完全な放置という状態を継続中でしたが、まだまだ自身で探訪調査したデータ等がございますので、今後、折をみまして少しずつアップして参りたいと考えております。
過去の内容、古い内容ということでもあって工事等で地形が変化という場面もございますが、それでも古くても5年前ほどの内容でもありますので、ご紹介したいと思います。
完全な放置という状態を継続中でしたが、まだまだ自身で探訪調査したデータ等がございますので、今後、折をみまして少しずつアップして参りたいと考えております。
過去の内容、古い内容ということでもあって工事等で地形が変化という場面もございますが、それでも古くても5年前ほどの内容でもありますので、ご紹介したいと思います。
概要
国道340号線、小烏瀬川西岸の山野内に館は残されている。
館跡の南麓には大楢集落が佇む。
館は上画像の中央の山野であるが、尾根続きの北側山野は一本の堀切で切断し、堀跡はそれぞれ東西斜面へ下っている。
東側は崖状の急斜面となっており、斜面下は小烏瀬川、東側は雑木の斜面となって谷状となっている。
南側は段丘5段が確認でき、西~北、頂部の平場を囲むように一段の帯郭的平場が形成されている。
山頂は東西約10m、南北30mで、館の造りは単純で北側尾根に堀切、南面斜面に5段の腰郭を配したのみである。
西側から山頂
北側から山頂
堀切
南斜面段丘(腰郭)
歴史等
館主、築年代等不明。
地域伝承として、見張場的な館で鐘衝場があったと語られている。
小烏瀬川沿い、さらに北側約2キロにこの地域最大規模の山城、角城館があり、その出城では?或いは見張場として有事の際に鐘を衝いて異変を知らせる館であったとも言われますが、その詳細については不明である。
なお、小烏瀬川沿いの土淵町の館跡は僅か5キロ程の間に北から、栃内館、角城館、大楢館、本宿館、八幡館(松崎町)が残されている。
2011年・・・ 新年あけまして、おめでとうございます。
知られざる遠野の城館跡、探訪件数は右肩下がりですが、なんとか探訪調査を継続しつつ、また遠野周辺地域の城館跡も訪ね、共にご紹介できるよういたしたいと思っております。
まずはマイペースながらも継続を旨に頑張っていこうと思ってます。
本年もどうぞよろしくお願いします。
12/29日(2010)、今年最後の更新として松崎館(遠野市松崎町)を追加いたしました。
2010年秋シーズンは、意気込みとは裏腹に城館跡探訪がほとんどできず、新規の城館跡のリスト追加はなりませんでしたが、今まで探訪した館跡リストも、まだまだ残されておりますので、来年も更新追加して参りたいと思っております。
とりあえず来年1月からは月2のペースで更新の予定ですので、よろしくお願いいたします。
2010年は途中、放置ともとれる内容でしたが、決して撤退とかということではありませんので、今後ともどうぞよろしくお願いします。
2010年、ありがとうございました、2011年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
虎猫館主
概 要
松崎館は松崎町松崎、上松崎地内の猿ヶ石川沿いの山野に立地する山城跡である。
館は本郭である松崎館と山野続きの東部分に二の郭的な東郭との二郭で構成されている。
本郭は主郭たる山頂平場が南側に小さめの帯郭的段差が5段程度展開され、その下部及び東斜面は急斜面となっている。
また西側は隣接山野との谷となっているが、こちらも急斜面となっており大手口は西側と推測される。
頂部平場の背後、北側は土塁が施され、北側からの尾根は5本の堀切で切断され、背後の守りを吟味して各空堀が複雑に交差する様は見応えがありますが、土砂の堆積やら風化が激しく、早急な保全やら保護が必要と思われる。
