01 14:57:30 | 江刺区

 

 

概要

 奥州市江刺区玉里地区、青篠集落の東端山野に残されている。

 人首川沿いに面した断崖を利用した館ともいわれるが、東側は急傾斜地、南側は農地や民家と接する若干の斜面を形成し、西側も同様で比較的低い山野に築館されている。

 また北側は急斜面となっているが低い隣接山野尾根によって山野続きとなっており、その斜面に二重の堀切が施されている。

 空堀は二重堀で山野を取り巻いている。

 主郭は山頂部分で2段程度の低い段差により腰郭が取り巻いているのが確認できる。

 主郭のある山野のみならず田畑や宅地となっている部分も段差が見られ、かつては山野含みの平地部分も館域であった可能性があるも、今はその多くの痕跡を確認することは難しい。

 

山頂(主郭)

 

 

堀切(内側) 

 

堀切(外側)

 

東斜面の空堀跡

 

南~西斜面の空堀跡

 

 

江刺角懸菊池一族

 

 

 城主(館主)を葛西氏臣、江刺郡主の江刺氏重臣、菊池右馬亟としている。

 別資料等では、代々の館主は菊池一族で、江刺区内各地に語られる菊池氏の惣領家、角懸菊池氏の居館とも伝えられている。

 角懸菊池氏は、九州熊本の菊池一族の分流と称し、江刺との関わりは永正年間に菊池蔵人武恒が葛西宗家から采地を賜ったのが最初といわれ、後に子孫たちが江刺郡内各地はもとより和賀郡内にも分族して繁栄したとされる。

 天正年間末、江刺氏の内訌があり、江刺郡内は大いに乱れたと伝えられる。

 菊池右近は主君である江刺重恒に諌言をしたためにかえって主家の江刺重恒から疎まれた為、他勢力の介入を許す結果となったとも語られる。

 この機に乗じて遠野横田城主、阿曽沼広郷が江刺重恒の居城、岩谷堂城攻めの為に江刺郡内へ侵入、角懸菊池惣領、菊池右近恒邦への合力、或いは葛西宗家、葛西晴信からの要請なのかは不明であるが、遠野勢は江刺勢の反撃で戦いに敗れ撤退、菊池右近は江刺重恒に攻められ、右近の子、太田代伊予は討たれ右近自身は江刺郡内から脱出、南部領に逃れたともいわれますが、どうやら後の伝え等によれば、遠野へ逃れていた雰囲気もあり、遠野小友の平清水景光(後の新谷禅門)のところに匿われていたとも伝えられる。

 

 遠野菊池一族、平清水氏は江刺角懸、菊池右近恒邦の系統と新谷菊池系図(遠野菊池氏)に記されている。

 右近の二男とされる平清水景光、その子、平清水景頼(駿河)は慶長6年(1601)、遠野を追われた遠野旧主、阿曽沼広長が気仙勢を以ての遠野奪還最後の戦い、樺坂峠の戦いで気仙勢を迎撃した遠野勢大将であったが、この戦いの後、南部利直配下で遠野へ駐留した南部家武将、北十左衛門に娘を奥方として嫁がせたともいわれ、この時、平清水駿河は少なくても40歳前後の壮年であり、その父の景光は60歳前後であったと思われる。

 菊池右近が遠野へ逃れて来たのは天正末期とすれば、慶長6年よりは約10年程前の事、平清水景光は50歳前後ということになり、菊池右近の子とするならば景光は江刺時代に生まれ、何かしらの理由で遠野へ早くに至っていたことになろうかと思われる。

 しかも景光の兄とされる遠野上郷、板沢の菊池又市郎の存在もあって、又市郎は阿曽沼氏によって上郷に大封を得ていた形跡もみられる。

 

 菊池右近恒邦は菊池一族として遠戚である遠野菊池党、平清水氏を頼ったものと思われ、右近と平清水家との関係等で後に江刺角懸菊池氏と遠野平清水菊池氏との合作系図、新谷菊池系図が作られたと推測されます。

 菊池右近恒邦は奥州仕置きで葛西氏、江刺氏が没落すると和賀郡安俵(現花巻市東和)に一族と共に移り住んだとも伝えられる。