概要
西門館は別名みさ崎館とも呼ばれ、北東の高清水山からの尾根の南西突端に築かれた山城である。
国道396号線沿いに位置し、主郭、二の郭のふたつの郭をもち、主郭側は二重の空堀で周囲を囲み、主郭背部の堀切は三重堀で、堀と堀の間には土塁がみられ、堀は複雑に交差している。
主郭下は3段の帯郭的平場が展開され、さらにその下部にも3段程度の平場が確認できる。
主郭部と二の郭は一重の堀切で区切られ、二の郭の平場には八幡社が祀られている。
さらに南西側に平場は伸びており、その先端部には3段の平場が階段状に残されている。
見張場的な郭だと推測されますが、猿ヶ石川沿いの綾織町や宮守町上鱒沢地区が遠望できるロケーションとなっている。
北側尾根の空堀跡
堀切と土塁跡
主郭下の帯郭的平場
主郭と二の郭を区切る堀切跡
二の郭南西突端の段差
八幡社
歴史等
館主をみさ崎(みさは身鳥)氏と伝えられ、みさ崎右京という館主名が語られる。
遠野郷地頭となった下野国佐野の阿曽沼氏は、当初、重臣の宇夫方氏を地頭代として派遣しての遠隔統治だったと伝えられる。
直接統治を任された宇夫方氏にとって、遠野西方の土豪としてまずはみさ崎氏を服従させる必要があったといわれ、遠野入部初期の課題といえそうでもある。
伝えでは、宇夫方氏の娘をみさ崎右京に嫁がせ、婚姻による同盟で平和的に関係を解消させたといわれますが、鎌倉時代末期には宇夫方氏は綾織町の西方面に勢力浸透を行い谷地館を築いて居館としたといわれますので、早い段階でみさ崎氏を勢力下へ取り込んだものと思われます。
しかし、みさ崎氏の西門館は極めて戦国的な構えの館跡と感じられ、宇夫方氏入部当初の西側強豪勢力のひとつという考え方が成り立つかは不明な点も多くあってよくわからないが現状でもある。
掘った土が土塁に転用されていないのが面白いですが、郭の盛り土などに使ったのですかね。
いくら時間があっても足りないぐらい、読み応えがありますね。
続編…楽しみにしています。
我々でいう遠野規格というやつですね・・・笑
背面の堀切を複数設ける、防御性を吟味した内容・・・ここも3重で堀が交差したり土塁となったり複雑です。
火渡館のものとかなり酷似しております。
おそらく土は転用したものと思ってます。
ことちで細々と展開させております。
といってもまだ本格的に稼働しただけで、まだまだ掲載箇所が少ないですが、今後、追加して参りますので、よろしくお願いします。
こちらでの内容で興味がある館跡がありましたらご一報ください。
ご案内申し上げます。
誤字脱字、すみません。
この謎の「みさ崎一族」にも…興味をそそられますね~。
重ねてよろしくお願いします。
遠野の歴史の謎の部分、足で稼がなければなかなかその解明といいますか、触れることはできない分野、地域に入り込めれば何か得ることも可能とは思いますが、ひとりでは難しいですね。