北面も斜面には忍峠付近の沢から水路を引いた跡が残されている。
さらに北面斜面から東側に転じると二の郭たる東郭に通じ、東郭は二重の堀切、空堀で周囲を守り、東側斜面には3~4段程度の帯郭が配置されている。
西側斜面を下る空堀跡
南側の帯郭
主郭平場
堀切跡
斜面を下る空堀跡
東郭の堀切
東側を下る東郭の空堀
歴史等
館主は松崎監物と伝えられ、天正年間~慶長6年と云われている。
松崎監物は慶長5年(1600)、最上の陣にて南部利直の要請に応じた主家、阿曽沼広長(遠野横田城主)の配下として最上へ出陣したが、その帰途に遠野では謀反が勃発して、主人である阿曽沼広長の遠野入りが叶わず、広長に従って伊達領の気仙郡世田米に亡命したとされる。
阿曽沼広長の遠野奪還戦は慶長6年(1601)春から晩秋にかけて3度行われたが、いずれも失敗に終わり、阿曽沼広長は伊達領に身を寄せますが、松崎氏は遠野奪還戦2度目となる赤羽根峠の戦いに出陣し、遠野奪還に燃え、大いに奮戦するも乱戦の中、討死と伝えられている。
阿曽沼広長の股肱の臣、興光寺氏と共に広長の忠臣であったと云われている。
主人が居ない松崎館は遠野を制圧した鱒沢氏、上野氏の軍勢に攻められ落城とも伝えられますが、松崎氏縁の人々は、伊達領の人となりその後、気仙沼に健在とのことである・・・確認はしておりません。
後に寛永年間に八戸氏が遠野に入部、遠野南部氏時代となりますが、その初めの部分は八戸氏の家老級である比巻沢氏が館主となり松崎大学を名乗ったと伝えられますが、その松崎氏は後継がなく断絶となり、松崎館の存在価値も自然に消滅といったところかと思います。
麓には阿曽沼時代の開基された天台宗の養安寺があったといわれ、八戸氏が遠野へ入ると養安寺跡には善明寺が一時入ったとされている。
概要
旧川井村小国(現宮古市小国)の主要通りにある大円寺の裏山(東)に残されている。
主郭と二の郭、そして北の尾根に砦風の小さな平場があり、東、西斜面は急傾斜地を形成し、主郭から北側尾根は狭く、二重の堀切で断ち切られている。
主格と二の郭の間は一重の堀切で切断されており、主郭の西側斜面は4段の帯郭が配置されている。
西側斜面(大手)の帯郭
主郭平場
北側尾根の空堀
主郭と二の郭を隔てる掘切
歴史等
麓の大円寺の寺伝によると応永元年(1394)開基と伝えられ、その後、無住となり荒廃にまかせていたが、小国氏祖、彦十郎忠直が再興と伝えられている。
小国氏は最初、同地域の末角に山城を築いていたとされるが文亀2年4月に小国彦十郎忠直がこの地に築館して居館としたが、以来3代続いた頃に隣接の江繋氏との抗争で敗れ没落したといわれる。
小国氏は武田氏系と伝えられ、戦国期は三戸南部氏の配下だったとも伝えられている。
概要
遠野市小友町の地区センター、小中学校の南側山野にあり、長野川と鷹鳥屋川の合流点に向かって東から西に延びた丘陵の突端頂部に主郭が形成され、南、西、北の各斜面には4段~7段の帯郭的な階段状の平場が配置されている。
南、北の斜面は急斜面となっており、山頂の東部分の尾根は3本の堀切で立ち切られ、南北の斜面にそれぞれ空堀となって下っている。
西斜面は7段の平場が展開されている。
頂部の平坦地は3箇所確認でき、西端部分の平場が最も広くなっている。
さらに東方向に向かって2~3段の段差及び土塁が施され堀切に至たり、さらに緩やかな斜面を削平しての平坦地、そして土塁、堀切と連続した構成となっている。
なお、麓部分にも若干の段差がみられるが近世においての遠野南部家臣の及川氏の館跡とされ、「及川館」と呼ばれている。
南斜面の段差
山頂平場(西端)
北側斜面の段差
平坦地背後の段差
堀切
堀切は三重となっている。
歴史等
館主は本姓を菊池喜左衛門、地名から奥友喜左衛門とも小友喜左衛門とも伝えられている。
戦国時代末期から慶長年間の人と思われ、遠野阿曽沼氏が没落し、南部利直に仕えたともいわれますが、慶長19年、大阪冬の陣において徳川方の南部利直に従った遠野勢156人のうち小友喜左衛門は15人を引き連れて参陣しており、一地域における実力者であったことが伺えます。
また小友地方は気仙郡、江刺郡と隣接しており、これらの地域からの金山地帯が続いている地域で、遠野における最も栄えた産金地帯であり、交通、軍事のみならず経済も含み最重要拠点であったことは確かで奥友館の位置付けも極めて重要であったものと推測されます。
後の江戸時代には、産金でさらに栄え宿場町が形成されるなど、産金に関わる伝記等も多い。
館主の小友喜左衛門は大阪の陣から戻ると奥友館は葛西浪人であった及川氏に奪われ遠野城下に住まいしたともいわれるが、太守南部利直による阿曽沼旧臣達を追いやるための策謀とも語られますが真相は不明である。
概要
大巻館は、紫波高水寺城より東南へ約3キロ、北上川河岸の大巻の山野に残されてる。
南北に深い谷が走り、東方は尾根続きの要害堅固な地であり杉林の斜面には2段の帯郭的平場が展開され、館域は、ほぼ南北に3郭が連なり、郭の周囲には空堀が巡らされ北側の郭には土塁及び内堀が残されている。
北側~西側斜面には3~4段の削平された段状の平場が展開され、一部竪堀もみられる。
遺構ひとつひとつは大きめで、よくその姿をとどめている舘跡でもある。
本丸跡
本丸下(東側)の帯郭
北東側の切岸(空堀)
二の郭下の空堀・・・中央は三の郭
二の郭から本丸東側
河村一族
館主一族は河村氏歴代と伝えられる。
大巻館の河村氏は鎌倉時代末期、河村秀清の五代の孫、秀興が分家し、この地を本拠としたとも伝えられるが河村四郎秀清が文治5年(1189)平泉の藤原氏追討の功により源 頼朝より斯波郡内を拝領したことによるとも云われている。
南北朝時代、南朝方として北の南部氏と共に活躍し、北上川河東地域に勢力を拡大し、岩手郡内にも広く浸透したことにより、一族といわれる玉山、川口、大萱生、栃内、江柄、手代森、日戸、渋民、沼宮内の各氏が分族したと伝えられている。
後に南北朝時代後半、北朝方の斯波高水寺、斯波氏に圧迫され、大巻館の河村氏は徐々に斯波氏の勢力下に組み込まれて後に家臣団化されたものと推測されますが、斯波氏によって大巻館の河村宗家は郡内の佐比内へ移封されたと云われている。
概要
東側山野の突端部分に北側から南側にかけて空堀で周囲を囲み、下部部分は北側には数段の帯郭的平場を配し、西側部分急傾斜となっており上部に虎口跡と思われる痕跡が確認でき、東部分は、なだらかな丘陵となっており、数段の帯廓跡がみられる。
主郭付近
東側から主郭を望む
西側虎口跡
北側空堀
館の歴史等
館主を南 右近(阿曽沼氏家臣)と伝えられる。
遠野の古刹、臨済宗東禅寺の末寺と云われる小友町の常楽寺は、創建当時の草庵は此処南館の一角にあったと伝えられている。
常楽寺の開基が1417年と云われ、その前後に築館或いは使用されていた館であろうという見解が示されているが、おそらくその年代辺りであると推測される。
南 右近なる武将及び南館の事績は不明であり、多くは伝えられていないが、同町の西側に駒木左近なる武将が居て(香木館或いは駒木館)南右近と並び称される館主であったと口伝されるのみである。
ほとんど休眠状態でありましたブログですが、間もなく、城館跡探訪シーズン到来ということで、更新の再開を予定しております。
もう少しだけお待ちください・・・。